第二章・開戦 〜猛訓練と三式戦闘機 飛燕〜(1)日米開戦と射撃訓練
昭和16年11月末、厚木飛行場を後に、宮城県名取郡仙台一〇一教育戦隊に分遣された。
12月1日、僕は待望の軍曹に進級した。他の部隊でも僕等と同じように同期生が訓練されていたのだろう。戦隊は鏑木中隊と金谷中隊に別れ、僕は鏑木中隊に配属された。ここでは助教の配属はなかった。一期上(八十五期生)の助教が2、3名で指導してくれた。
また、教官も2人指導してくださったが、五十四期の士官学校出身だったので僕等より半年早く操縦を習っただけの先輩だが、実習の点では僅かながら上だった。
風雲急を告げる昭和16年12月8日、軍艦マーチが鳴り響く中、日米開戦の火蓋は切られた。日本海軍がハワイ真珠湾を攻撃し、大戦果を上げた異状な連続ニュースが僕等の志気を鼓舞した。続いて陸軍がフィリピン、マレーシアに怒濤の進撃する中で、さらなる僕等の訓練も始まった。
ここでは主に九七式戦闘機による射撃訓練だった。九七戦に吹流し(入口が1mで出口が80cm、長さ5m)を300mの綱の先につけ引っ張るのだ。それを後上方から色のついた銃弾を撃ち込むと、命中した所に穴が空き、弾に染めてある色が周囲につく。その色の数で命中数が記録される仕組み。10発撃って50点満点だが最初はなかなか命中しない。300mの距離から狙い150mで発射。80〜70mで離脱する。近づき過ぎると、吹流しをプロペラで切ってしまう。5秒足らずの間ですべてをやってしまう、その緊張感が何とも言えない。弾の色は無地、赤、青、紫、黄、緑で、6名の操縦者がそれぞれの色のついた弾を、その一つの吹流しに撃ち込むと一回の終わり。
地上に落とされた吹流しに、教官が丸の判子を押し点数を記録していく。5mの吹流しを5つに区切り、第一環(初めの1m)赤一、緑一と記録し、次はそれを裏返して第一環赤出一、黄出一、等と命中度を記録する。第三環あたりに集中する事が一番良い事になる。僕はいつも20点位命中して上位に食い込んだ。