第二章・開戦 〜猛訓練と三式戦闘機 飛燕〜(2)仙台一〇一教育戦隊の日々
飛行場は寒い。風が冷たい。満州の冬のようではないが風が冷たい。海岸の近くなので海風の影響なのか、僕の行く所々が一番寒い気がする。
内務班ではストーブを焚いているが、炭バケツ1杯だけの配給では足りない。前方が見えなくなるまで降る大雪の時、2人交代で炊事場の横の炭置場まで炭を失敬に走る。70m余り走り、雪に埋もれた炭をごっそりすくい一目散。皆、軍曹や曹長の下士官ばかりで「文句があるか」の面構え。処置なしである。「我等、命がけで訓練しとるのだ」の意識は消えない。
午前中が訓練で午後は学科。荒木中尉教官の無線の講義は、教科書の受け売りみたいで身に入らない。本人も苦手らしくピリッとしない。
戦闘機では極力小さな無線機が要求される。しかし機体による雑音や戦闘、索敵にも邪魔になるという理由などから、真剣に研究の成果を上げていないようだ。戦地では隊長だけが性能の優れない物を本部との連絡で使っていた。
結局、各機に合図するのは機体の振り具合での意志伝達だった。進行中に急に翼を振れば【敵機発見、戦闘隊形を取れ】、緩く振る時は【集合せよ】。また、飛行場近くでは着陸するから【編隊を離れろ】等々の指示がなされる。だから常に長機から目を離せない。飛行中は周囲の状況も常に把握し、長機に同行する事になる。
ここ仙台の部隊では給与(食事)がまずかった。麦ご飯に大豆まで入れてある。僕等空中勤務者の他、兵隊の教育も行われていた。飛行場大隊としての教育のようだったので給与を下げていたのか、それとも時局柄、部隊長の発案なのか分からない。戦局は破竹の勢いで拡大しているようだが僕等は篭の鳥、詳しい情報はまったく分からない。ただ、今置かれている任務に邁進あるのみだ。
訓練にも慣れ余裕も出て来た頃だった、金谷中隊の助教が、射撃訓練に使った吹流しを落とすために引っ張って飛行場に帰って来た。しかし、高度が低かったので吹流しを宿舎横の松の木に引っかけ、その衝撃で墜落死亡する事故があった。
部隊葬に僕等も列席した。隊長の金谷大尉の切々たる哀調の弔辞が、僕等の目を潤ませた。生ける者に訴える如く感動を惜しまない弔辞に皆、涙を誘われた。
射撃訓練はある程度進んだが、戦闘訓練についての満足はなかった。教官も助教も実戦での経験不足のためか、教える自信がないらしかった。この事が実戦訓練に身の入らない原因と思えた。搭乗時間も思うように稼げない。矢吹で30時間、厚木で50時間、ここで50時間として計130時間余り。「ああ、もっと乗りたい。倍位乗りたい」これで果たして戦地に行けるか心配だ。搭乗時間の事を上官から聞いたが、搭乗時間が300時間なければ戦地では使いものにはならないとか。
米軍は皆、300時間搭乗して戦地へ出て来る。豊富な訓練機、その他あらゆる点で勝っているのは事実らしい。日本では200時間の操縦士が戦地へ出る。優劣は事実らしい。「ああ、早く時間を稼ぎたい」
爆撃機部隊に行った同期の学生は、もう300時間は搭乗しているらしい。なぜかというと、彼等は5人が一緒に搭乗し交代で操縦するからだ。他の学生は側で見ているだけある。2時間も飛行しても、その5分の1の操縦時間を2時間の搭乗と計算されるので、僕等の3倍の時間歴を持っているが、戦闘操縦士は実務の技術時間だから決して引けは取らない。終戦時までに、僕はざっと1,000時間は搭乗したと確信している。
航空機事故では操縦士の搭乗時間の事が報じられ、「5,000時間の名パイロット」等と書き立てられるが、実際は操縦士の技術は時間では計れない。
訓練が単調に流れ、僕等の内務班もだれてくる。そこで、誰が始めたのか花札が流行った。寝台の毛布の上に4人で坊主とか雨を並べ、盛り上がってくると他の皆が覗き込む。たまに教官が2階に上がって内務班を見に来る。入口に近い兵隊が「上官!」と言って敬礼する声を聴くと毛布を瞬く間に被せ、その上に居座り知らん顔でいる。これには教官も気づかない。「退屈だろうな」と言って帰るまでが待遠しい。
ある日、戦友の田山軍曹宛に故郷の水戸から鰹節の半生が送って来た。焼かなければ食べられない。ストーブの温度を上げ天板でじりじり焼いた。油と煙が立ち込め往生したが、寒い中、窓を全開にして扇いだ。1階の上官に感づかれるのではと心配したが、しかし、ここは2階のため匂いは階下までは届かないのが幸いだった。たらふくご馳走になった。