第四章・負傷 〜生死の境と内地送還〜(7)加古川陸軍病院
この大阪陸軍病院での治療も1ヶ月で終わり、1月29日に兵庫県の加古川陸軍病院に転送となった。
松林の中の静かな所だった。病院での内務規定は厳格で、昼間は寝台に腰を下ろす事は禁じられ、院長がときどき巡回していたのも好感が持てなかった。食事は大豆入りのご飯で、日曜日の昼食だけは揚げパン食のお粗末な味を頬張った。
この加古川には飛行場があり、実用機の訓練が実施されていた。また、僕等の原隊がここに所在している事も知った。原隊とは、戦地に派遣されている部隊の留守業務一切を担当している部隊であるが、ほんの僅かの人員のようだった。そこに行けば戦隊の状況、特に操縦士達の現況も分かったかも知れなかったが、何だかそれを知るのが恐くて、ついに訪れる機会を逸した。
昭和19年4月頃だったか突然、面会の呼び出しがあった。郷里の父と弟の良則の二人が、はるばる九州の田舎からやって来たのだった。僕の負傷入院を案じ、居ても立っても居られなかったのだろう。親心、弟の気遣い。統制下の食料難や交通難を克服し、良くもここまで面会に来てくれた心情が胸に響いた。また先の明野飛行学校にまで面会に来てくれたその心根、何度も道を尋ねた事だろうが、移民先のハワイと日本を行き来して、案外旅に慣れていたのだろう。
まだギブスも取れず松葉杖をつき、松林の中を散歩しながら戦地の思い出を語った。幸い五体満足を見て安心して帰る姿を感謝して見送った。汽車の中の弁当にと持って来た梅干し入りの握り飯が余ったと言って12、3個置いて行った。「帰りはどうするのか?」と返したが「何とかなる」と言って帰って行った。僕は久し振りの故郷の味に満足だった。
終戦後、このために意外な苦難が二人に待っていた事を知った。それは帰りの汽車で羽犬塚駅に降りたのが、夜中の3時頃だったとか。食べるものがない。腹はぺこぺこ、車もない。駅にいるより行ける所まで歩こうと、二人で福島の街まで歩いた。まだ夜明けまでは永い。歩こう。長野地区まで行けばマサ子姉の嫁ぎ先がある。そこまで行けば何とかなる。腹ごしらえはできると懸命に歩いたそうだ。
そして夜明け前頃、表戸を叩いて起こし朝食のほどこしを受けたとの事であった。
昭和19年4月、切開手術をする事になった。傷口の化膿が取れないので、切開して砕けた骨を除く手術である。今さら手術なら、なぜもっと早く切開手術をしなかったのかと、病院側の優柔不断さを非難したい気持ちだった。大小4個の砕けた骨を取り除いた。ノミのような物でコツコツ叩いていたので、くっつきかかった骨を削ったのではなかったか。局部麻酔なので痛みはなかった。その結果、化膿も少なくなり快復へと進んだ。
歩行訓練のため1ヶ月余り温泉治療の許可があったが、もう病院はこりごり。早く退院して自由の身になりたい思いで、温泉行きを断った。
●2009年10月22日よりSF映画シナリオ「クリムゾンX」を連載。
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