第五章・教官〜戦況悪化と特攻隊の出撃〜(1)原隊
昭和19年5月27日、確か海軍記念日だった。負傷して7ヶ月と15日、治癒退院の判印も晴々しく原隊に入った。
自分では感じないが、後ろから見ると右足を少し引きずっていると言う戦友もいた。しかし、この治癒退院が傷庚軍人としての判定に大きく左右された。僕のような負傷程度なら傷庚軍人として認められ、今の恩給の倍位の年金が貰える筈だったのに。当時の軍医の証明が治癒なら後々の障害があっても仕方がないとの事。余り障害もないのに恩給を貰っている僕以外の戦友達は、負傷した段階で傷庚軍人の証明を貰っていた。たとえ障害の如何にかかわらずだ。軍医の計らいの結果と思わざるを得ない。運があっての今日の命だから沈黙の他なし。
ここ加古川の飛行場は、第一練成飛行隊の訓練が実施されていて、少年飛行兵実用機(隼戦闘機)の実修訓練場である。退院した以上は早く飛行機に乗り操縦したい。
その願いが叶って、今では連絡用に使用する程度の第一線から退いた『直協』と呼んでいた偵察用複座低翼固定脚の機に乗った。一期下の和田軍曹が同乗してくれて、離着陸を3回繰り返した。7ヶ月も搭乗していなくても、操縦桿の感覚や着陸の目測感度が蘇るのも早かった。2日間の練習で「大丈夫」の許可が出た。
翌日から第一練成教育隊付となり、学生の助教の任に就いた。午前の訓練が終わると、午後は操縦見習士官の射撃訓練の助教となり、弾こそ発射しないが、いろいろな角度からの攻撃の指導に専念した。階級は僕の方が低く相手は将校である。敬語から敬礼に気遣う事しきり。不便だったが見習士官達も割り切って、操縦においては至極素直に耳を傾け真面目な態度だった。
また、ここでは教官の岡田少尉が良かった。少年飛行兵出の二期生とかで精悍そのものだった。
しばらく経って飛行機受領のため満州の奉天航空廠に出張を命ぜられ、僕の引率で5人の部下と共に汽車で下関まで行き満州に渡った。その飛行機は新型で、隼機の胴体に九七式戦闘機のエンジンを取りつけたものであった。偶然に思いついた機だとかで、脚は引っ込むし、隼機よりは劣るが九七戦より、速度、旋回性能が良く、軍が期待を持った練習用の飛行機だった。九七戦から隼機に移る中間段階の操縦には最適だと好評を得ていた。僕等6人はその機を受領するため、6日間の予定を貰って奉天に着いた。
宿舎は旅館だった。新京の姉に便りをしていたら、千代子姉夫婦とマサ子姉が奉天まで面会に来たのには驚いた。新京から奉天まで相当な時間がかかるのに……。戦闘操縦士になった弟が戦地で負傷してどんな姿になっているか、自分の目で確かめたかったのだろう。遠路の労も惜しまず駆けつけてくれ再会できた事が嬉しかった。昭和19年7月の事である。
受領した飛行機は、毎日1時間ずつ飛行し滞空時間を稼いだ。それぞれ5時間余りの滞空時間中に異状がない事を確かめ、1週間の滞空飛行も終わり奉天を後にした。
途中、金浦、福岡の雁ノ巣で燃料補給し、再度飛び立ち加古川飛行場に無事降り立った。だが、何となく重苦しい空気が漂っている。せっかく僕等が新機種を持って帰ったのに皆に歓迎されるどころか、しょんぼりしている。聞いてみると、岡田少尉が一昨日の事故で殉職して、部隊葬が昨日あったとか。びっくり仰天、惜しみても余りある名教官。僕が退院して感覚を取り戻すための練習に使った直協機の試験飛行を、日曜日にもかかわらず航空廠からの依頼で行った際、上空の空中操作できりもみ状態となり、滑走路に墜落されたとか。足の骨が胴体に突き刺さった悲惨な状態だったと話してくれた。運命とはいえ、あまりにも惨い操縦士の命を痛感させられた。
その翌日、僕は一人淋しく汽車で任地へ向かった。第一から別れた朝鮮京城金浦飛行場の第二練成飛行隊付を命ぜられたのだ。僕が奉天に出張した帰路、金浦飛行場に燃料補給に寄り本部に申告に行った時、そこにいた大塩准尉が「お前はここ第二練成飛行隊付に命令が出ているので加古川まで帰る事もないのだが、大事な飛行機の輸送の任務が終わったらすぐ戻って来いよ」と笑って送ってくれた事を思い出す。