日向楓太はオカルトを信じない
◆
四月の終わりのある日のこと。
「…今日はここまで。しっかり復習しておくように」
初老の男のその言葉を聞いて、半分眠っていた楓太は目を覚ました。
それに半秒遅れて授業の終わりを告げるチャイムが響く。
教諭は手早く道具をしまうと生徒を振り返ることなくまるで機械のようにきびきびとした動作で教室を後にする。
楓太は教諭を横見で見送りつつ、グーッと腕を伸ばして肩をポキリと慣らす。
ついでに大きなあくびを一つ。
まぶしさに目を細め外を見れば太陽はすでに傾いており、西陽が楓太に向かって降り注いでいた。
まぶしい。薄っぺらい使い古されたカーテンを限界まで引く。
しかし、遮光性皆無のカーテンではさして意味はなく、おまけに若干長さが足りないせいで明るい光はなおも颯太に降り注ぎ続ける。
四月の頭。つまり今学期最初の登校日のことだった。
「二年生だから今更名前順じゃなくてもいいだろう?というかもうクジつくっちゃたから引いちゃって」
そんな適当な担任の宣言により急きょ行われた席替えにより、楓太が手に入れた席は窓際の一番後ろの席だった。ちらりとカーテンの隙間から外をのぞき見る。
楓太の通う呉守高校は呉守町の中心にある小高い丘の上に建てられている。
緊急時には避難場所にもなるこの高校は、場所によっては市の半分が見渡せる観光スポットだ。
桜の咲く今の時期もだが何より秋の紅葉が素晴らしいこの場所には休日になると家族連れや老人会などが憩いの場所として使っている。
一年生の時は帰りがけに正門からしばらく歩いたところにある大きな坂、通称『もみじ坂』を通るとき、もしくは昼休みや放課後に屋上にでも出ない限り見えない景色を二年になった今は教室にいたまま好きなだけ見ることができるようになっていた。
市を二つに分ける呉守川や、去年駅前にできた全国チェーンの百貨店、楓太が昔から通っている図書館や商店街などなど。この土地で育った楓太にとっては見慣れた、しかし心が落ち着く景色がよく見える。
楓太はこの町が好きだ。
別段、有名なものや一目を引くものがあるわけではない。
レジャー施設なんてしゃれたものもないし名産品もどこにでもありそうな饅頭ぐらいだ。
でも、生まれてからずっとこの町で暮らしてきたこの町は、少なくとも楓太にとっては、言葉では説明できないような良さがたくさんある場所だった。
ゆえに。そんな呉守町を一望できるこの窓際の席は颯太にとってベストプレイスだったのだが、先に述べたように西陽が辛い。
今の時期はまだ我慢できるが数か月後に迫る夏を思うと、溶けかけのアイスみたいになった自分が容易に想像できてしまう。暑いのが苦手な楓太は少しだけ気が滅入った。
「よく眠れたかね、日向楓太くん」
うぉっほん、という偉そうな咳払いのおまけをつけて肩が叩かれた。
暑さで下がりかけのテンションがさらに一段落ちる。
その手をめんどうくさそうにはねのけながら後ろを振り向く。
そこには楓太の予想通り、いや西陽のせいで予想していたよりも眼鏡をより一層輝かせながら不敵に笑う男が一人立っていた。
「おかげさまでぐっすり眠れたよ、多岐」
多岐総一郎。学業優秀、クラス委員であり、さらにはオカルト研究会会長まで兼ねる楓太の友人だ。小学校の時からの付き合いで一度も別のクラスになったことがないという極めつけの腐れ縁だ。
「それはよかった。ちなみにターミネータ西島の定期試験は、睡眠学習程度では対応できないことはすでによくわかってるよな」
「あぁ、骨身にしみてるよ」
西島教諭は先程までここで授業をしていた日本史教師の名前だ。
デジタル時計を体内に仕込んでいるかのような正確無比な時間配分と機械のようなきびきびした動き、そして、人間の情を微塵も感じさせない定期試験の難度からターミネーター西島と呼ばれている。
去年、クラスの三分の二が赤点で追試を受けたことは楓太の記憶にも新しい。
ちなみに多岐は赤点ではなく普通に高得点とっていた。
