2
まだ日が昇りきっていない町は清々しく、エリカは足取り軽やかに仕事場へと向かう。
今日まで仕事がもらえているのは、仕事先の主人がいい人で、とてつもなく世話焼きな人だからだ。
この人がいなければ、エリカは当の昔に路頭に迷っていたことだろう。そんなこともあって彼女は日々感謝し、今日も今日とてお針子作業に精を出している。
そもそもエリカはここの生まれではない。町外れの森近くに居ついた流れ者だ。それもいつ住み着いたのか誰も知らない。十年前のある日、いつの間にか母子で生活していた。
父親はおらず、母親も異国人であるとわかる顔立ちとあって、当時は誰もかれもが彼女たちを嫌って近づく者もいなかった。彼女たちも仲良くなろう行動することもなく、お互い不干渉していたらしい。
その関係が変わったのは、居着いてから一年後。当時の町長の娘が森でケガをし、それを手当てしたことだった。
近づくなと言われていたよそ者の家で手当てされ、家まで付き添われ帰宅した。それだけでも怒られるのに、立ち入るなと言われていた森に行きケガをしたとあって、町長はそれはもう怒り心頭といった状態だったという。
その後、町長の娘は一か月外出禁止を言い渡され、半ば軟禁状態で過ごしていたと聞いている。
しかし話はそれで終わらなかった。町長の妻が、娘の手当の際に使われた布に目を止め、それがとても丁寧で美しく仕上げられた刺繍のついた生地であると気がつき、町長と共に親子の元に来た。
名目は娘の件のお礼。実際頭を下げお礼を述べたが、目的は他にもありそれが本題だと言う。
娘の手当てに使われた刺繍いりの生地はどこで手に入れたのかと夫人は聞き、エリカの母親は拙い言葉で自身で刺繍をしているものだと答えた。
実はエリカの母親は、腕のいい刺繍職人だったのだ。ただ夫が亡くなり、夫の両親とも折り合いが悪くなり家を出てきていた。異国人である自分ではどこにも居場所がなく、流れ流れこの地にたどり着いたと語った。
そんな不憫な境遇に同情した町長夫人は、夫に頼みこの親子の世話をすると買ってでる。町長も親子の境遇にやや同情をしたのか、夫人の頼みを了承した。
今まで収入はなく、溜めていた金を切り崩して生活していたエリカ親子は、夫人の紹介で衣装店に雇われることになった。衣裳店の店主はとても気のいい男性で、そこで母親は刺繍を任され、エリカは縫製を学ぶことになった。
こうして町長一家の庇護下に入ったエリカ親子は、徐々にではあるが町に馴染んでいき今に至る。
足取り軽く目的の職場についたエリカは、裏手の従業員用の出入り口から中に入る。
今日は一番手らしく、店内に同僚の姿はなく少しだけホッと息を吐き出した。
「ああクッソっ!マジあちぃ!」
そう言うとエリカは首に巻き付けていたスカーフを乱暴に解き、髪をかき上げる。
傍から見たなら美女がはだけ始めた光景だろう。だが彼女の口から出たのは艶やかで低い男の声。そうエリカは女ではなく紛れもない男だった。
「なんで今日に限って、襟付きの服みんな洗濯してんだオレ」
エリカの住んでいる国は大陸の南に位置し、田舎町アルダートは国の最南端にある。つまり常に温かい。しかもここ一年は温かいを超し暑い。
そんな気温の中、襟付きの服は暑くるしくて仕方ないが、身体的特徴を隠すのには必要。しかし四日前から昨日まで降り続いた雨のせいで、今日まで洗濯できず手持ちの服全て着つくしてしまっていた。
結局、二年前に亡くなった母の服を借り、首はスカーフで隠すことにしたが、やっぱり失敗したとエリカは顔を顰めた。
「これじゃ皆と作業どころじゃねえし、これ渡したら帰るか」
理由は連日の雨で風邪をひいたでいいだろう。室内でスカーフを巻いたまま作業は不審を招くが、これなら誰にも会わずにすむ。
そうと決まれば、ワンピースをフリッチに渡し納品を済ませようと、従業員控室から社長室に向かう。
こじんまりとした店のため、従業員室と社長室は隣同士。数歩行けば目的の部屋にすぐに着く。軽くノックすると部屋の中から「入れ」と声がかかった。今日は社長も出勤が早かったらしい。
「おっはようフリッチさん。これ例のワンピース」
「おはようさん。今日はえらく早かったな」
「そりゃ、こんな大事な品物任せてくれたからには、早く見てもらいたいじゃん。で、どうよ?」
抱えていた風呂敷から若草色のワンピースを出す。襟や袖にレースがあしらわれ、裾は繊細に刺繍が施されている自信作。
それを見たフリッチと言われた男は、しげしげと確信し二カッと笑った。
「こりゃすげぇ!今回えらく力が入ってるじゃねえか!マリちゃん喜ぶぞ!」
「いつも世話になってるのに、これくらいしかお礼できねえしな。じゃあオッケーってことでいいよな」
「おう!ちょっと待ってろ。今報酬を渡す」
いそいそと金庫から報酬を取り出すフリッチから視線をワンピースに移し、エリカは目元を緩めた。
若草色の力作ワンピースは絶対あの子に似合う。三つ年上の食堂の一人娘は、昔から何くれとなく面倒を見てくれ、母が亡くなった時には、気落ちしていた自分を励ましてくれた姉のような存在だ。
そんな彼女の晴れの日に着るワンピース。結婚を聞いた時、彼女の衣装に少しでも関われればと思っていたが、まさか少しどころかガッツリ関わることになるなんて思いもしなかった。
襟と袖には縁起のいいリンデンの花をアレンジしたレース。裾も縁起のいいアーモンドの花をあしらってみた。彼女には幸せになってもらいたい自分なりのお祝いの形。
少しだけ寂しいと思うのは、姉のような存在だった彼女が結婚するから。そして彼女が自分の初恋の人だったから。
エリカの本来の性別を知らない彼女からすれば、きっと自分はカワイイ妹分だっただけ。それでも、あの感情は紛れもなく憧れであり初恋だった。
「ほら今回の報酬だ」
「わお!今回なんか多くねえ?」
「一人娘の大事な祝い事だからな。親父さんが奮発したんだよ」
「食堂の親父さん!ありがとう!」
久しぶりに肉が食べられる。今日くらいは贅沢してもいいだろう。
それに風邪を理由に仕事を休んでしまう予定なので、せっかく招待してくれた祝いの席に参加はできないが、間接的にお祝い品を贈れたので良しだ。
エリカは硬貨が入った袋を受け取ると、「今日の仕事、風邪で休むから」と一言言うと立ち上がる。
「ん?風邪ぇ?」
「風邪。これじゃ出られねえだろ」
「いつものはどうしたんだ?」
「洗濯中」
「ああ……。昨日まで雨だったもんな、しょうがねえ皆には俺が伝えとく」
「ありがと」
やれやれと肩を竦めるフリッチに笑顔で返し、用事は終わったとエリカは鼻歌をしつつ社長室後にした。
その後ろ姿を悲し気に見ながら、「お前も本来の姿で幸せになれる日がくるといいな」と呟いていたことは知らずに。