マキリの著
親を失う理由は様々で 「孤児」とされる理由も様々だ。
ネグレクトや事故死 ― それに
物心ついた時から親の存在を知らず 廃墟で「狩られた」子供達。
黎明天生 とやたら長い名前の学院は 主に廃墟から(強引に)連れて来られた「孤児」達を集めた学校で 寮も完備されており
養子に入った「孤児」も含め 幼少期から成人するまで面倒をみてくれる。
と聞けば感動ものだが 裏には蒼蓮会の存在があり 卒業後は構成員としての末路しかない、と専らの噂であった。
真夏日の陽光は容赦なく校舎に照りつけ 窓際の席に座る弐弧を焼き焦がそうとしている。
樹皮色の髪を一房束ね 残りは肩に落ち、顔にもだらしなく垂れていたが 直す気にもならなかった。
今は何をする気力も失っていた。心はがらんどうの様に 何も無い。
如何する事も出来ない現実から目を背け 考えない様にして防御している。
マキリは ―
黒い灰ではなく 黒い蝶が廃墟に疫をもたらす、としていた
弐弧の指は「マキリの著」をスマホの画面に呼び出していた。其の儘、見るとはなしにページを繰り続け ある画像に来た時 指がぴたりと止まった。
マキリは廃墟で見た「禍い子」と呼ばれる 所謂バケモノの絵をサイトに載せているのだが
実際に見たのか マキリ本人が描いた絵なのか 全て不明で 見ている者も大半は信じて等いないだろう。
だが 此の絵は ―
タイトルは「サビ猫女」とあった。
黒い皮ばかりになった女の顔の半面に、猫の顔が浮き上がり 繋がった口が側頭部まで大きく裂けて、三つある目は血の如く紅い。
窶れた黒い躰は前屈みの姿勢で 長い手足が四つん這いになろうとしている。
破れた布を後ろに引き摺って 其れが尾の様に見えた。
縺れた錆色の頭髪 ― 女の顔は サビ子に似ていた
髪が錆色をしていると言うだけで、単純にサビ子を連想した自身を嘲笑おうとしてみても 目は 黒い絵の中で 朽木の様な女の足に絡み付いたリボンを凝視している。
靴は無かった。
全身から血の気が引いたのが分かる。
周りの声も耳に入らない。
始業のベルが鳴った時には もう教室の何処にも弐弧の姿は無かったが 気に掛ける者は無く クラスメイトの一人が姿を消した所で 口に上る事も無かった。
トンネルを抜けた先に在ったのは 何時もと変わる事のない景色であった。
空の色を巨大な太陽に奪われた廃墟は 白と黒の切り絵の様に、作り物じみていた。
音も無く 其処に生きる物も無い 「無」の世界
だが 今日は廃墟が孕んだ陰惨な気が大気中に侵蝕し 見えない「何か」が、近付く者を捕えようと触手を伸ばして辺りを探っている。
強烈な陽射しが地面を白白と照らす中
弐弧の黒い影が、廃墟に向かって長く伸びている。
汗で張り付いたシャツの不快な感触。
全てを焼き払うかの如き灼熱の陽光を、背中に浴びているにも拘わらず
流れる程の汗をかいているのにも拘わらず 全く暑さを感じていなかった。
体を伝う汗は冷たく感じられた。
今から目の当たりにする事は 此れ迄に無い恐怖に満ちたものになる、と体が教えている。
夢遊病者の様な足取りで 向かう場所を知っているかの様に弐弧は歩き出した。
近付くにつれ 心臓が張り裂けんばかりに激しく動悸し、息が苦しい。
罅割れた煉瓦の道に、洒落たカフェのある通り。
床一面に造花が散らばっている。其の花はみな鮮やかな赤色をしていた。
吐く息が震えた。
白白とした地面に 赤い水溜まりが円を描き、じわじわと這い広がっている。
赤い布がかけられたテーブルの上に 一塊の赤黒い「もの」が無造作に乗っていた。其の中に混じったステンレスの腕時計が、鈍い光を放っている。
どくん、と心臓が跳ね上がり そして固まった。
― 分かった分かった。こう言う事だろ?
胃から喉へと込み上がって来る。無意識に手が口を塞いだ。
全神経を眼前の光景に奪われ 体は麻痺した様に、其の場から動けない。
鉄製の白いガーデンチェアの一つに、サビ子が背を向けて座っていた。
静寂の中に 耳を塞ぎたくなるおぞましい音が響いている。
がりがりと固い物を噛み砕き ぐちゃぐちゃと咀嚼する。不意に 音が消え
「誰 … ?
「茶々丸?」
返り血を絡ませ、縺れた錆色の髪の間から 紅い眼が背後を振り返った。
何も無い。澱んだ大気は動かず 動く物は何一つ無かった。
其処には、唯々白い地面があるばかりで サビ子は暫し様子を窺っていたが
ふいと向き直ると また肉を喰らう事に没頭した。
口を両手で押さえ ― そうしなければ叫び出しそうだった ― きつく目を瞑って、壁に背をつき座り込んでいた。
どう逃げて来たのか覚えていないが 体は勝手に動いていた。
冷たい汗が幾筋も流れ落ち 全身を不快に伝う。震える体を止められない。
「あれ」は サビ子に違い無かった。
そして テーブルに乗っていたのは ―
其の答えを頭の中から追い出そうとしたが、上手くいかず
声にならない嗚咽を漏らした。
色んな感情が入り交じり、頭の中を渦巻いている。何一つ考えがまとまらない。
今の状況を俯瞰する為には、頭の中にある答えを認めねばならない。
其れは最も残酷な事だった。
びく と体が硬直し、暗闇に目を見開く。
何か聞こえた様な気がした。
感覚を研ぎ澄ませ、辺りに集中する。早鐘の様に打つ自身の鼓動が、煩く頭に響いて来た。
中の物は粗方運び出され がらんとした廃ビルの一階。
壁や天井が所々剥がれ落ち 瓦礫が雑然と床一面を被っている。
奥の壁に、水着姿の女性のポスターが貼られていたが 上部分が破れ、女の顔は下半分だけになっている。
女は赤い唇を薄く開いて嗤っていた。視界に入っただけで気分が悪くなり 弐弧はポスターから目を背けた。
硝子のない窓の外に 細い鉄骨が蔓草の様に力無くぶら下がっている。
扉が無いので 各部屋はある程度見通しが利く。
目は、ある一点に注がれた。
隣の部屋の奥の暗がりに、長細い「もの」が転がっている。
横たわった人間 ― の様にも思え
弐弧はそろそろと立ち上がると 奥の部屋に慎重な足取りで向かった。