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第三章・出陣 〜ニューギニア戦線と戦闘の日々〜(1)威風堂々の出陣

 ついに出陣の日が来た。これは上層部で検討された事だったのか、陸路伝いにラバウルに行くか、海上輸送でトラック島経由で行くかの二通りの計画があったらしい。

 結局、陸路では飛燕機の離着陸には飛行場が狭い、しかも訓練こそしたものの、まだ未熟な者が多く、途中での機体損耗が多大になるという理由から海路を選んだのだった。飛燕機を横須賀港から改造航空母艦に積載してトラック島まで運び、陸揚げして一気にラバウルへ飛ぶという作戦が採られた。

 航法に欠かせない羅針盤の修正が細かく点検された。トラック島からラバウルまで千数百kmの洋上を飛行するためには、たとえ一度二度でも羅針盤の針が狂っていたら、4時間も飛んでいると目的地から数百km/hの誤差を生じるのだから、細心の調整が必要となる。この事については、後でまた詳しい失敗の経緯を述べたい。


 昭和18年4月2日、飛行第六十八戦隊の飛燕戦闘隊は、戦闘隊長下山中佐引率の65機をそれぞれの中隊毎に15機ずつ編隊を組み、戦隊本部10機を先頭に明野の空に舞った。富士山を同じ高度で左に見ながら威風堂々の出陣だった。ほどなく20分余りで横須賀海軍飛行場に全機着陸し、後は海軍の母艦積込みの作業手伝いのため、手押しで母艦の横まで運んだ。

 その作業が終わるまで二晩、車庫の中に藁を広げ毛布を敷いての寝泊まりには往生した。何せあまりの状況の変化である。しかし、戦地への出発と思えば贅沢も言えない。

 僕の戦隊の編成は、操縦士は戦隊長を含め65名、整備中隊が各中隊に7、80名、戦隊本部に30名として、総数320名余りで構成されていたようだ。従って僕等の第二中隊には竹内中隊長以下、飛燕15機の操縦士と整備隊員が80名として、総数95名の編成である。車庫の中で宿泊2日の後、船内に入り、それぞれの指示に従い船内配置が決められた。


 日支事変が勃発した昭和10年頃、僕は久留米の明善校の学生だった。「歓呼の声に送られて今ぞいで立つ父母の国」との歌の波。日の丸の旗に送られ勇躍行進する久留米四十八歩兵連隊の百武中尉先導の部隊を、明治通りから久留米駅まで見送った思い出がある。しかし戦局の変異と共に、隠密裏に内地を出発する僕等の新鋭戦闘部隊を見送る者はほんの僅か。横須賀港の海軍の兵隊のまばらな見送りに、必死に手を振る静かな征途だった。

 夕暮時、母艦は港を静かに離れ東京湾を後にした。湾を出ると同時に、厳重なる警戒体制が敷かれた。これは、湾の外に敵の潜水艦が待ち伏せているのを警戒しての事。広大な大平洋上で日本軍を捕捉するより、港の出入口で攻撃するのが一番良策だからだ。暗闇の中での監視兵の苦労も並大抵でない。僕等の戦隊からも数人が交代で見張り番に立たされた。幸い敵の潜水艦の攻撃はなく一夜が明けた。すでに大海原の中に一路南へ進路が取られていた。

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