「やはり眼鏡の奴は違うなぁ」
「いや、眼鏡は関係ないだろう」
などとどうでもいいやりとりをしていると多岐が思い出したように言う。
「日向、今日このあと暇か?」
未だ輝く眼鏡が一層きらめくのを楓太は見逃さなかった。
「いや、忙しい」
「日向、今日このあと暇か?」
「忙しい」
「日向、きょ」
我慢できなくなり丸めた教科書で頭を打ち抜いて多岐を黙らせる。
「忙しいって言ってるだろうが。村人Aか何かなのかお前は。それにどうせあれでしょ。オカ研の勧誘でしょ?」
「マサカー、ソンナワケナイヨー」
これ以上ない棒読みが全てを物語っていた。
楓太は溜息をつくと多岐を殴った教科書や出しっぱなしだった筆記具を鞄に突っ込む。
代わりに置き勉用の教科書を引っ張り出して机の引き出しに突っ込んだ。
「おまえの執念深さには恐れ入るよ。何年も言い続けているけど、僕はオカルトとかそういうの興味ないんだよ。だいたいいるわけないだろ。そういう非科学的なものがさ」
「まぁまぁ、そう言わずにさ。そこを何とかならないか?実は先日篠原先生から…」
「ならん。というか忙しいのは多岐の勧誘から逃げる口実じゃないんだよ。ほら、前から言っていただろう?今日なんだよ、引っ越し」
あぁ、そういえば、と多岐。
「いいなぁ。お前と成り代われるなら全てを犠牲にしていいくらいにはうらやましいよ」
「そんなことをいうのはたぶん呉高でもお前くらいだろうな。僕は憂鬱で仕方が…いや、オカルトなんてあるわけないんだけどさ」
そんな楓太の様子を見て多岐はやれやれと両手を広げてみせる。
「ま、お前がそういうスタンスなのは今に始まったことじゃないからいいけどさ。困ったことがあったら言えよ。さみしくなったらうち泊りに来てもいいし、俺が泊りに行ってもいい。母さんもお前なら何泊させても許してくれると思うし」
付き合いが長いこともあり口に出さずともそういうところを察してくれるのはとてもありがたい。
颯太はやはり持つべきは友達なのだな、と心の中で涙を流す。
多岐の頼みなら何だって聞いてやろうと心に誓う。
「ありがとう。どうしても困ったときは頼らせてもらうよ」
「その代りにどうだ?オカルト研究会。今なら何と…」
速攻で数秒前の誓いを粉々に砕き、しっしっと手を振って多岐を追い払う。
げに友情とははかなきものなり。
「俺はあきらめないぞ日向!俺は必ずお前をオカ研に入会させてみせる」
自分の席から叫ぶ多岐を無視して再び窓の外を見る。
太陽はさらに傾いており、呉守川はオレンジ色に染まっていた。
「いるわけないんだよオカルトなんて」
自分に言い聞かせるような楓太の独り言はホームルームのためにやってきた担任の大声でかき消されてしまった。
◆
「私は積みゲー片付けないといけないのよ。くれぐれも連休中に問題起こさないように。頼むわよマジで」
いやに感情のこもった圧力のかかったホームルームが終わると生徒たちはバラバラと教室から出ていく。
その流れに混ざるようにして楓太も教室を出た。
既にグラウンドからは部活に精を出す生徒の声が聞こえ始めていた。
呉守高は地域ではそれなりの進学校だ。だから言ってしまえば部活にはそれほど力を入れていない。
だから全生徒の三分の二くらいしか部活をやっていないし、その生徒たちも甲子園や総体目当ての者たちはほとんどなくスポーツを楽しむというのを目的とした生徒が多い。
かくいう楓太は残りの三分の一の方。つまりは帰宅部だった。
いつもなら図書館によってしばらく時間をつぶしてから家に帰るのだが今日は月末清掃で図書館が開いていない。
去り際に多岐がそう言っていたから間違いない。閉館となるというのに目が輝いていたのは何故か気になったが十中八九『そういう話』になるので楓太は気にしないふりをして教室を出てきている。
