第六章・終戦 〜興安丸と復員〜(1)終戦の詔書
それから数日が経った。天皇陛下の重大放送があるとの事で皆、軍装して営庭の一角に集合した。200人位だったか。樹の枝に括られたラヂオから、陛下の声が雑音混じりで流れていたが内容まで聴き取る事はできなかった。
後で『終戦の詔書』だったと聞かされたが、来るべきものが来たという感じだった。「遅すぎた」そう感じさせるほど、軍の上層部では敗戦を認めず、あくまで玉砕を主張したのではないかと疑問視せざるを得なかった。当初シンガポールが陥落した時点で、講話を結ぶべきだったのを、当時の山下泰文大将が応じなかったとか囁かれていた事もあった。それにしてもよくもこれまで頑張ったものだ。
虚無の解放感が続いた2、3日後、迷彩色に擬装した見なれない上翼双発の連結機が着陸して本部に5、6人の米兵士が入って行ったが、2時間余りで再び飛び去った。それが武装解除の命令伝達らしかった。それを機会に命令は下った。
【我が部隊にある武器弾薬全部を飛行場に並べろ】という事で、翌日からこの作業に取りかかった。飛行場から200mも離れた掩体壕に、上部を網で蔽って隠していた機を、一機ずつ後押して飛行場まで運んだ。大変な労力を要した。並んだ飛行機は大半は隼機だったが、あるにもあった45機余りだったと思う。その中に2ヶ月前、村上軍曹と二人で済州島から運んで来た飛燕機の姿もあった。とうとう未修教育もしないで終わったかと思うと未練が残った。でも、戦闘機に乗る事はもうあるまい。この飛燕機を最後に操縦できた事が何よりの慰めだった。部隊の全機が特攻に出る時は、一機は寺田少尉が乗るにしても、もう一機は僕の乗る機である事は確かだった。いや、おそらく特攻機の空中援護に回ったかも知れない。敵機と派手に空中戦をやっていた筈だった。
そうして2、3日経ったある日、突然の大きな爆音と共に米軍の艦上機約300機が、見事な編隊を組んで飛行場上空にやって来た。第一編隊百機高度500m、第二編隊百機高度1,000m、第三編隊百機高度1,500m、それは見事な飛行である。互いに交差しながら右に左にと旋回し、いわば威圧飛行である。敵ながら感ひとしお、敬服の他なし。航空母艦から飛んで来たらしい。日本軍では、とてもできない技だと思った。以前から米軍の操縦士は編隊がうまいと聞いていたが、その通りだった。これは、米軍の操縦士は豊富な飛行機で充分な飛行時間を稼いでいるからであった。僕等は限られた機に短時間しか乗れず、編隊よりも戦闘技術の訓練が主であった。かつてノモハン事件後、編隊戦闘が叫ばれニューギニア戦線でも重点が置かれていた。10分間余り空を見上げて感服し、米軍の余力にとても勝ち目のある戦闘ではなかったと、ひどく思い知らされた。
かつてラバウル上空で、日本海軍航空隊の花形機『零戦』が初戦には異状なる戦果を上げたものの、同機数の対応なら戦果も得ようが、だんだん米軍は2倍、3倍の数でやって来る内に、零戦も数に押され不利な戦闘を余儀なくされた。1名、また1名と未帰還機を費し、ついには補充ができない末路となった事を思い浮かべた。