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第三章・出陣 〜ニューギニア戦線と戦闘の日々〜(5)犠牲者

 完全なる整備もでき、試験飛行で大丈夫という飛行機を選び、第一回先発部隊がラバウルに向けて発進する事になった。その数は約半数。僕は先発から外されたが、機の整備未完では仕方がなかった。なにしろ長距離飛行のため落下タンク2個(200リットル×2)をつけ、ラバウルまで4時間半の飛行である。途中4時間までは目印になる島は一つもなく、ただ羅針盤の進路一途に飛行するのである。風で流されていても目標物がないので、とんと分からない。まして羅針盤が狂っていても、なお分からない。そのため海軍の偵察機が誘導する事になった。戦隊長以下、各部隊が15分毎に出発して行った。僕等は無事を祈る気持ちでそれを見送った。

 ところが出発後、1時間近くして全機トラック島に引き返して来た。その理由は途中、積乱雲に阻まれ、進路変向もできず引き返さざるを得なかったとの事。積乱雲の中に入ったら、上昇気流と下降気流に機は危険状態になる事は常々教訓になっていた。引き返した戦隊長および誘導機の労を多としたい。

 しかし引き返した直後、第一中隊の大木曹長機が故障で海中に不時着。脱出し海上に浮いている姿を確認したが、救助の方法なく帰還したとの事。さっそく海軍の救難艇が救助に向かったが、2、3回の捜索も虚しく、ついに初めての犠牲者が出てしまった。誠に残念無念、痛恨の極みであった。


 それから3日後の昭和18年4月27日に第二回目の出発となった。竹内中隊長以下12機、僕もその中の一員で胸を躍らせた。今度は陸軍の司令部偵察機の誘導との事だったが、司偵機の速度が早過ぎて、うまく誘導ができず戦隊は見失ってしまったようだった。各隊は15分の間隔を置いて出発した。戦隊長下山中佐の編隊が出発して15分後、第一中隊が出発した。さらに15分後、僕等第二中隊竹内大尉の編隊長の指揮で堂々たる編隊を組んで、一途ラバウルに向けて大空を南下した。僕等が出発してから15分後に、第三中隊も出発している。

 長距離の時は最初は落下タンクの燃料から使い、次に翼内タンク、胴体タンクの順に切替えるのであるが、後方に位置する僚機程レバーを動かすので燃料の消費が多くなり、早めにタンクのコックを切替える必要がある。約1割は差がつくようだ。高度3,500m、巡航速度240km/h、実際は260km/h位は出る筈だが落下タンクをつけているので速度が出ない。飛行中はエンジンの音ばかりで海上には白い小刻みの波のみ、睡魔が襲う。頭を振り長機との間隔を保つのに気を緩める事はできない。

 4時間は飛んだろう。地図にある予定した島が見えた。ラバウルの北方にあるカビエン群島である。予定の航路を飛んでいる事が確認された。もう安心である。次第に高度を下げラバウル上空に入った。大きな湾の中に船舶が何隻か停泊している。活火山が小さく煙を出している。湾の横に海軍の東飛行場が見え、その反対側に僕等の目的地である西飛行場が見えている。編隊長機の翼がゆっくり振られ、【解散】の合図と同時に僕等は大きく分散し、順次着陸姿勢に移って無事に着陸した。長かった飛行時間に大きく背伸びした時は、安堵の感もひとしおだった。


 30分前に当然着陸していなければならない戦隊本部の編隊は、まだ一機も姿を見せない。また、15分前に出発した第一中隊の編隊も到着していない。いやな予感が脳裏を走る。皆、心配して腰も下ろさず、北方の空ばかり注視して待つ事20分、編隊が見えた。「来た、来た」注目の中、着陸したのは15分後に出発した第三中隊の編隊だった。皆、無事着陸したものの、戦隊本部はどうしたのだろう。もう30分も経過している。燃料が乏しくなっている筈なのに。途中不時着か、口には出さないが皆の頭の中は複雑な気持ちでいっぱいである。

 ふとその時、一機が東の方から姿を見せた。「ああ、良かった」と思ったが後続機はなく、ただの一機だけである。着陸したのは本部付の中川中尉である。すぐに状況報告があり、戦隊長機他、山崎機がラバウル東方250kmの珊瑚礁に不時着水し、無事である事は確認したものの、着水する訳にはゆかず進路を西に取りラバウルに向け飛行したが、二機(吉田、小川)が燃料切れで海中に消え、一機はラバウルの東海岸に不時着したとの事。この東海岸に不時着したのは厚木分教所時代からの同僚稲見軍曹で、少々怪我はしていたが原住民に救出されて、1週間余りで原隊に帰って来た。本当に命を得て良かったと励まし合った。

 戦隊長の下山中佐と僚機の山崎曹長も海軍の艦艇の救助により、1週間位で西飛行場に帰って来られた。聞くところによると羅針盤が狂っていて、とんでもない方向に道草したとの事。例え針路が1度違っていても4、5時間飛行すると150kmの誤差が出るので、出発前の羅針盤の調整の大事さが痛感させられた。途中、燃料切れして海中に没した戦友が痛ましくてならなかった。部下を亡くした戦隊長の悲しみは、もっと深刻なものだったろう。

 この中川中尉も数少ない生還者の一人で、終戦後のニューギニア飛燕会の会合で会った事があるが、当時の面影そのままだった。彼の手記である『幻』に載っていたのを参考にすると、戦隊長に幾度も翼を振り合図して右の方へと進路を変えるよう注意したものの、戦隊長はこれに応じなかったとの事。結果から判断すれば戦隊長の落ち度ともいえるが、自分の羅針盤を信じた隊長の責任感の強さともいえ判断に苦しむ。


※編集者M.Hからの注釈

 4月27日の第二回目の出発の事について、ここでは本隊、第一中隊の順に第三中隊まで15分毎の間隔を取って出発したと書かれている。しかし、本文に出てくる中川中尉の出版された『幻』によれば、本部と第一中隊を合わせたもの(14機)と、第二中隊と第三中隊を合わせた(13機)二組に分けて計27機が出発したとある。父も『幻』を読んでこの文章を書いている以上、自分の体験に基づき記憶の中の真実を記していると思う。

 しかし、残った資料を照らし合わせていく中で、明らかに記憶違いの箇所は訂正しました。父の原文では第一中隊が帰還したように記されていたが、第三中隊に訂正した。その理由は、整備兵の書かれた別の文章の中に「本部と第一中隊の飛行機は、一機が到着しただけで後は全滅した。スパイ関与説の噂は、我々整備兵の心にその後も重く澱んでいた」とあるので、父の記憶違いの節もある事を了承いただきたい。

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