第五章・教官〜戦況悪化と特攻隊の出撃〜(9)飛燕再び
沖縄の攻防戦も日本に利あらず、特攻隊の戦果も上がらず。突入する飛行機がないのだろう。夜間に紛れて、赤トンボまでが50kg爆弾を抱えて出撃している状態だと小耳に挟んだ。ほんとうだろうか?信じられない思いだった。
敵艦船に体当たりする『神風特攻隊』の初期は、この特攻隊を護衛して行く戦闘機が20機、30機と同行し、攻撃して来る敵戦闘機から特攻隊を守ったものだった。しかし戦闘機も1機、2機と未帰還となり、しかも敵機は2倍、3倍の数、こんな不利な戦闘に、ついに護衛機なしの特攻隊となったものと思われる。内地防空に主力が置かれ、沖縄戦の敗戦を認めざるを得ず地上戦に移ったものと想像される。
金浦飛行場は大型機の使用が多くなり、僕等の部隊は再び南方の水原飛行場に移動した。訓練といっても急角度からの艦艇攻撃法ばかり。訓練は午前で終わり午後は掩体壕作りで、飛行場から100m、200mと離れた所に飛行機を押して運び入れ、機体に網を被せ偽装する作業が毎日続いた。
ある日、特筆すべき命令が伝達された。済州島に飛燕2機と隼1機が整備されているらしく、僕の部隊が受領する許可となったらしい。隼機は誰でも操縦できるが飛燕機の操縦は寺田少尉と僕等と村上軍曹(少年飛行兵)の3人しかいないので、誰を派遣するかを上司で協議されたらしい。結局、僕と村上軍曹とが飛燕機の受領者になった。隼機受領者の将校と3人、将官が済州島視察に行くという輸送機に便乗して飛んだ。
済州島には航空廠があり、整備も充分だった。僕等が受領する機は他の部隊が輸送移動の際、故障等で置いて行った機であったらしい。ニューギニアの戦地で自由に乗り回していたが、負傷してもう1年7ヶ月も飛燕機には乗っていない。不安と喜びとが入り交じり合っていたが、「何くそ、怖じけてどうなるか、お前は飛燕機の操縦士でないか、飛べ、飛んでみよ、機は完全整備されている。行け」と自分を鼓舞した。地上滑走をしながら忘れかけた感覚を呼び戻した。エンジンの音、計器の針、操縦桿の感触、すべてを蘇らせ出発点に着いた。
出発の合図と共にレバー全開で直進した。「重い」隼機との比でない。速度が120km/hとなったところで静かに操縦桿を引いた。浮いた。重い機体が地上を離れた。良かった、嬉しかった。脚を引っ込め10分余り飛行して無事着陸した。慎重に操作したのが良かったのか、無理なく接地できてほっと胸を撫で下ろした。
次の村上軍曹と交替し充分に注意指導して、僕が試乗した機の離陸を見守った。彼は僕より操縦歴はぐっと若いが、よく注意を守り試験飛行は成功した。僕はもう1機を試乗して故障がないかを確かめた。隼機の受領者の将校も試験飛行を終わり、3機で帰途に着いた。隼機と飛燕機との速度が異なるため、僕と村上軍曹は隼機の上を蛇行しながらついて行った。
1時間余りで水原飛行場に無事着陸した。整備兵も初めて飛燕機を見て感動していた。さっそく飛燕機の修得訓練を実施したいと隊長彦坂大尉も張り切っていたが、掩体壕深く隠蔽して終戦まで飛行場に再び姿を見せる事がなかった。
終戦直後、兵器引き渡しで30数機を飛行場に並べた中に、淋しく2機の飛燕機が並んでいた事を思い出す。
昭和20年1月1日、京城金浦飛行場にて元旦を祝した。僕は部隊の先任下士官として1月1日新年を祝し、次の言葉を祝辞として部隊長に申言した。「朝鮮第九十三部隊陸軍飛行兵原口曹長は無位無官判任官一同(120名余り)を代表し謹んで新年を賀し奉る」と。部隊長高梨中佐は「この旨ただちに電報にて宮内省に伝達する」と答礼された。僕は初めての指揮を取り緊張した。しかし、無位無官判任官という勲章のない自分の官名が淋しかった。下士官でも勲章を持つ者はこの限りに非ずであった。新年を賀し奉ったあの指揮号令の絶叫が華だった。