第一章・入隊 〜軍隊生活と飛行兵志願〜(16)熊谷陸軍飛行学校
昭和16年1月29日、【第三次操縦試験のため熊谷陸軍飛行学校に出頭すべし】と待望の本部命令の通達があった。藤原軍曹も同様だった。夢のような喜び。もう内地での第三次試験は合格したも同然。内地へ帰れる大きな喜びだ。しかし熊谷飛行学校とは、たしか爆撃隊の学校だと聞いていたので、ちょっと意に反した思いだった。
昭和16年2月、熊谷飛行学校には120〜130人集まった。第三次の検査を受けたが、例により体重、身長、その他の簡単な身体検査の後、入校式があった。館林分教に行く者とか、それぞれの班に指令があり、僕等40名は福島県郡山市白河町の矢吹分教所に派遣された。
そこは小さな田舎の、小高い山を崩して平らにした小さな飛行場だった。巾200m位、長さ800m位だったようで、まだ草も充分生えていなかった。
練習機は九五式複座複葉の赤い布張りの飛行機で『赤トンボ』の名称で呼ばれていた。初めは教官か助教が前の座席に乗り、学生は後部座席で操縦を習うのであるが、後部座席には必要なだけの計器しかない。すなわちレバー、水平安定盤、羅針盤、高度計があり、操縦桿も前座席と繋がっているので同時に動く。後座席で操縦桿の動き、計器の変化を習得するのであるが、なかなか意のままにならない。
僕はなかなか自信が持てなくて13時間を費やした。自信はなかったが助教から「もう大丈夫、教わった通りにすれば心配なし」と励まされ、初めて単独飛行で大空を飛んだ。左翼の吹流しが存分の風を受けて喜んでいる。ほどなく全員が単独飛行を成し遂げた。これが“パイロットの親離れ”である。燕の子の巣立ちだ。
飛行機の操縦では着陸が一番難しい。事故の3分の1位は、着陸の失敗によるものと言っても過言ではない。過ちは死へと繋がるので緊張の連続である。後年になっても隼機、飛燕機で同じ慎重な判断と注意が要求された。
離着陸ができるようになったら次が『空中操作』で、飛行機を左右上下と自由に動かすのだ。宙返りは助教が一、二度操作を教えた後は学生が行う。急上昇して背面になり、また元に戻る感覚も異状だった。急上昇して機体が止まる寸前、反転して元の通り急下降を行う。背面飛行はバンドをしっかりと締めていないと大変な事になる。背面反転は難しかった。水平飛行から一回転して、また元の水平飛行に戻るのである。いわゆる『特殊飛行』というやつだ。
いろいろと操作を習うと、もう大丈夫。しかし、個人での飛行時間は一機の飛行機を5人が乗り回すので思うように上がらない。ここ矢吹飛行場での全飛行時間は50時間余りだろうか。
僕等の助教は軍曹で下士官室に4人程で宿泊していたが、その部屋の掃除、寝具や衣類の洗濯は僕等5人が交代で世話した。他の助教3人には、他の班から1人ずつ出て世話をするのである。下士官になってもまだ上官(特に教えてもらう助教)に対する礼儀なので、別に苦にもならなかった。
僕の助教はヒバリの子を飼っていて、可愛い口元に練り餌を与えて育てていた。飛行場には空高くヒバリがさえずり、一瞬急下降して草面に降りるがそこには巣はなく、そこから14、5メートルの所に巣があるらしい。「ちょっと素人では発見できない」と助教は教えてくれた。
ある日突然、僕に面会人のある事が報じられた。さて誰だろうか?急いで面会室に行くと、そこには兄の軍服姿があった。4年振りになる。嬉しかった。除隊で家に帰る途中、僕が矢吹にいると聞いて立ち寄ってくれた。仙台飛行場に原隊があり無線士だった兄は、中支の南京まで重爆撃機にたびたび搭乗し出撃したという。怪我なく除隊できる事は何よりの喜びだった。そして今回は仙台から九州まで帰る途中の好機だった。「ご苦労さん、僕は今からが始まり。お互い元気でやろう」と固い握手で別れるまで、1時間余りの話は尽きなかった。
ここでの生活では、ときどき娑婆の空気を吸う事を許された。ある日、隊列を組んで軍歌を歌い、田舎道を1時間余り歩き回っている途中、一軒の田舎店があった。樽に豆腐が2、30余り水に浸っていた。小休止がかかり、豆腐に醤油をかけ瞬く間に平らげてしまった。他に食べ物はなく、飯は食ったものの若武者の食い盛り。けろりとして、また軍歌列は出発した。
外泊も1回あった。行先は白河町。町には食堂もほとんどない。白河湖でボートを漕いで半日過ごした。班の学生は曹長3名、軍曹、伍長の構成で、曹長が学生長として僕等を統括してはいたが、同期の八十六期生だから階級的な上下はなかった。
やがて5ヶ月の訓練が終わり、僕等は各分科種別の希望を出した。個人の種別に、僕は第一に『戦闘』、第二に『偵察』を希望した。『戦闘、偵察、軽爆、重爆』の四種に対し、教官がその学生の特性を配慮して決定していた。僕は第一希望の『戦闘』だった。嬉しかった。
思い起こせば3年前、平壌の航空教育隊に入隊した時、ポプラの木陰から飛び立って行った九七式戦闘機、引いては会寧部隊での九五式戦闘機の単機訓練を手に汗を握って見上げ、空の勇士に憧れた想いがやっと実現したのだ。そして今、ようやく飛行機の操縦ができるようになったのだ。これからの訓練が待ち遠しい。