ゆっくりと、わざと時間をかけるようにして歩きながら楓太は途方に暮れていた。部活に行っていない生徒たちが未だ教室や廊下にたむろして話し込んでいる。おそらく明日から始まるゴールデンウィークの予定についてでも話し合っているのだろう。それを聞き流しながらぶらぶらしていたらいつの間にか靴箱に着いてしまった。図書館が開いていない以上、家に帰ることになるのだがこの上なく気が重い。
(もう少しだけ時間をつぶそう)
そう決めた楓太は来た道を引き返すと体育館に足を向ける。
部活に励む生徒たちを横目に見ながら体育館の脇にある自動販売機で缶ジュースを買うと屋上へと向かった。
階段を上り屋上への昇降口の前まで来ると外の様子をこっそり伺う。
カップルがいないことを慎重に確認すると、楓太はほっとしながら屋上へ出た。
以前、一度だけカップルの逢引中に知らずに突撃したことがあった。あのときの気まずさたるや。
しかもその女の子のほうがクラスメイトで、しかも楓太の思い人であったから二重の意味で辛かった。
それ以降この時間帯に屋上に来るときは必要以上に状況を確認するようにしている。
呉高の屋上は結構広い。
屋上にプールを作るという話もあったらしいし25メートルプールがすっぽり収まってなお余裕があるくらいには広い。屋上への出入り口を出て中央を突っ切りボイラーだが水道設備だがの建物の裏にあるベンチへと向かう。
忘れ去られたように置かれたベンチに腰掛けると缶ジュースのタブを開け一口飲む。炭酸の心地よい刺激がのどに広がった。一息ついて缶をベンチの下に置くと楓太はベンチに横になって空を見上げる。赤く染まった夕暮れをバックに浮かぶ雲を眺めながら楓太はポケットから一枚の紙を取り出した。
『呉守町下柳3丁目19番地月見荘』
そう書かれた紙を見ながら大きくため息をつく。
「…早まったよなぁ」
『月見荘』。
今日から楓太が住む家の名であり、あれば知らぬ者などいない町内有数の心霊スポットだった。
◆
父親の急な海外転勤により日向家は住んでいる家を出ることになった。ひと月前のことだ。
母親と妹は父親について海外に出ることになったのだが楓太だけは断固としてこれを拒んだ。
2、3年すれば帰ってこられるとのことではあったが呉守町を出るということ自体が楓太にとってはありえないことだった。
父親は「楓太に嫌われてしまった」と泣き出し、妹は「信じられんない!妹不幸もの」と怒り狂うという大惨事となった。母親は一歩引いたところでことの成り行きを見守っていたが両者が一歩も引かないことに耐えかねたのだろう。
「楓太、ある条件を飲めばお母さんはあなたがこの町に残ることを認めます」
そういって月見荘での下宿の話を持ち出してきた。
なんでも友人が家主であるらしい月見荘では下宿人を募集しているらしい。
下宿代は友人料金で破格であるから学業に支障をきたすようなバイトはしなくてもいいし親としても安心であるとのことだった。
雨風さえしのげればそれでいい。まずはこの町に残ることが第一。そんなことを考えていた楓太の心に初めての迷いが生じた。
何せあの月見荘である。
月見荘は呉守町の北東、つまり鬼門に位置する下柳という地区にある古い日本家屋だ。
下柳という地区自体が一種の大きな心霊スポットなのだが、月見草はその中でも群を抜いて有名だった。どの程度かと言われれば下柳どころか呉守町全体の妖怪たちの元締めなどと言われるほどだ。
多岐から耳がタコができるほど聞いていたし、楓太自身も『偶然にも』調べたことがある。
(うっかり通りでもしたら大変だからな)
ろくろ首や猫又のような古くから有名な妖怪から、口裂け女やメリーさんのような近代都市伝説に登場するようなものまで数々の目撃情報が月見荘にはあった。町を出ることとの天秤にかけること数十秒。
やはり家族について町を出ることを決意した矢先
「お兄ちゃんには無理だよ!月見荘ってすごくやばいところじゃんか。心臓に負担かかりすぎて死んじゃうよ」
「楓太。おとなしく着いてくるんだ。怖がりのお前が命を無駄にする必要はない」
「…」
