第二章・開戦 〜猛訓練と三式戦闘機 飛燕〜(8)飛燕登場
昭和18年1月早々、三式戦闘機飛燕が飛行場に現われた。明野飛行場は僕等の使用している舗装された滑走路と、芝草の普通の滑走路の二線があった。その芝生の滑走路に飛燕機が盛んに離着陸する訓練が始まった。
噂によると、満州のチチハルに転進していた六十八戦隊の九七戦部隊が、機種改変で明野に来て目下猛訓練中の事。九七式戦闘機からいきなり飛燕機に移り変わるのだから問題も多かった。機体は重いし、水冷エンジンのため水温が上がると沸騰する。地上滑走の場合、土埃を吸わないためと水温を上げないよう、プロペラのひねりを強くして(高ピッチ)滑走するように指導されていた。鋪装された滑走路では、その必要はない。しかし出発する時は低ピッチに切替え、プロペラの回転を最高に上げて離陸する事になっている。脚は引込脚で操作は簡単だったが、九七戦の引き込まない脚に慣れ切っていたため、着陸の際に脚を出すのを忘れ胴体着陸する者が二機、三機と出る始末。「ああ、またか。仕方がない」もっと早く発煙筒を焚いて着陸復行(着陸を断念して上昇せよの合図)させ、本人に脚を出し忘れている事を知らせれば良いのにと、後悔する場面もしばしば見られた。
訓練も早3ヶ月近くになり皆、飛燕機の操作もうまくいくようになった折り、僕、稲見軍曹、柴軍曹の3人に、六十八戦隊付の命令が出された。稲見軍曹は戦隊本部、僕と柴軍曹は第二中隊付となり、隊長の竹内大尉(五十二期)に申告した。精悍そのものの大男、アントニオ猪木のように下顎の尖った、無口だが威厳ある風貌だった。
六十八戦付になった翌々日から飛燕機の未収教育が始められ、僕等3人が1週間の訓練を受け、離着陸、空中操作、射撃と大急ぎで飛燕機の操縦を会得した。
隼機に比べどっしりと重く軽爆撃機のような感じ、上空では速度が早く操縦感覚も隼機より一段上回る感じ。この飛燕機で戦地へ行けるとは勇気百倍、身も心も跳ねる心地だった。