第五章・教官〜戦況悪化と特攻隊の出撃〜(5)申告と鈴鹿越え
1日も早く金浦に帰らねばならず、2泊の行程が4泊となったので部隊でも心配しているだろうと気を揉んだ。しかし考え直してみると、予定の時間通り前向きに途中下車を考えず行程のままを実行していたら、食料の心配もなかったかも知れない。原隊ではその量だけを米を携行させたのだから、僕の計算が負の方向へ回った結果となり反省させられた。翌日は一気に加古川、雁ノ巣と燃料補給し、夕方は金浦飛行場に降り立つ事を無事を祈るのみ。
書き遅れたが軍隊では、出発に先立って「何々のためどこどこへ何の目的で行きます」という『申告』が義務づけられている。一例を申し述べると次の通りだ。
部隊長へ 「申告します。陸軍曹長原口末次他5名(または略して、原口曹長以下6名)、隼機受領空輸のため、4泊5日の予定を以って立川航空廠に出張を命ぜられました。ここに謹んで申告いたします」
そして帰って来たら、また任務終了を報告する事になっていた。
航法は途中の天気、目的地の天気等を気象班で調べる事になっている。その良否で出発を判断する。当日は鈴鹿地方は吹雪、加古川および雁ノ巣は晴れ。金浦飛行場上空は快晴という事だった。出発を決断し立川を飛び立った。全機、エンジンは好調。一気に伊勢湾上空から鈴鹿山脈を越えようと進入すると、高度3,000mで前方は白い吹雪になった。
仕方がなく上空突破で高度4,500m以上に上げたものの、雲は5,000m以上の積乱雲でとても飛行は無理。また高度を下げ1,000m位で飛行するも駄目、目的地の加古川は晴れだから、ここを突破すれば何とかなると思ったが、鈴鹿山脈は2,000m以上あり進入は危険と判断。幸いかつての基地明野飛行場が近くにあるので、そこに不時着して天候の回復を待つ事にした。
全機着陸したまでは良かったが、最後に着地した伍長が大きく跳ねてしまい尾輪の軸を折損してしまった。仕方がなく金原軍曹の隼機を譲り、金原軍曹をまた立川航空廠へ汽車で引き返さす事にして、僕等5機は明野飛行場で天候の回復を待つ事にした。
六八戦隊に転属前、僕はこの明野で戦地要員として猛訓の毎日だった。今、負傷し生きながらえて再びこの地に降り立った事は感無量だった。
いつもの通り本部の2階にお偉方が何か慌ただしく立ち振る舞われていた。「申告致します。第二練成飛行隊原口曹長以下6名、隼機空輸の途中、天候不良のため当飛行場に不時着致しました。よろしくお願い致します」「こんなに気候の悪いのに無理して飛んではいかんよ」と温顔で注意をしてくださったのは大西中佐だったと記憶する。
明野は小雪がちらついていて寒かった。懐かしい兵舎、格納庫等は変わらなかったが、格納庫の右側に忠霊塔の碑が建てられていた。10何mかを見上げる堂々たる石碑に僕等一同、心から最敬礼をした。
翌日出発。加古川、雁ノ巣で燃料補給し、金浦へと飛び続け無事着陸した。運良くこの日は僕等の部隊の開隊記念日だった。多くの外来者が見物に来ている中に着陸し、部隊長に着隊の申告をするのも何か誇らしげな感に駆られた。部隊長もご機嫌の笑顔をチラッと覗かせたのが、何よりの気休めとなった。平素の厳めしい顔が綻んでいた。僕等は開隊記念日の特別献立を貪った。