表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/67

第六章・終戦 〜興安丸と復員〜(3)興安丸と玄界灘

 やっと夜が白みかけて来た。朝だ、夜が明けたのだ。昨日の朝から歩き、初めて一日中歩いたのだ。だんだんと辺りが鮮明になった。眼下に釜山の港が見えてくる。しかし、港まで行くのにまだ1、2時間はかかるだろう。丘陵地帯から湾までずっと家が詰まっているが、道巾の広い港町である。

 突然、行軍が止まった。何やらごたごたしている。目線の先に米軍がいて何やら指示している。やがて理由が分かった。【身につけている武器を全部置いて行け】との事。将校は軍刀を、僕等は長剱を、兵は帯剱を一ヶ所に積み上げたら先頭からまた歩き出した。これで完全武装解除になった。腰の回りが急に軽くなったが、何かもの足りない。革のベルトが泣いている。


 釜山港には思い出がある。7年前、入営するため下関港から連絡船の興安丸で、この釜山港に上陸して平壌へ向かう汽車に乗った事だった。昭和14年1月11日だったと思う。冬の玄界灘は雨混じりで荒れ狂い、僕等入営兵はひどい船酔いにやられ、船室で転げ回った。翌朝、釜山港に上陸してある神社の境内で休止したが、船酔いの苦痛は生涯忘れられない。

 7年前の軍隊入営のための外地上陸と、今度の内地帰還の上船地とが同じ場所になるとは。しかも、あの時は戦い勇んで入隊した若き21歳の日本男子が、今は戦い破れて故国に帰る淋しさ。一抹の不安はまだ残る。


 どこからともなく噂が飛んで来た。耳に入った噂では僕等の到着(集結命令)時刻が2、3時間遅れたため、部隊長が大目玉をくらったとか。トラックで人員輸送をしないで、食料や梱包を優先し運んだため人員の到着が遅れたとの事。その通りだ、僕等を優先して輸送してくれれば兵隊はどんなに助かっただろう。トラックの輸送運搬の過ちが指摘された事で、兵隊か食料かどちらが先か、その重要さが問われたのだろう。食料は没収され兵員は疲労困憊で、軍の集結時間に遅れた事が悔しかったが、ここまで辿り着いて輸送船興安丸の勇姿を見るにつけ、元気を取り戻した。


 7年前の興安丸よ、良くも無事でいてくれたと目頭が熱くなった。この関釜連絡船には以前、四度乗船した事がある。

 一度目は入営の時、玄界灘は風雨で時化ていた。二度目は操縦学生の試験に合格して藤原軍曹と北鮮会寧から内地の熊谷飛行学校に入校するため、釜山港から連絡船に乗った。この時は南京虫にやられた思い出がある。玄海灘は凪だった。昭和16年1月頃、僕は伍長の金筋一つ星の姿であった。三度目は退院後、加古川の第一錬成教育隊付になり、少年飛行兵五人と奉天飛行廠に飛行機受領に派遣されていた時、朝鮮京城の第二練成飛行隊に配属になった。僕は帰隊後、加古川から一人で汽車に乗り下関から連絡船に乗った。昭和19年7月頃だった。地元人とごちゃまぜの船室だったが、シラミや南京虫の被害はなかった。最後は昭和19年の冬で、第二錬成飛行隊の金浦飛行場より少年飛行兵五名を引率して内地の立川航空廠に、隼機の修理完了機を受領に行った時である。この時は、米、乾パン、缶詰を携行して、釜山から船に乗った。玄界灘は静かだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