多岐にそう接しているように颯太の表面上のスタンスは『妖怪なんていない』というものだ。
もっと正確にいえばそこに失笑のサービスをつけてもいい。
心霊写真を持ってくれば光の屈折である、あるいはカメラマンの腕がよくなかったようだと決めつけるし、心霊番組をやっていれば大声で視聴率をとるのも大変だなと大きな声で言う。
それは家族に対しても例外ではない。先の言葉からすでに化けの皮は剥がれているのは先の父と妹の言葉から明雅だった。しかし、だからといってそのスタンスを変えるつもりはない。二人の言葉は心から心配してのものだった。しかし、そのような憐れみの言葉と優しさが楓太のなけなしの自尊心を一層燃え上がらせてしまう。
そして、そうなった楓太はもう自分でも止められない。
「ば、バカだなぁ!妖怪なんているわけないだろう。それにそもそも全然怖くなんかないし。いいよ。住むよそこに。なんなら明日からでも行くけど」
「本当にいいのね?さすがに明日からは無理だけれど」
楓太がそういうのを待っていたかのように母親が確認してくる。
こうまでして引き下がれるはずがない。内なる自分の静止は楓太自身の行動を止めることはできない。
コクンと頷く楓太を見て母は近年まれにみる顔の笑顔をを浮かべた。
◆
「…やっぱり早まったよなぁ」
先程よりも赤く染まった空を見上げながら同じ言葉をつぶやく。
あれからとんとん拍子で話は進み、父たちは日本を出て楓太は今日から月見荘で暮らすことになっている。今頃、荷物もすでに運び込まれてしまっているころだろう。
(いつまでもこうしているわけにはいかないか)
景気づけにと、残っている中身を一気に流し込もうとして咳き込んでしまう。
楓太が胸を押さえながら咳き込んでいるとふと後ろから声がしていることに気づいた。
耳をそばだててみるがよく聞こえない。
せめて誰かわかればと思うが、入口とこのベンチが置いてある場所との間には小部屋が立っているためお互いに姿も確認できない。
屋上に出てしまえば大丈夫と思ったが逆パターンもあるのだなと楓太は今更ながらに失敗に気づいた。
以前のようにカップルがいたなら大きな声で電話するフリでもしようと思いながら楓太は小部屋ににじり寄り入口の方を盗み見る。
髪や体型から判断するにどうやら女の子が二人いるようだ。
これなら普通に出ていった大丈夫かと思い歩き出そうとした楓太はその足を慌てて止めた。
入口にいる二人をもう一度よく見て気づく。
「あれ、もしかして葛城雅と橘環奈か」
葛城雅と橘環奈。
呉高に知らぬ者なしの二大有名人だ。二人とは違うクラスだが楓太でさえだいたいの話は聞いている。
葛城雅について。
まず、容姿がすこぶるいい。吸い込まれるような黒髪と気品にあふれた仕草は見るものすべてを魅了する(らしい)。
具体的な話をすれば一年の時に非公式で行われた呉守高校新入生ミスコンテストで妹にしたいランキング、恋人にしたいランキング、嫁にしたいランキングの3つの部門全てにおいてぶっちぎりの一位に選ばれた。
彼女のせいで例年行われる運動部の血なまぐさいマネージャー争いに拍車がかかったりしたという話も聞いた。結局マネージャー争いについては病弱で休みがちということで、どこの部のマネージャーにもならずに落ち着いたらしい。
その病弱さがまたいい、と言って熱弁を振るい女子にドン引きされていたのはクラスの誰だったか。深窓の令嬢とは彼女のための言葉だ、などとも言われていた。
それから、これは関係ないことだが、彼女から何か感じるなどと変態じみたことを言いながらオカ研に勧誘しに行った多岐が話すら聞いてもらえずに帰ってきたのを思い出す。ボロ泣きだった。
そして、橘環奈。
彼女は今年になって呉高に編入してきたということで話題になった。
