第三章・出陣 〜ニューギニア戦線と戦闘の日々〜(12)二人乗り飛燕
戦闘になると後方について援護している僚機ほど燃料消費が多い。その理由はレバー全開で長機の後を追うからである。常にこの事を考え、コックの切替えと飛行時間を計算し、余裕の燃料を残し基地へ帰らねばならない。せっかく基地に帰っても、飛行場にただちに着陸できない場合もある。編隊で帰っても後方機が着陸するまでは5分、10分と時間がかかったり、事故機でも生じた場合は、他の飛行場に着陸せねばならない時もあるので、それだけの燃料を残して置く事が肝要である。
こんな例もあった。ある戦闘で20分余りの交戦が終わり帰路に着いた。長機は容赦なく先を急ぎ行ってしまう。僕は追いかけるためレバーを引いて速度を増したが、ガタガタと機体から振動が出るのが心配なので、レバーを戻し速度を落として基地へ向かった。先方の友軍機はとうに見えなくなったが、後方からの敵機の追撃を警戒しながら飛行していた。
ふと燃料の事が気になった。出発してから4時間以上飛んでいる。基地まではまだ30分はかかるのに燃料計から計算すると、ちょうど30分しか残っていない。今日は戦闘開始が早く、落下タンクを10分も早く切り落とし、また戦闘している時間も長かったからだ。不時着用の飛行場として指示されていたハンサー飛行場に着陸する事にした。しかし巾が30m余り、長さ1,000m余りの小さな飛行場で、ウエワクまで30分の飛行時間を要する地点である。巾30mあれば何とか着陸できる(ちなみにウエワクは巾60m)と決心し、高度を下げ何とか無事着陸し、ほっとした。
燃料補給を頼むと、皆てきぱきと動いてくれた。すると、爆音と共に低空より我が部隊の飛燕機が進入して来て、一周しながら着陸姿勢に入り降下して来た。よく見ると脚を出していない。「はて、忘れているのか。故障なのか」と心配した。安全をとって着陸復行の合図をし、脚の出てない事を知らせた。相手の操縦士も気づいたのか着陸を断念して舞い上がった。しかし、また一周しながら着陸降下を始めたので、「脚の故障だなー」と判断し見守った。すなわち胴体着陸である。プロペラは3枚とも地面を切り内側に曲がり、胴体下部についている水を冷やすラジエターは飛んでしまった。
降り立ったのは波佐間曹長であった。曹長は滑油タンクをやられ、やっとここまで帰って来たけれども滑油計が“0”となりエンジンが焼きつき、このままウエワクまで帰る間にプロペラが止まったら、海岸線か密林地帯の中に不時着を余儀なくする事を恐れ、ハンサーに不時着を決心したのだった。滑油タンクの油が少なくて、油圧が足りなくなり脚が出なかったのである。無事着陸したものの、その時の衝撃からか「頭が痛い」と言って、ピスト(訓練中の控所)の椅子に横になられていた。
僕は曹長の回復を待った。しばらくして気分が良くなったのか起き上がり、僕に「基地に帰り報告してくれ」と頼まれたが、上官を残し帰る訳にはいかず、「いや曹長が僕の飛行機で帰ってください。僕は後から何とか帰りますから」と二、三問答した。
ふと、僕はある考えを口にした。「胴体内にもう1人乗られないでしょうか?」もちろん操縦席は1人でやっとであるが、真ん中付近に整備点検用の扉がついていて、中に人が入れる事は知っていた。扉を外して中を見ると操縦索(大きな網)が張られ腰を下ろす余裕はないが、操縦索を股越えて中腰に屈めば何とかいけそう。「一度試してみるか」胴体タンクの燃料を全部、また翼内タンクの燃料も半分にして出発する事になった。波佐間曹長が僕の機を操縦し、僕は胴体の中に潜り込んで、外から扉を固定して貰い離陸した。
機体はぐんぐん上昇して行く。僕を乗せた事で機体の振動が再発しないか心配だった。外の見えない薄暗い機内で、「無事に着いてくれ」と祈るしかなかった。30分の飛行時間がとても長く感じられた。高度が下がり始め、着陸態勢に入った。
無事ウエワク飛行場に着陸したが、整備兵はびっくりしていた。「原口軍曹の機に波佐間曹長が乗っている。どうした事か」と。曹長が点検用の扉を開けるよう指示を出している。外から扉が外されると夕焼け空が見えていた。何事もなかったかのように、僕はニッコリと地上に降り立った。まるで手品師になったような気分だった。整備兵達は目を丸くして僕を見ていた。三式戦にも二人乗れるという事を実証した最初の殊勲者である。殊勲甲の感謝状ものである筈だったが、反応はなかった。
