第四章・負傷 〜生死の境と内地送還〜(5)曹長の星
2週間余りしたら急に病棟が賑やかになった。白衣の看護婦達が行き来するようになった。包帯交換にも付添い、てきぱきと処置もしてくれる。よく顔を見ると見覚えのある顔である。僕がラバウルにあるココポの陸軍病院に入院していた時の看護婦達だった。3人共、また僕の病棟付になった。斉藤、白石、神戸という新潟出身の3人は、交替でマニラまで帰って来たとの事だった。再会を喜縁として僕は特別に良く看護してもらった。日曜日に市街に外出したとかで、寿司やチョコレート等をお土産に届けてくれた。窓際からそっと差し入れてくれる優しい仕草が堪らなかった。もちろん隣の戦友にもお裾分けしたものだ。
痛みも少なくなりギブスのまま散歩に出て、松葉杖をついた病衣姿の写真を撮り家へ送った。家族がその写真を見て左手指がないとかで、たいへん気を揉んだと終戦後に聞いた。笑止の至りである。両親の心配、気遣いの大なる事を感ぜざるを得ない。無事復員した事が最大の孝だったと思う。
1ヶ月余り療養したが切開手術もされず、早く前線復帰を願う心も意のままにならないある日、面会に高橋少尉、村上伍長の二人が来られた。飛行機を取りにマニラに来た由。戦地の様子も聞いたが、だいぶ戦死しているようだった。村上伍長が階級章を僕に差し出した。昭和18年12月1日付で僕は曹長になったのだ。柴軍曹が、上官にいろいろ取り計らってくれたらしい。戦友の友情が嬉しかった。柴軍曹、ありがとう。僕の白い病衣の胸に、曹長の星が煌めいて嬉しかった。
昭和18年12月23日、突然、内地後送の発表があった。【内地でゆっくり療養せよ】と。日本へ帰れるという喜びと前線復帰が叶えられない失望とが入り交じり、どちらかと比べれば後者の方が強かった。不思議なものだ。前線の戦友と共に戦いたい、命は運だ。戦友達を残して内地へ帰るのが本当に辛かった。
ギブスが取れないまま担架で病院船に運ばれ、船内に横になった。病院船とはいえ、敵の潜水艦の餌食にならないとは限らない。運を天に任せる他はない。
午後3時頃、台湾の東方海上を航行中、警戒警報が船内に響き渡った。国籍不明機の爆音が聴こえる。ただちに船内は騒然となり、皆にカボック(救命胴具)が渡され装着した。僕は右足のギブスを外し、万一、海に飛び込んでも泳げるよう決心を固めた。緊張した空気が20分余り続いたが何事もなかった。友軍機だったらしい。それにしても人騒がせな出来事だった。
マニラを出航して、大晦日の夜中に大阪港に接岸した。バスに運ばれ、雨がしとしと降る街中を通り、零時過ぎに大阪陸軍病院に収容された。いろいろ注意事項の指示があり、床に入ったのは午前2時過ぎだった。うとうとする間に起床のベルに起こされた。