第三章・出陣 〜ニューギニア戦線と戦闘の日々〜(7)ココポ野戦病院
僕等の宿営する天幕から4、500m離れた所に原住民の住居があった。腰巻を巻いて頭の皿篭に大きな黄色いバナナをいっぱい載せて、物々交換にやって来る。僕等はマフラーとか煙草と交換した。内地を出る時、【原住民と交換するのはマフラーのような布類が良い】と内達があった。僕もマフラーを3枚持っていたが、いざ交換する段になると渋った。
水は雨水を煮沸して冷やしたもの、バナナを食べて水を飲む。トラック島より、なお環境が悪く体を壊すのは必定で、これが下痢の原因ともなった。
便所は20m位離れた林の中に巾が50cm位、長さ4m位、深さ2m位の穴が掘られアンペラで囲い5、6人が一緒に用足しができるようになっていた。衛生兵からの下痢止めの薬を何度も飲んだが止まらない。1日10回、20回と多くなった。もう便所まで行く暇がない。戦友に頼んで味噌の空樽を手に入れた。宿営の天幕から程近い所に仮便所を設けて使用した。
食欲もなく、ほとんど食べない。空中勤務者には特別におやつとして元気酒というのが配給される。ブドウ酒のようなもので、アルコール分が少ない飲料水のようなものであった。時々、喉を潤した。食べない割りには体力もあり、元気に振る舞った。夜とか昼間に戦友がいない時は、天幕の中に便器を引き寄せ用を足した。ほとんど出ない。それもその筈、食べないから。ただ搾り出すばかりの便通だが、10分もすると用を終わる。便器の中は消毒薬を入れているので臭いはしない。しかし戦友達には至極迷惑だったろう。衛生兵を通して医務室から何度も薬を貰って飲んでも、一向に効き目がない。もう持久戦だ。1日何回、便通があるのかを試そうと思い、塵紙を1回分ずつ折り畳んで30分に1回として48回分を用意した。この計算は適中した。ちょうど48回をやった事になった。
戦友が心配して上官に報告したのか、その翌日、僕は入院という事になった。ちょうどラバウルの町から対岸に位置する南飛行場の近くに弾薬集積所があり、その横にココポ野戦病院があった。僕のいる西飛行場から2時間はかかった。始動車に衛生兵の下士官が付添っていた。入院手続きのためだった。途中2回の催しで車を止めて椰子林の中に屈んだ。でも事の他元気だった。
バラック建ての病棟がいくつも並んでいた。もちろん僕は伝染病病棟に隔離された。長い病棟には粗末な寝台が向かい合っていた。一人ずつの毛布で仕切られ雑魚寝である。暑いので毛布1枚だけの赤痢患者ばかりである。軍医の診察でアメーバ赤痢という烙印が押された。さっそく薬と点滴がなされ、「やれやれこれで助かったなー」と安心感が沸いた。
ここには看護婦3人がこまめに立ち振る舞っていた。白石、斉藤、神戸という20歳前後の女性達だった。食事、便器の始末、衣類、投薬の世話等々、前線基地での待遇とは考えられない看護振りには感謝する他なかった。入院翌日から便通の回数が12、3回、その翌日には9回と、1日毎に下痢の回数は少なくなった。食事の重湯も次第に米粒の量が増えていった。
しばらくしてガタルカナルで戦っていたという兵が赤痢にかかり、骨と皮ばかりに衰弱して運ばれて来た。言葉を言うのもやっとの状態である。リンゲルの注射が腕に入らないので、臀部に大きな針を刺され、痛いと苦しんでいたのが印象的だった。
それに反し僕は幸せだった。順調な経過で1日1回の快便となり普通食が許可されたが、干肉の乾燥物がおかずに出されると、また血便となる始末。退院の機会が遅れるので、努めて平常を装った。ばれるとお粥に格下げされるからだ。
困ったのは洗濯で、どんなにゴシゴシと綺麗に洗ってもシラミが湧くのには閉口した。先輩の患者から特策を教わった。それは石油の空き缶で煮沸しないとシラミの卵が死なないから、またすぐ成長してシラミの親になるとの事。さっそく褌、シャツ、袴下、全部を野外で念入りに煮沸したので、シラミの害からは解放された。
病棟の裏側に細い坂道があった。原住民のおじさんが小さな馬に荷車を引かせ、サツマイモを山積みにして通る時がある。馬に鞭を打ち、どうにか登って行く。僕等はここぞとばかり荷車の後押しを買って出る。その最中に、サツマイモを適当に引きずり落として失敬するためだ。おじさんは、そんな事にはまったく気づかずニッコリ笑って頭を下げている。後で芋を拾い集め蒸かして皆と分け合った事も楽しかった。
敵機空襲により照明弾が投下されて向こう岸に見えるラバウルの町が昼間のように明るく、遠くで爆発の音を聴くようになった。この病院も安全地帯ではないようになって来た。
ある夜、戦局の悪化と共にラバウルへの敵機の空襲があった。隣の弾薬庫の一部に爆弾が命中し爆発した。ある程度、距離を置いている筈だが誘爆して丸3日間爆発が続いた。大損害を蒙ったようだ。
病院では毎日2、3名の兵が病死していると聞いた。近くの椰子林の中で毎日、火葬がなされていた。その煙のみが見えて心淋しい思いがしたが、仲間のもとへ復帰する気持ちで打ち消した。