成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗。それだけでも十分に目立つのに、さらにそのバックグラウンドについても様々なうわさが飛び交っていたせいでさらに注目を集めていた。曰く1か月で100人の男子を悉く振ったとか、実家が駅前のデパートのオーナーだとか。この一か月だけでこれだけ色々噂になっているあたり、今現在の最大瞬間風速的に雅よりも有名と言えるかもしれない。
そして、これまた関係ないことだが多岐は確か彼女の元へも雅のときと同じくオカ研の勧誘に行き返り討ちにされて帰ってきていた気がする。こちらもボロ泣きだった。
急に、友人にミーハーかつ女好き疑惑が浮上して複雑な気持ちになる。
「ここ一年の仕事ぶり調べさせてもらいましたわ。はっきり言わせていただきます。葛城では力不足ですわ。だからおとなしく指をくわえて見ててくださらないかしら」
怒鳴り声で楓太は我に返る。
どうやら怒鳴っているのは環奈の方らしい。
想像していたよりも高めの声を楓太が意外に思っていると、環奈は鞄から紙の束を取り出すとそれを雅の足元に投げて渡した。それを拾いパラパラとめくる雅。少し離れているうえに彼女が俯いているため表情はよくわからない。しかし、一枚、二枚とめくるたびに彼女の周りの空気が一度ずつ下がっているような錯覚をしてしまう。
「これはこれはご丁寧に。さすが『成り上がり』の橘の娘さんはお金の使い方がうまいようで」
環奈とは逆に思っていたよりも低めの落ち着いた声だった。
『成り上がり』という言葉を殊更に強調して明らかに皮肉をこめた雅の言葉にも環奈は動じない。
「あら、葛城にはそういう余裕がないから羨ましいのかしら。資金はあらゆるものに必要なもので優先すべきものです」
それどころかさらに雅を煽る。
怖い。楓太は思わず身震いする。
二人と話したことがないので普段の彼女たちを知らないのだがこういうキャラだったのかと驚く。というかドン引きである。心なしか彼女たちの周りだけでなく楓太の周りまでもが先程よりも気温が下がった気さえする。
「資金もですが何より人員が足りていない。これじゃあ、利用者の方々も困ると思うのだけれど。過去の栄光にすがることほど醜いものはないですわね」
雅が歯を噛みしめながらぶるぶると体を震わせているのが分かった。
深窓の令嬢とは何だったのか。むしろ飢えた獣のような印象である。
だが、雅はその怒りを飲み込んだらしい。務めてなんでもないように装って咳払いを一つ。
「ま、まぁ、そこは否定はしないわ。確かにうちは人手不足よ。けどね、そんなことが言えるのも今日までよ。これを見て驚きなさい橘環奈」
ポケットから携帯を取り出して操作すると、それを環奈に投げて渡す。
環奈は急に投げられたせいだろうか、キャッチミスしそうになっていた。一度、二度と携帯を宙に舞わせていたが何とか携帯をつかむと中を覗き込んだ。しばらくして、その顔に驚愕が浮かび上がった。
「これ、本当なんですの?」
「そうよ。紛れもなく『彼女』からのものよ」
得意げに胸を逸らす雅に疑心の目を向けながら環奈が何度か携帯を見直す。
「嘘でしょ?まさか『朱の尾』の息子が?いやでも確か彼って…」
環奈がブツブツ言っているのを動揺ととったのだろう。
「あら、言葉もでないようね!橘環奈」
雅の高笑いが響く。本当に深窓の令嬢が聞いてあきれる。
夢が壊されたような気がしてげんなりしていた颯太のポケットが突然震えた。
慌ててベンチのところまで引き返して電話に出てみると引越し屋からのものだった。
引っ越しが無事に終了したので連絡を入れたらしい。
業者にお礼を言って電話を切る。気づかれなかったか不安になり、もう一度入口を見ればいつの間にか二人はいなくなっていた。
「行くか…」
意外な二人の不思議な言い合いに現実を忘れていたがこれから自分は月見荘に向かわねばならないのだ。本日最大の溜息をついて楓太は屋上を後にした。
◆
「このままこの時間がずっと続けばいいのに」
そんな台詞を自分でつぶやくとは思っていなかった。
しかし、悲しいかな。今の楓太の台詞は異性に対して投げられる甘酸っぱい言葉ではなく、ただの現実逃避の独り言でしかない。単に月見荘に行きたくないだけである。
