第三章・出陣 〜ニューギニア戦線と戦闘の日々〜(9)敵機来襲
1週間余りで整備が完了したのか、いよいよ戦爆連合の大攻撃作戦が展開された。3日間の連続攻撃で、目的地はニューギニア東岸ラエ付近の敵飛行場群および陸軍の上陸地点の爆撃である。九七式重爆、九八式軽爆30機余り、その直接援護の隼機20数機、それに間接援護の六十八戦隊飛燕機20数機の大編隊である。
西飛行場から出撃して来た爆撃機と空中集合するには、また戦闘機の全機が離陸する時間と編隊を組む時間、高度3,500mで編隊状態になるまでには30分、40分と時間がかかる。敵陣まで約2時間を要するため、戦闘機には2個の落下タンクをつけて行かなければならない。敵機と遭遇する直前にこの落下タンクは切り落とされ、機体の抵抗を少なくして戦闘するよう指示されている。従って最初に落下タンクの燃料から使用しなければならない。途中、敵機と出遭えばタンクの燃料は入ったままでも切り落とされる。隊長がタンクを切り落としたら僚機他、全機がまるで爆弾でも落とすかのようにバラバラと落下する様は見事である。たまたま落ちないのか、隊長機が翼を大きく振り動かし揺すっていた事もあったが、無事落下して行った。
行きは爆撃機の速度が遅いので僕等の戦闘機は上空を蛇行しながら飛んでいるが、爆撃が終わったら援護どころの騒ぎではない。燃料が心配である。2時間以上の帰路に「我が任務終り、後はごゆっくり」とばかり帰途を急ぐ。爆撃機が3,500mを飛行するなら、僕等の戦闘隊は5,000mの高度の間接援護である。敵機は5,000mで待機している状況が多く、そのため酸素マスクをつけ空気の不足を補っているが、いざ戦闘となるとマスクは放り出して戦闘するのが常習であった。
僕も初陣の作戦に参加し2日間の攻撃も充分確認したが、幸か不幸か敵機との交戦はなかった。2日連続の攻撃で飛行機の整備を要するものが続出した。操縦士の疲労も考慮され、1日休養して次の日に再度出陣となった。飛行場の両側には落下タンクを満タンにし、機関砲弾を補充した機が所狭しと並んでいた。あと1日の進行作戦が終わったら、飛行機の補給のためマニラのクラーク飛行場へ受領に向かう内命も出され、僕も柴軍曹もその人員に選ばれていて航法計画を立てるよう指示されていた。僕等は航空地図に航法計画を立てるため、いつもより30分早くピスト(訓練中の控所)へ行った。みかん箱を崩して作り直した地図を広げるのに格好の机があったからだ。
作業に取りかかって間もなく、異様な爆音が聴こえて来た。今までも朝早く、友軍の連絡用飛行機が敵の空襲前にと離着陸する事があったので、「今朝も早くから連絡に来たもんだ」とばかり思った瞬間、濃い茶と緑色で異様に擬装した3機編隊のノースアメリカン機が高度100m位で進入して来た。見上げたと同時に機銃掃射と落下傘爆弾の投下、夢中で机の下に潜り込んだ。あっという間に敵機は飛行場を縦断して行った。並んだ飛燕機が爆発し何機も燃え出した。装備の機関砲、機銃の弾が破裂して四方に飛び散っている。
ポカンと立っていたものの第二次攻撃がやって来るかも知れないので、とにかく防空壕に入ろうと思い30m余り離れた土堤の横穴の壕へと走った。しかし、もう第二次攻撃機の編隊が襲って来た。壕まで入る余裕がなく、椰子の根元に身を伏せた。大きな蟻がたむろしていたが、我慢して顔を伏せ数秒間経った。
敵機が通り過ぎると同時に、防空壕に駆け込んだら奥に2、3名の先客がいた。防空壕の中は10cm余り水が溜まっていたので、中腰になり外の様子を窺った。
遠くで爆音がするだけなので、外に出て滑走路に近づいた。燃える、燃える。明日の3回目の攻撃のため、満タンにしていた落下タンクの燃料に引火してものすごい炎が天中を覆う。ぎっしり詰めて並んでいるので誘爆している。滑走路は火の海と化し悪夢を見ているようだった。上空には敵機P38が編隊のまま悠々とこちらの様子を窺っているが、とても離陸する術もない。
落下傘爆弾とは、小さな落下傘(直径1m余り)の先に直径10cm位で長さ40cm位の円筒の爆弾がついていて、地面に落ちた瞬間に心管が破裂して爆発するのである。しかし風圧で揺れて地面に落ちた時等、横になったら爆発しないのである。
半分以上が不発になって、白い落下傘が花のように散らばっている。あまり低空で投下したので自機の風圧に左右され、揺れが止まらないうちに地面に落ちた結果とも思われる。初めて見た落下傘爆弾、それは豊富な物資に任せて作られた僕等の思いもつかない新兵器だった。
徹底的にやられ被害は大きかった。とにかく出撃できる飛行機の数が報告された。第二中隊には4機しかなかった。さっそく飛行機補充のためマニラのクラーク飛行場へ行く事になったが、僕等を運ぶ輸送機がない。ウエワク港から小さな発動機船に14、5名乗り、後方アイタベ港まで海岸線近くを急いだ。敵機の発見から逃れるためだった。
悪夢の出来事も落着きを取り戻してみると次第に反省へと変わり、なぜ前線からの情報が入らなかったのか。友軍の対空監視所が前線に数ヶ所出されている筈なのに、全然その情報が入らなかったのはなぜなのか。
これには理由があった。昨夜、すなわち2日間連続攻撃したその夜、敵のB29爆撃機の2機が夜間攻撃に来た。こちらから二式複座戦闘機が迎撃に上がり、見事その1機を火祭りにした。地上の僕等は拍手して喜んだのは良かったが、敵機が投下した爆弾が飛行場にこそ落ちなかったが、通信網を切断していたのだった。真夜中の事ではあるし、通信隊も承知はしていても動けず夜明けを待ったのだろう。この打撃により前線からの情報は不通となり、最悪の結果を招いた。
飛行機補充用員として、マニラに派遣された僕等一行はホテルに宿泊した。そこで思わぬ戦友に出会った。矢吹訓練校時代の同期生だった。彼は爆撃科に進み、お互いの任務は異なるが、ここマニラで会う事も奇遇だった。彼は飛行機輸送部隊に所属し、目下、日本とマニラまでの補給機輸送の任務に就いているとの事。「なぜニューギニアまで輸送しないのか?」の問いに、彼は、「前線基地は危なくて、とても僕等じゃ行けない」と弱気の返事だった。