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鬼禍刻  作者: 亥乃沢桜那
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序章 屍の街

道路に透明な炎が揺らめいている


太陽は真上に在り 歩き続ける幼い少年の影が 色濃く道路に落ちている。

温い汗の絡まった髪の間から 虚ろな黒い眸が微かに動き

不思議な感覚に、少年は ふ と顔を上げた。


遠く   連なる廃墟の一点から 見ている「眼」


腐敗した黒い土壌が露わになった道には 雑草一つも生え無い。

白と黒の景色は 唯 延々と何処までも続いている。


其処は   音の無い世界 -


生ける者は無く  大気は澱み 真夏でさえ凍り付く様に冷たい。

幾本もの錆びた有刺鉄線に隔てられた、街と廃墟の境。


少年の居る場所は 住む者も、もう殆ど居ない寂れた街であった。

廃墟は黒い屍の様に聳え立ち じわりじわりと此の地を浸食している。


白い街の一角で わーんわーんとむず痒い音を立てて 小さな翅蟲が死骸に群がっている。


切り絵の様な 白い世界の中の 黒い異形の影。


人とも、獣とも知れない其の死骸は 音も無く 廃墟の闇の中に、吸い込まれる様に消えて行った。

若しかしたら 自ら入って行ったのかも知れなかったが。

少年の表情は変わらなかった。そんなものは もう幾度となく見て来た光景であったから。

黒い眸はまた虚ろに戻り 足は数え切れない程通い詰めた道を 唯ひたすら行く。


熱射の中で唸りを上げる自動販売機の前で足を止め 痩せた指に握り締めていた汗塗れの

硬貨を入れる。押すボタンは何時も同じ。持っている硬貨に見合った商品は其れしかなかった。

ごとん、と音を立てて 良く冷えた氷菓が取り出し口に転がり出て来る。

包みを開いただけで 中の氷菓は溶け出してゆき

殆ど口には入らなかったが 特に食べたい訳でもなかった。


少年の「母親」は 此の街で娼婦をしている。

客が来る時 「母親」は決まって硬貨を一枚くれた。

硬貨は、客が来るから外に出て行け と言う合図だ。

子供の足だと片道二時間はかかる此の場所まで、少年は歩いて氷菓を買いに来る。

氷菓を買って家に戻る頃には、客も居なくなっている。

物心ついた時から、其れは変わらない。


何時もと同じ 色の無い世界

何時もと同じ 唯 過ぎ行くだけの日常


変わる事も、変わらない事も 何も 望んで等いなかった。




其の少女は 不意に現れた。


降り注ぐ真夏の陽射しを浴びて 影が濃さを増し 歪んだ影が白い道に細く、長く伸びている。少女の顔は見えない。少女が少年を見ている と感じるだけだ。


縺れた髪の間から 少年を見る 血の様に紅い「眼」


ばしゃ

色水と化した氷菓が、音を立てて足下に零れ落ちた。

音に気を取られ 土壌に染みてゆく氷菓から顔を上げた時には 少女の姿は何処にもなかった。

歪な黒い影は、何時も少年の視界に在り

何処からともなく現れ 何処とも知れない場所に消えてゆく。


蠢く蟲は日に日に増えている。いずれ 此の街も闇に沈み逝くのだろう ―


帰途についている時も あの少女の姿が脳裏から離れなかった。

目の前に其の姿が無くとも 少女の紅い眼は、絶えず少年を見ている。

家に近付くにつれ、足どりは重くなり 「帰りたくない」、と躰が言っている様だった。

日は背後で一筋の光を放って消え

光を失った空には 闇よりも黒い蝶が飛び交う。

十 百 千 万 ― 無数の蝶が群れをなし 空を覆い尽くしている。

其れでも

心は何も感じていないのに 何故 こんなにも激しく動悸がして、息が苦しいのか。

何故

階段の上に立つ男の姿を見ただけで どくん、と心臓が跳ね上がったのか。

今までにも「母親」の客と鉢合わせた事は何度かあった。

どんよりと濁った目で、一瞥をくれるだけであったり 何事か怒鳴って蹴られる事もあった。

此の男は 其の誰とも違っていた。

暗がりの中に 男の体は黒い影の様に滲んでいる。否 最早、人とは思えなかった。

