第四章・負傷 〜生死の境と内地送還〜(2)野戦病院と空襲
それにしても負傷して着陸するまでの14、5分の間、我が身の激痛は少しも感じなかったのは不思議である。昔、ある禅宗の高僧が火を放たれ焼ける山門の上に座し、『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』と言って大泰として死を遂げた話を聞いたが、ある事に精神が統一し集中すれば身の苦痛は感じないものだと自ら体現したのだった。
泥水の道に揺られ、呻く力もなく遠くなる意識を衛生兵に起こされながら約一時間後、野戦病院の処置台の上に真っ裸で横たわっていた。服はハサミで切り取られ、身体についた血を拭いた後、5、6人がかりで手当てをされた。激痛も和らぎ、脚は木のギブスで固められ、肩は三角巾で吊られて50m位離れた病棟に運ばれた。蚊帳の中の8人に仲間入りとなった。中隊から1人、看護付添いに来てくれて何かと世話をしてくれた。
僕の負傷の様態を述べたい。右肩甲骨に、4cm×3cm位の防弾板の破片が突き刺さっていたとか。後日、僕に見せるために柴軍曹が保管していたのを貰ったが、その後どこかに紛れ込んでしまった。その防弾板とは、操縦席の後ろにある厚さ1cmの防護鉄板の事で、敵機の撃った機関砲13.3mmの弾が僕の右後方の防弾板を撃ち砕き、その破片が突き刺さったのだろう。そして右上腕部を玉子ぐらいの大きさで抉り取っていた。もう一つの弾が、右後方から僕の右足首の上を外側から内側へと貫通して、滑油タンクか水タンク系の配管を破壊したと判断される。
終戦後、その時の整備班長の安永少尉とお会いした時、「君の飛行機は冷たい所から急に降りて来たため、地上の暖かい空気に触れて真っ白い霜が降りたようだった」と当時の事を話されたが、僕は朦朧としていたのでまったく分からなかった。
病棟は密林の中にあって1m余りの高床に作られ、アンペラが布団代わりに床に敷かれ毛布を広げ、蚊帳は張りっぱなしである。1日毎に衛生兵か軍医が包帯を交換消毒に来るが、日曜日は休診のため化膿気味となり痛みが激しくなる。小便の量も多い。口の渇きに任せ湯を飲む量が多いからだ。大便の世話から食事の世話、洗濯物まで付添いの兵隊には非常に世話をかけたが、その兵隊の名前も、そして戦死したのか無事内地へ帰れたのか、今では遼として不明なのが心残りだ。
野戦病院の周りは椰子の木も繁っているので、「敵の空襲からも逃れているのかな」と思った矢先、さっそく見舞われた。起き上がり退避すると、痛みがとてもひどくなるので蚊帳の中に寝ていた。幸い近くで爆発音が聴こえなかったので、安心して横たわっていた。
2、3日後、また空襲があった。付添いの兵隊が「防空壕に入りましょう」と心配してくれたが、2、30m離れた所まで背負われて退避するのも嫌なので、僕は一人だけ残った。今度はひどかった。超低空で入って来たノースアメリカン機の爆撃で、樹木の炸裂する音に肝を潰した。「どうせやられるなら寝たままで、ここでいい」と高を括っていた僕は、途端に飛び起き1m位ある床下へ潜り身を伏せた。無事難を逃れた。
空襲は終わったが、傷が痛く動けないで呻いていた。兵隊が戻って来て、僕が蚊帳の中にいないので「班長殿、班長殿」と呼んでいる。やっと呻き声に気づき、床下から引きずり出し毛布の上に寝かしてくれた。その後の空襲からは絶対逃げないで、蚊帳の中で諦めて寝ていた。開き直るという事だろう。幸いな事に、それ以後たいした空襲はなかった。