第一章・入隊 〜軍隊生活と飛行兵志願〜(5)九七式戦闘機
営内の至る所には大きなポプラの並木があった。枝が上に伸び鮮やかな青葉が覆い繁り天を突く勢いの木々は、いつも見るたびに僕を勇気づけてくれているようで、このポプラをとても好きになった。
内地には見られない木だと思っていたら、串毛小学校の横に3本余り植えられているのを終戦後に見た。しかし樹高はかなり真っ直ぐ伸びていたが、葉が半分も繁っていなくて貧相な姿をさらしていた。内地向きの樹木ではないのだろう。それも今は道路拡張で伐採され跡形もない。
昭和14年7月、一期の検閲が終わってまもなく、僕等は北鮮会寧の飛行場大隊に配属される事になった。訓練にも慣れ、ちょっと一息ついたところだった。
ある日、ポプラの葉陰に激しい爆音と共に小さな飛行機(単葉単発低翼)が、編隊を組んで離陸上昇する姿を見た。初めて目にする単座(一人乗り)の戦闘機だった。
後で分かった事だが、それは新鋭機九七式戦闘機で『ノモハン事件』に出動して行く部隊だった。隊内で生活していれば外部の状況は一切分らないので、それがどこの部隊だったか定かでない。
昭和12年7月、『盧溝橋事件』が起こり北支戦線も次第に拡大しているらしいが、僕等はそのニュースも聞かされない。ノモハンは北満のどこにあるのかも、どうしてその事件が起こったのかも知らない。ただ久しく忘れかけていた僕の“飛行機操縦の夢”が再び燃え上がり、この戦隊に惜しみない声援を送って活躍を期待した。
昭和史から簡単に拾ってみる・・・。
昭和14年5月、外蒙軍が北満西方国境のノモハンに不法越境して満州国軍と交戦し、6月下旬からはソ連軍が加わり激戦となった。ソ連の戦車部隊と砲兵の反撃に遭い敗退し、9月15日、モスクワで休戦協定が成立したが日本軍の損害は甚大だった。
日本軍の空中部隊は、最初は大いに戦果を上げたものの、ソ連軍のミグ戦闘機のロッテ戦法(編隊戦法)により後半の被害が多くなり、これを戦訓として単機戦法から編隊戦法に変わり、戦地では強制された。空中戦闘で何機も落として金鵄勲章を貰った浜田曹長、前畑准尉、垂井中尉はこのノモハンでの殊勲者だった。