表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/67

第一章・入隊 〜軍隊生活と飛行兵志願〜(7)大東亜戦争に突入

 昭和8年、我が国が国際連盟を脱退した当時、僕は久留米の明善校の三年生だった。全校あげて駅のホームに外相の松岡洋右を出迎え、日の丸で感激の旗を振った。彼は丸刈りの白髪に丸顔が印象に残る。国を上げて戦争突入の勢いだった。

 話は遡るがその前年の昭和7年5月15日、いわゆる『五・一五事件』のクーデターがあった。軍隊の出動で政府の犬養首相が殺害されたりした。

 軍の力が暗躍する中、昭和11年2月26日のいわゆる『二・二六事件』が帝都の空を揺るがした。一部の青年将校の率いる1,500名余りの将兵が【昭和維新・尊皇討奸】を揚げクーデターを起こし、帝都は未曾有の反乱の渦と化した。帝都には戒厳令が敷かれた。反乱軍は帰順させられ、兵隊同士は戦わずして鎮圧された。それ以来、軍の勢力が次第に強まり満州侵略も公然となった。

 昭和12年7月7日、『慮溝橋事件』が北支北京西方郊外で起こった。日本軍が仕掛けた鉄道爆破で先端が切られ、北大営の支那軍と交戦し敗走させて北京市を乗っ取った。蒋介石との協定もうまくいかず次第に事件は拡大し、この年の12月20日に日本では大本営が設置され、いよいよ戦争態勢になった。

 昭和12年8月9日、上海の海軍陸戦隊大山中尉が、保安隊に殺害されたのを因として13日からの交戦状態が次第に拡大し、南京陥落までに至った。日中戦争が本腰となり中国全土に至り、そのまま大東亜戦争に突入していった。

 僕が昭和6年に明善校に入学して、11年に卒業し入営するまでの6年の間、日本の政局や国内外の状態は激動の時局だった。

 以上不備ながらかいつまんで戦局の一端を書いたが、詳しい事は昭和史を紐解いて貰いたい。以下、本題に戻る事にする。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