第二章・開戦 〜猛訓練と三式戦闘機 飛燕〜(4)水戸陸軍飛行学校
水戸飛行学校は戦技士養成の学校と聞いていたが、僕等の腕を磨き向上させるのが目的ではなく、爆撃機に搭乗する機上射手を訓練する学校だった。では、なぜ僕等戦闘操縦士が配属されたのか?戦技士が標的にするのは僕等の戦闘機なのだ。爆撃機上から機上掃射の訓練の標的になるためだった。
訓練が始まると戦技士は2人ずつで軽爆(九八式撃爆)の後方座に乗り、機上掃射の後にすぐさま機銃につけた写真機のシャッターを押していた。写真を現像して初めて照準の確認がなされるという訳だ。僕等は九七戦に搭乗し、交代で攻撃したものだ。
次に訓練の課目が変わり、地上掃射の実弾射撃が行われる。僕等はこれには出番がない。そこで、上層部で戦闘操縦士にも軽爆撃機の操縦技術を教えたらという事になり、僕等にも軽爆撃機の未収教育が始まった。(未収教育とは、まだ操縦訓練を受けていない者に対する訓練の事)おおむね1週間で、その機の操縦を会得した。ただし、離着陸が主な若干の空中操作であった。
ここに入校した学生は、僕等が操縦希望してこの道に入ったように、彼等もその希望を持ったが操縦から落とされてしまった。では戦技士にでもと志望した者が大半で、上は曹長、軍曹、伍長の階級の者ばかり。僕等が操縦を習うと同じ、彼等はここで戦技、すなわち機上での射撃訓練を取得する訳で、主に爆撃機または一部偵察機に搭乗して敵地に向かうのであり、飛行機である限り危険は変わらない。
水沼に布板を張り、上空300mから実弾を撃ち込む訓練も1週間実施され、対地射撃での彼等の腕も向上したようだった。
戦局が次第に拡大した事で、操縦士の不足を補うために乗員養成の制度(民間の航空会社がパイロットを養成している制度)が兵隊(すなわち軍部)に編入されたとか。操縦士不足の軍部が乗員養成を横取りした形で編入したようだった。
水戸飛行学校でも僕等と寝食を共にした3人の戦友がいたが、3人とも根っからの軍隊生活出身でないので、何となく民間人のようなところが見られた。その中に八女出身(広川)の野田軍曹がいた。加古川の陸軍病院にいる時、彼も負傷で入院して来た。僕等は再会を喜び合った。
その後、終戦まで皆目不明だったが、戦後に彼の家を訪ねたところ、八女市の野田ロウソク屋の守衛をしていて、互いに無事で終戦を喜んだ。彼は八女市の岡山飛行場で赤トンボ(九五式複座複葉の赤い布張りの飛行機)の教官をしていた時、終戦になったと言っていた。暫くして家族の関係とかでアメリカに渡ったまま彼との音信は途切れ、今は思い出の人となった。