鬼女の夜 卯乃美子
「如何したの?
「駄目だよ、こんなとこに居たら。踏まれちゃうよ
「ほら おいで
廊下でじっと動かずに丸まっていた小さな黒い蜘蛛を、優しく手で掬い取り
「良い子だねぇ。お外に行こうか」
そっと両手で包み込むと
「ゲ、キモ。何か虫と喋ってんだけど」
「マジぃ?」
背後から聞こえて来た声に、息が詰まり 其処から一歩も動けなくなった。
「つか誰?」
「卯乃でしょー。卯乃ムシコ」
此処から立ち去りたいのに 動けない。足が 動かない。
「ちょソレ、マジなヤツ?」
「あー、まってまってゴメン 卯乃美子だわ」
背中に浴びせられる甲高い嗤い声に 額からじわりと滲み出した汗の玉が、不快に顔を伝い落ちた。蔑んだ目が見ている。標本の昆虫の様に、冷たく光る視線の針に刺し貫かれて
息が 出来ない。
やめて
見ないで 私を 見ないで ―
不意に嗤い声が止み、辺りがしんと静まる。空気が一変したのを感じ取った。
真っ直ぐに流れる淡い桜色の髪 蠱惑に満ちた蒼い眸が陽射しの中に耀き 涼やかな風に乗って歩いて来る。
少女は愛らしい笑顔で、級友達と挨拶を交わし合った。
シックな黒のワンピースが、華奢な体に良く似合っている。
其の眸は 暗闇を照らす
少女は 美しき青い蝶だ ―
「目力強過ぎて、怖いんですけど~?」
其の声にはっとする。何時の間にか 卯乃美子の目は少女を《《捕らえ》》
「あんまりこっち見ないで下さぁい」
声音も、表情も、柔らかな笑みで溢れているのに 其の蒼い眼に凍り付かされた。
方々から くすくすと嗤う声が聞こえて来る。誰も気が付いていない。
見えているのは 「自分」だけ。少女の蒼い眼が 「自分」の心を見透かし
「相手が悪いと思いますよ?」
笑顔の裏に 誰も知らない「本性」を垣間見せた。
嗤う声は 幾重にも重なり
歪んだ視線の網に捕らわれて 其処から逃れられない ―
「何か 急にお腹痛くなって来ちゃって~ …
弱々しい吐息を漏らしながら電話をする少女の傍らで 声を押し殺して笑う。
「はぁい。すいませ~ん、有り難う御座いまぁす」
そう言って通話を終了させると、べっと舌を出し 吹き出した二人は互いの手を叩き合った。
下校後の学院から抜け出す最も簡単で効果的な方法は「アルバイト」だ。
社会勉強と言う名目で申請すれば 手に入れた証明書で、堂々学院の門から出て行ける様になる。
少し頭を働かせれば思い付く様な案だが 学院の方でも学生の単純思考を承知の上で 羽目を外し過ぎず、学業に支障が出ない程度なら と大目に見ているのだろう。
就業先は何処でも良いと言う訳には行かず、学院側の審査は厳しいが 承認さえ下りてしまえば、後はこうして上手く立ち回り 自由な時間を得る事が出来る。
少女達は意気揚々と街に向けて歩き出した。
廃工場ばかりが続く 鬱蒼とした闇の中も 少女達には古巣であり、何の恐れもない。
たわいのない噂話で盛り上がり 暗闇に黄色い声を張り上げて、月のない夜空に笑い声を響かせる。
人影を見つけたのは
黒い建造物が鬱蒼と立ち並ぶ 其の一角 其処だけ別世界への入り口の様に 白く切り取られた 廃墟と街の境目
「え誰か倒れてんだけど」
歪な細い影が 手を伸ばしている。近付いてみれば
「… ムシコじゃね?」
何だ と二人は塵でも見る様な目付きで、倒れている少女を見遣った。
「た … 助 け、て
卯乃美子
針金の様に細い躰。腰まである長い髪は ろくに手入れもしていないのか、何時もばさばさで 前髪が目を覆い隠し、虫を相手に気味悪く嗤う口元だけが見えている。陰気さしか感じられない影の住人だ。
あれで働き口が在る事に驚かされる。
「何 助けてって」
「地面に擬態して遊んでんじゃん」
虫好きの少女を揶揄した言葉に、揃って吹き出した。
「助けて … くれないの?」
夜な夜な動物の死骸を持って歩いている そんな噂話から始まり、其の內
周辺で失踪者が出る様になった。
そう 確か、卯乃美子のルームメイトが最初だ。
そして 陰気な此の少女を虐げた者達。
猟奇的な陰口はエスカレートし、面白半分に飛び交わされた。
卯乃美子は 月のない夜に、廃墟で飼っている蟲の餌にする人間を連れていく
唯の噂話だ。 唯の
「そうやって嗤うだけで
「助けてくれないのね
体を起こした卯乃美子の 長く細い黒髪が、蜘蛛の網のように広がった ― 様に見えた。
何処かから キチキチキチ と小さな声が聞こえて来る。
自身の心が警鐘を鳴らしているのに 体が動かない。
「良いわ。助けてくれないのなら
「助けてあげない」
其の蒼い眼から 目を離せない ―




