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鬼禍刻  作者: 亥乃沢桜那
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序章 黒い蝶

「此れは此れは。… 矢張り来たか

「相変わらず早耳だ」


端麗な顔に薄く笑みを浮かべ 男は天を逝く星を見上げた。

白い吐息は 凍てつく大気の中を優雅に泳いでゆく。


養父とう様?

「如何なさいました?」


朱塗りの盆に硝子の酒瓶と肴を載せ 足音もさせずに運んで来たのは

後ろを襟足で真っ直ぐに切り揃えた、艶やかな黒髪 澄んだ眸の奥に、凜とした心を秘めた美しい少女。


「… いいや

「お前は気にしなくて良いよ」

「さあ、もう寝なさい」


「はい」

少女は男が座る縁側に盆を置くと 従順に引き返し

「養父様」

二、三歩進んだところで、ふいと足を止めた。後ろを向いた儘、男に声を掛ける。

「ん?」

「… 私との約束、覚えていらっしゃいますか?」

「ああ、確か  ≪《はんばーがー》≫とか言う物を食したいのだったな?」

「はい

「明日の私の誕生日 一緒に祝って下さいますね?」

「勿論だ」


振り返った少女の笑顔は 雪灯りの様に耀き

「必ずですよ 養父様

差し出された小指は

「ゆーびきーりげんまん

二人の心を繋げた。



漆黒の天から 黒い灰は止め処なく降り頻り 雪の様に積もる事も無く

唯 地に吸い込まれて消えてゆく。


果てしない闇の世界


天地も失われ 声も届かない。穢れた大気に 息も出来ない。

瓦礫に足がぶつかると男は低く呻いた。

目が見えない。

喉から絞り出る様な短い呻きが漏れたが もう 言葉にはならなかった。


男は自身の責を果たすべく 気力だけで歩き続けていたに過ぎなかった。


凍える月の 冷めた白光が  白い大地に続く、紅い血の跡を鮮明に照らしている。

月を背に立つ人影が 忍び寄る様に長く伸び 男へと向かったが

男は 自身の躰が凍り付いた事にさえ 気が付いていなかった。

刃に貫かれ 魂を失った躰は 青白く耀く氷片となって吹雪の中に攫われていった。


胡座を搔いて瓦礫の天辺に座る男は 煙草を薫らせながら、同胞の最期を見届けた。

静かな其の顔は 何を想うのか。

其の蒼い目は 影に真っ直ぐに向けられ 同じ様に、影の蒼い目が男を見返した。




其処は 静かで何の音も無い


躰は冷え切っていて 何の痛みも感じなかった

闇の中に倒れ 目を閉じていても

紅い血が 躰の下から広がってゆくのを感じている


其れは 夢の中で 数え切れない程見て来た光景だ


夢 ― ? 本当に そうだったろうか

もう 何が本当の事なのか分からない


誰かの声が 聞こえる


せ  ろせ   ころ せ


大勢の人間が 口々に 叫んでいる


ころせ


闇の中から 大勢の手が 少女に向かって伸ばされて来ると

四方八方から掴まれた


躰が 引き裂かれる ―


少女は目を見開き 自分を掴んでいるものを見た。

闇の中から 節くれ立った黒く歪な腕が 獲物を捕えた蜘蛛の様に

尖った長い爪を少女の細い首に食い込ませ ぎりぎりと締め付けている。

巨大な血の眼が少女を見ている。

どれだけきつく目を瞑っても    凶虐な輝きを帯びた紅い双眸が消えない。


何処かで

其の眼を   見た事がある


何かが少女の中で呼び覚まされようとし 少女は其れを拒んだが

深く沈んだ記憶の底から  其れは頭を擡げ 閃光の様に切れ切れに蘇ってくる。


忌まわしい 血の記憶


夥しい血が足元を流れ 大地は 黒く歪な屍で覆い尽くされている。

人も獣も 生けるものは無く

屍の中に一人立つのは 少女自身だった


ばけもの  ― 


貪欲なまでに 血を欲する紅い其の眼が ― 少女の中に入って来る。


だが 心の何処かで、其れを望んでいる。

少女を虐げる者達に報いを与える「力」を 渦巻く黒い感情が「残虐な力」を欲している。

其の一方で

心が飲み込まれて 血に飢えた獣の様な、悍しい感情が躰を支配し 自分が失われてゆく事に恐怖した。

どくん どくん   と脈動する音が更に大きく 激しい頭の痛みと一緒になって響いた。

頭が  割れる様に痛い。

締め上げる手は恐ろしく冷たくて 引き剥がす力も もう、失われようとしている。 

花弁が散る様に、床がはらはらと崩れ落ち 白い破片が奈落に吸い込まれて消えてゆく。


どくん   どく ん


黒い蝶が少女の長い髪から舞い上がった。幾匹となく 其れは数を増し ―

蝶を映す少女の目はやがて虚ろになり 抗う手は力を失い 床に落とされた。

首を絞めていた手は消え  頭に響く声も消えて    唯 静寂だけが在った。

冷たいコンクリートの床の上に倒れ込んだ少女は 震える手で喉を押さえ

半ば開いた口から 声は出ない。

戦慄く唇から一筋の血が伝い 床に零れ落ちた。


躰から 止まる事の無い血が流れ出してゆく


黒い痣が、少女の躰を生き物の様に這いながら広がり

血溜まりから、紅い蝶が飛び立った。闇に触れると黒く染まり、音も無く飛び交う。

黒い蝶は闇に溶け込んで 深い闇と為り   闇は黒い蝶を無数に生み出した。


遠くに  「映像ヴィジョン」が見えた


聳え立つ屍に舞う 黒い葬列     其れは 少女を求め ―

黒い蝶に躰を喰い尽くされた少女は


    深い闇の中へと 堕ちて逝く


其処は

音の無い世界


何も聞こえない  嗤い声も 罵る声も   自分の鼓動すら掻き消えて

傷つける誰かも居ない   痛みも 恐怖も無い 


目を閉じれば

もう  二度と 目覚める事も無い



誰かが


ト ―


呼んでいる

私を

あの人が くれた名前 ― 


吹き荒ぶ風雪に乗る翼は 聳え立つ高層ビルの間を抜ける。 

鳶の眼は少女の眼となり 闇を飛び越えて 少女は其の姿を捉えた。

少女の禍禍しく耀く紅い眼が其の姿を映す。


聞け

俺は必ずまた生まれ変わる

何度死んでも 何度でも生まれ変わって お前を探す


だから


約束為ろ


お前も 絶対に俺を諦めるな

(死ぬな)

此の世界の何処かに 俺は居るから

俺を見つけるんだ ヲト

(お前は生き延びてくれ)

俺たちは 必ずまた会える ― 



― 零れ落ちる涙が 全てを洗い流し


其の目と少女の紅い目が合った。


― 少女は顔を上げ 灰色の空に手を伸ばした


黒い蝶が一斉に飛び立った後 少女の姿は消え 後には深い闇だけが残った。

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