「何か」がさざめき 男を蝕んでいる。

階段を下りきった所で 男は音も無く頽れた。


憐れとも、怖いとも思わなかった。感情は何も湧いて来ない。

目の前の光景は 付けっ放しのテレビを観ているのと同じ。

歪んだ黒い影が屍を引き摺って行く。

其の姿を眺めている。

自分とは切り離された世界で起こった出来事だ。

だから 何とも思わない。


何も思わない?  ― そうだろうか


心の内では憐れな屍を前に 様を見ろ、と思っているではないか

本当は

あの黒いバケモノが 何もかも喰らってくれる事を願っていたのではないか


だが 其れはいつも見る夢の中の出来事に過ぎない  本当の事では無い

だから 違う


此れは 違う ―


躰は其処から逃げ出す様に動き 足は金属音を立てて、階段を駆け上がった。

扉を後ろ手に閉める。

二階建てのアパートは 何処から見ても間違えようのない廃屋だった。

黒い斑模様の壁は、所々が剥がれ落ち 壁にしがみついた蔦植物の黒い残骸が まるで血管の様に這っている。開け放しの窓は、枠だけで硝子もなく 破れたカーテンが垂れ下がっている。金属製の階段は赤茶色に錆び付いて、手摺りは土台から外れて浮き上がり 今にも崩れ落ちそうであった。

住人は少年と「母親」の二人きりで 大分前に、灯りは消えた。ガスも、水道も通じていない。

天井から滴り落ちて来る雨水で凌いでいたが 「母親」は機嫌が良ければ、「客」が持って来た手土産を少しだけ少年にも分けてくれた。

散乱した塵に埋め尽くされ 部屋も廊下も区別が付かない程、酷く荒れ果てている。

饐えた匂いが鼻を突いた。閉めきられた部屋は、奈落の底の様に真っ暗で 物音一つしない。

空気が重く、冷たくのし掛かり 少年は扉の前から動けなかった。

不思議な事に どんな闇の中でも少年の視界は変わらず、はっきりと物を見る事が出来た。

闇は少年にとって恐怖では無い。

何時もなら、塵の上を蠅が煩く飛び周り 不快な羽音を立てている。何時もなら、皿の上に幾つも置かれた蝋燭の火が 踊る様に揺らめいている。


何時もなら ― もう帰ったの、と「母親」が気怠げに言う


其処だけが 唯一、部屋として認識出来る奥の六畳間に 横たわる女の体が在った。

乱れた長い黒髪が、じっとりと湿った裸体に絡み付き 黴びた布団の上を這う様に伸びている。

無造作に寝転がった其の体を 蟲が這い回っているのが見えた。

「母親」は蟲を恐れる女では無かった。鬱陶しい と素手で叩き潰せる豪胆さを持っていた。蟲が這ったって鐚一文儲りゃしない そう言って

今まで一度も 自分の体を這わさせた事は無い。

不意に 伏していた「母親」が身動ぎした。

誰かに長い髪を引っ張られでもしたかの様に 勢い良く頭がぐい、と反り

ごきごき、と体を軋ませて不格好に起き上がった。

両腕をだらりと垂らして、膝立ちし 反り返っていた頭が、がくんと前に落ちると 長い髪がばさりとかかって「母親」の顔を覆い隠した。

干涸らびた黒い右腕を 少年に向って伸ばす。

握り締められていた指が開き 金属音を立てて、硬貨が床に落ちた。

車輪の様に回りながら少年の方に向って来る。


「其れ」から目を離せない。


項垂れた女の髪の間から 異様に浮かび上がった真っ赤な唇が見えた。

其の穢らわしい唇から どろどろと黒い蟲を垂れ流し

凄まじい腐臭が澱んだ大気に染み入って 辺り一面に広がっていった。

女の黒い胸元がばっくりと裂け 中から無数の黒い蝶が吐き出される ― 

  

唯 其の場に立ち尽くしていた。


少年の目は 黒い硝子玉の様に、炎を取り込んで暗く耀き 狂乱する黒い蝶を映している。


黒い蝶は狂った様に羽ばたき 闇を飛び交いながら

其の躰を逃れる事の出来ない黒い炎に巻かれ 灰も残さずに消えてゆく。


此処に在るのは 生を得て燃える黒い炎だけ。

炎は少年自身をも燃やした。


今 少年の心は安らかだった。

其れが望みだったと分ったから。


此の世界の全てを 焼き尽くす炎を ―



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