第二章・開戦 〜猛訓練と三式戦闘機 飛燕〜(9)伊勢神宮と隊歌
この六十八戦隊は、もうすぐ南方戦線へ出陣するとの噂を聞いていた。転進を機会に故郷へ別れをと思い、2泊の外泊を人事係の准尉に申し出たが許可されず、1泊だけの休暇を貰った。
戦友の柴軍曹が帰るというので、僕も彼に同伴して大阪泉北郡の実家にお世話になった。ここで茶粥の料理を初めて味わった。茶処で育った僕には、お粥に茶の入った物足りない料理であった。後で分かった事だが、大事なお客様に出すもてなしの料理だと知り、心にもないお礼の言葉を滑らした自分が恥ずかしかった。
彼の所は山の中のみかんの産地で、冬ごもりに菰の覆いで包み込んだみかん園が、見事な風景を見せてくれていた事が印象に残った。
昭和42年頃、僕はみかんを生産していたが、同じように菰で覆って霜の害を防いだ事も、この風景が印象に残っていたからだった。
ある日の午後、突然、僕に面会人の通達があった。誰だろうかと心躍らし面会室に走った。思いもしなかった父が立っていた。はるばる九州の山の中から一人で汽車を乗り継ぎして、この明野まで来た事に僕はびっくりした。読み書きも満足にできなかったのに、ほとほと感心した。
さっそく格納庫前で整備中の飛燕機を見せた。機に上がり操縦席の内部まで説明し、操縦桿や方向舵の動き等も見せて父の目を喜ばせた。夜は12時まで外出許可を貰い、伊勢市内の旅館で心ゆくまで盃を傾け帰隊した。
父は翌日、伊勢神宮へ参拝して家族の無事を祈願して帰ったようだったが、父として何かの思いがしたのだろう。どんな心境だったのか察するには到底およばない。親の愛情の深さ、明野まで本当にご苦労様と頭が下がった。
ある日、兵舎内外でざわめきが起こった。中隊長の竹内大尉が着物姿の艶やかな女性と散歩している様子に皆、見とれていた。聞くところによると花嫁さんとの事。戦地への出発を前に結婚されたとか。今日は学校へ面会に来られた由。それから10日余りで出陣したので、僅かばかりの花嫁さんだった。竹内大尉は昭和18年の11月頃戦死されたので、可哀想な戦争花嫁さんの運命を辿られた事だろう。今は知る由もない悲話となっている。
いよいよ戦地への出発の日が近づいて来たある日、第二中隊竹内大尉の引率で伊勢神宮外宮、内宮へ参拝し、武運長久の祈願に120余名は心を新たにした。そして二見ヶ浦の海岸で休憩し、松林の中から二見ヶ浦の島を眺めていた。
その時、竹内大尉が『加藤隼戦闘隊』の歌を力強く歌われた。「エンジンの音轟々と隼は征く雲の上」、そして音程の異なった「干戈交ゆる幾星霜、七度重なる感状の…」と、遙かビルマの空に散った加藤隼戦闘隊長の面影を偲び、涙ぐんで歌われた時の悲愴な姿が思い出される。
竹内大尉はかつて、その加藤隼戦闘隊の部下として仏印領ビルマ戦線で活躍された、その生き残りの勇者だと聞いた。幾人かの部下と共に六十八戦隊の編成の主力となって、北満のチチハルに国境警備の任に就かれた由。僕の尊敬した波佐間曹長もその一人だった。その日は心ゆくまで砂の松原での最後の時を満喫した。
終戦後、軍恩の旅行で二見ヶ浦を訪れた事があったが、松原は一変して観光本位の建物が立ち並び道路もできて、昔の思い出は何も感じられず淋しい思いがしただけだった。せめて、当時を偲ぶ軍服姿の写真がアルバムに載っている。二見ヶ浦を背景にした僕の雄姿、陸軍軍曹の姿である。
明野にいる間は日曜外出の折り、よく柴軍曹と二人で神宮に参拝した。外宮に7回、内宮に3回、二見ヶ浦には3回足を運んだ。当時、二見ヶ浦までは幌馬車に乗って行ったものだが、すでにその面影はなかった。
●2009年10月22日よりSF映画シナリオ「クリムゾンX」を連載。
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