第四章・負傷 〜生死の境と内地送還〜(4)自己退院と傷口
ある日、原隊から伝令が来た。【飛行機受領のためマニラへ近く出向する。歩けるようだったら、その飛行機でマニラの陸軍病院へ連れて行くから病状如何ん】という内容だった。とてもまだ歩く事はできない。病棟の鴨居に掴まり歩こうとしたが、歩けない。しかし、この機会を逃したくない。そこで松葉杖を作って貰い、歩く練習に取りかかった。病院から許可なく退院する事を『自己退院』というそうだが、自己退院すれば再度入院はできないらしい。隊長の事情説明依頼書により、退院の許可を得た。
病院の外に車が迎えに来た。100m余り松葉杖を頼りに歩いた。疼痛を我慢して歩いたが、先が思いやられる。原隊に帰り隊長に仮退院の申告をして宿舎に落ち着き、戦友達と1ヶ月振りの再会を喜び合った。ドラム缶風呂に入れたのが嬉しかった。久し振りの入浴である。戦友が肩背を流して手伝ってくれた。
毎朝早く、海岸の砂浜に穴を掘り、松葉杖を踏み板代わりとして用を足し砂を被せる。潮が満ちて来ると綺麗になって、それがどこだったか跡形もない。至極便利だった。
輸送用に九七式重爆が充てられ出発が1週間遅れたが、14、5名乗り込んでウエワクを離陸した。
途中、バボの飛行場に燃料補給に着陸した時、空襲警報が鳴った。まだ補給が終わっていないので出発はできない。皆、100m位離れている防空壕に逃げ込んだが、僕は疼痛がひどく機外に出る気になれず、機と運命を共にする覚悟で横たわっていた。「当たるなら、当たれ」そう強がりながらも心中は爆音にビクビクしていた。30分もして解除になり安堵した。機は大急ぎで準備を終え、次のアンボイ飛行場へ向かって飛び立った。
アンボイ飛行場での燃料補給の合間を見て僕は医務室に馳せ参った。包帯を交換して貰うためである。傷口のガーゼを取り替え、赤チンキで消毒して貰うと痛みが和らぐのである。
次にタバオ飛行場に飛び一泊した。ここでも包帯交換すれば良かったが、「この位の痛みなら一晩位大丈夫だろう」と高を括ったのがいけなかった。夜半から痛み出し一晩中眠れなかった。
翌朝の昭和18年11月1日、マニラへ出発し、昼頃マニラ第十二陸軍病院に無事収容され、初めて落ち着いて治癒に専念できるようになった。隊長の計らいで、僕をマニラまでわざわざ後方移送して、回復を願っていただいた恩情に感謝せざるを得なかった。
まだ少し膿が出るけど肩と腕は肉も上がり九分通り良くなったが、右足首の上はなかなか膿が取れない。内部に骨の砕けたのが残っているとか。小さい骨はいくつか化膿と共に出て来たのに、切開手術しない限り大きいのが取れないらしい。「早く切開してくれないかなあ」と思いつつ日は重なって行った。