しかし、この経験を生かして最前線への出撃が可能となり、行動が起こされた。すなわち最前線基地マダン上空に敵のP38が毎日偵察にやって来る。高度5,000〜5,500mで偵察に来る。マダンから敵陣まで1時間の航続距離である。この敵機を捕捉攻撃する命が下った。僕の中隊の本山中尉、高橋少尉、垂井少尉と僕の四機が出撃する事になった。ところが前線基地には飛燕機の整備兵が一人もいない。最小限4名の整備兵が必要なので、胴体内に一人ずつ入って前線へ行く事になり、僕等が経験した事がさっそく利用された。
ウエワクを出発し、マダンに無事着陸し整備完了した午後、相変わらず敵機P38の定期便がやって来た。ただちに僕等4機は飛び立った。僕は四番機、ぐんぐん上昇しているが、心焦るためか高度が上がらない。4,000m位になった時、敵機P38は気づいたらしく旋回し5,000m位から急に機首を下げ遁走し始めた。敵は速度をつけているのでみるみる遠ざかって行った。僕等も後を追ったが、上昇中だったので速度が出ず離されてしまった。無念ながらも引き返し、着陸せねばならなかった。
翌日、再び空襲警報と共にすかさず僕等は機上の人となった。敵機はまだ見えない。3,000m位で敵の定期便を捉えた。5,000m位の高度で進入して来る。また昨日の二の舞いをするのか、僕は天蓋を被った。本当は視野が悪くなるので被りたくないのだが、天蓋を被ったため速度が増して前の三機を追い越し5,500mまで上昇した時、5,000mで飛んでいた敵機P38は気がついたらしく急旋回して逃げ始めた。「逃がしてたまるか!」僕も急旋回してP38を追った。僕の方が高度が高かったので瞬く間に接近し、思い切り撃ちまくった。敵機と衝突の危険を感じたので、離脱して大きく旋回して友軍機を探した。1,000m位離れて飛んでいる。撃墜の確認はしないまま後を追った。
僕は長機から単独で離れ、功を先取りした出しゃばりが気になっていた。大目玉をくらうかも知れないが、僕に言わせるとあのまま上昇していたら昨日と同様、僕等が高度を取らない前に敵機に気づかれ逃げられてしまった筈だ。僕の機が馬力があったのかも知れなかった。天蓋を閉めるのと開けるのとの差は、10km/h位速度の変化があると言われていたのが事実かも知れない。しかし、僕の慢心がそうさせたのかも知れない。いつも後から追いかけるばかりで敵機に一撃する機会がないので、今度こそ思いを遂げようと一人でやった事も、考えてみれば他の三機が後に続いている安心感からの行動だった気もする。
着陸後、「異状なし」と垂井少尉に報告したら、「見事だったよ」「は、落ちたんですか?」「火災を起こして落ちたよ」「はあー」と、わざととぼけたような返答をした。僕が初めて敵機を確実に撃ち落としたのを、垂井少尉が見届けてくれていたのだ。僕は内心「やった!」と喜んだが、編隊長の本山中尉は「してやられた」と憮然たる顔をして、この戦果には一言も触れなかった。それもその筈、僚機の出しゃばり行為が気に入らないのだろう。僕は知らん顔で内心は燃えていた。
2日間の出撃作戦を終えて、無事ウエワク基地に帰った。以前、ピスト前に操縦者を集め厳しい訓示があった。【敵機の直接攻撃は編隊に委ね、僚機は後方を警戒して長機の攻撃を助けるのが任務だ。バラバラに離れての勝手な行動は決して許さん。我が中隊の今の戦闘模様は個人の功績を焦っているが、中隊の戦果は皆の戦果だ。その事を忘れるな】というきつい訓示があっていた事が頭にあって、心も晴れなかった。
僕はよく迎撃作戦に引っ張り出された。本部から電話のベルが鳴る。敵機の戦爆連合の来襲である。相手はいつも40機、50機の編隊の攻撃である。隊長竹内大尉はただちに出撃者を指名される。隊長自ら出撃する場合は、「僚機波佐間、小隊長(三番機の事)垂井、僚機原口」と、よく僕は引っ張り出された。隊長にしてもそうだが、自分が引き連れて行く部下は最強の強者をというのが常識だろう。僕はそれだけ信頼されているという自信はあった。そして確かに出撃回数は誰よりも多かった。