第四章・負傷 〜生死の境と内地送還〜(1)敵弾貫通
これまでいろいろと戦況を綴ったが、僕が負傷して戦列から離れた時の状況を思い出してみたい。
昭和18年10月11日、可動機数も4機になり、敵機来襲と共に機上の人となった。編隊長本山中尉、その僚機波佐間曹長、分隊長垂井少尉、その僚機として僕がしんがりを固めた。高度5,000mで雲間を出入りして飛行場の上を旋回、敵機の来襲を待っていた。敵機が5,000mでやって来ても対等に戦える。たとえ10数機を相手としてもだ。5,000m以上では空気が稀薄なため、酸素吸入が必要となるのだが使用していなかった。5,000mでも長時間飛ぶのは意識が薄れ危険であり、体も冷え切って寒い。
30分余り哨戒していたが敵機の来襲もないと判断したのか、編隊長が降下姿勢を取り3,500mまで高度を下げ海上に出た。僕は「このまま高度を下げて、大きく迂回して飛行場へ帰るのだな」と判断して、安全のため射撃用スイッチを切った。隊形は雁行形右後方へ一線の距離300m位である。僕は最後尾から長機垂井少尉を、左前方の視点の中に見ていた。その前方左には編隊長とその僚機も飛んでいる。
ふと僕の左上方に、垂井少尉に向かって後上方から突っ込んで来る機が目に入った。友軍の隼機が急降下して来たのかと思った。実はその日、僕達の出撃前に、隼2機が離陸して行ったのを思い出した。よく見ると胴体に赤い日の丸ならず、☆マークの敵機だった。僕は慌てて機首を敵機に向け、援護射撃の引金を引いた。しかし弾が出ない。「しまった!」スイッチを切っていた。急いでスイッチを入れ、撃ちまくった。垂井少尉に攻撃されている事を知らせるよりも、敵機を撃ち落とす照準だった。もちろん弾道は垂井少尉の方向に流れていた。敵機は僕の攻撃を避けるため急上昇するのが常道であるが、なぜか降下して行くため僕は切り返し、その後を追ってまた一撃を見舞った。その瞬間、僕は“ガン!”と大きな衝撃を感じた。敵機の僚機が僕を狙って来ていたのだった。「やられた!」と思った。「もうだめだ」急反転して次の攻撃を逃れ後方からの追撃を心配したが、追って来る様子もない。
機を水平飛行にしたら、高度計は1,500mを指していた。機体の左前から白煙が噴いて座席内を洗う。急いで天蓋を閉めたが、ガソリンの噴出なら引火して火災となるやも知れない。バンドを外し天蓋も開け、いざ火災発生時には、すぐ反転し落下傘降下できる準備をした。やや落着きを取り戻したが、匂いが、ガソリンの匂いではない。「ははぁ、水タンクから噴出しているな」と判断し、プロペラの回転を落とし海岸線へと直行した。水冷式エンジンのため、水がなくなると過熱でエンジンが焼付けを起こし停止する。なるだけ海岸線に近づき、不時着して友軍の兵隊に救助される事を願いつつ飛行を続けた。10分余り祈るような飛行だった。
やっと海岸線に出た。そこから500m位の所に飛行場がある。何とか飛行場に着陸できるかも知れない。「プロペラよ、止まらないでくれ」着陸布帆は逆方向を示している。しかし、その方向から正規に着陸するには、左旋回180度せねばならない。もういつ止るかも知れない、そんな余裕はない。逆方向から着陸するのに躊躇はしなかった。急旋回し不時着の態勢で近回りし、スイッチを切り滑走路に突っ込んで行った。
何も憶えていない。気がつけばうまく着陸できていた。我ながら良く着陸したもんだと思った。速度が落ちると共に両足先でブレーキを少しずつ踏み、早く停止させようとしたが何やら右のブレーキが効かず、左の方にばかり片寄りするので「おかしいな、おかしいな」と思いながらも、左のブレーキもこれ以上踏めない。惰性で転がるのに任せた。駆け足位になったが、なかなか止まらない。「行くとこまで行け」とそんな気になった時、じんわり尾部が持ち上がりプロペラの先が地面についた。普通、この事を“鼻をつく”と言っていた。前に30度傾いた状態だ。
僕は立ち上がるため天蓋の縁に手をかけようとした。右腕が上がらない。ひょっと見ると右の肩から臀部にかけ、べっとりと血が滲み出ている。しかし、痛さは感じない。もう一度立ち上がろうとしたが、右足に力が入らない。見ると航空長靴が血で覆われている。動けない、もう万時休す。「おーい、降ろしてくれよ」と叫んでみたが、声にならなかった。整備兵が集まって来て機体の上に飛び乗ろうとするが、翼が前に傾き油が流れているので滑って登れない。脚立を持って来て、4人がかりで座席から抱え出してくれた。
地上に降り立って初めて肩と右足首の負傷を知った。その途端、物凄い激痛に襲われた。戦友に掴まりピスト(訓練中の控え所)まで歩いて行き状況報告しようとしたら、「このまま野戦病院に連れて行け」というピストからの伝令で、始動車に乗せられ衛生兵が付添い病院へと急いだ。車に乗る前に右大腿を止血してくれた。激痛を紛らすため、僕は「畜生、畜生」と繰り返し、無念さを訴えた。