意図せずして入念な下調べを行ったせいで思いのほかあっさりと下柳まで着いてしまった。
高校を出て20分といったところだろうか。これなら連休明けからもこれまでと同じ時間帯に起きて十分学校に間に合うだろう。
夕日はもうほとんど沈み切っており辺りはすでに暗くなっていた。
下柳に入ってからは閑静な住宅街が続いていたが急に人の声が増えた。どうやら商店街まで来たらしい。月見荘は商店街を抜ければすぐそこにあったはずだ。
商店街の中を歩きながら辺りを見渡してみたあることに気づく。
先程の住宅街もだが楓太の想像していたものよりもかなり新しかった。もっとおどろおどろしい場所かと思っていたがそんなことはなく、商店街に限って言えばむしろ楓太の家の周りよりも賑やかにさえ思えた。
シャッターが閉じている店はほとんどないし店のほとんどにお客さんが数人いて思い思いに話をしていた。お店の方も胡散臭い骨とう品屋や質屋とかが並んでいるかと思っていたが八百屋や魚屋、菓子店にお茶屋などなどきわめて健全なお店が並んでいた。そのうちの一軒、肉屋の前で足を止める。肉屋の店頭には生肉以外にもすでに調理済みの商品が所せましと並べられており、特に揚げ物からは食欲を刺激する何とも言えない香りが漂ってきていた。
「あれ、兄ちゃん見ない顔だね。よかったらコロッケどうだい。ほっぺたが落ちるくらいうまいぞ」
すでにコロッケは包まれておじさんの手に握られている。別に嫌いではないしここまでされては断れない。
「はぁ、では一つください」
豪快な肉屋のおじさんに勧められるままにコロッケを一つ購入する。揚げたてのコロッケは本当においしそうで、思わずその場でかじりついた。
「お、おいしい!」
衣はサクサクでなかはホクホク。ひき肉と玉ねぎの味がしっかりしてて非常においしい。どこか濃厚な感じがするのはバターか何か入っているのだろう。あっという間に平らげてしまう。その様子をおじさんは笑ってみていた。
「言い食べっぷりだな、兄ちゃん。よかったらもう一個どうだい?」
何なら一個でも二個でも食べられそうではあったが遠慮しておくことにした。
「今日からこのあたりに住むのでまた買いに来ます」
「おう、待ってるよ」
ガハハと豪快に笑うおじさんに一礼して店を後にする。
おいしいコロッケを食べたせいか、それとも人の良さそうなおじさんと話したせいか。下柳に着いた時に感じていた不安は小さくなっていて楓太の心にも余裕が生まれつつあった。
ネットの情報が100%正しい訳ではないのだ。100歩譲ってそういう体験をした人がいたと仮定して、自分が同じ体験をするとは限らない。そんな自己暗示ができるくらいには落ち着いている。
ホラー映画や心霊番組を見るときに散々やっているのでこの手の思考は颯太の特技といってさえよい。
というのも妹は颯太と真逆で見ているときはキャーキャーわめいているくせに見終わった後には何事もなかったようにできるタイプなのだ。ぐちゃぐちゃのスプラッター見た後にハンバーグを食べるし、風呂場に幽霊が出る類の映画を見た直後に風呂に入り鼻歌まで歌ってそのまま寝てしまうぐらい長風呂するような毛深い心臓の持ち主なのだ。精一杯強がって見た後、夜トイレに行くのにさえ躊躇してしまう颯太とはえらい違いである。
それはともかく。
人間納得さえしてしまえば怖いものは何もないのだ。
昔の人が不思議な現象を妖怪のせいにしたのもきっと納得することで恐怖を乗り越えようとしたに違いない。『幽霊の正体見たり枯れ尾花』という言葉がそれを証明している。
それが正しいか間違っているかという客観的な判断は必要ではなく、自分が納得できるかどうかというきわめて主観的な判断なのだ。
そんなことを自分に言い聞かせながら歩いているうちに楓太はいつのまにか大きな門の前についているのに気付く。
「…」
来るものを拒むような威圧感を持つ(楓太主観で)巨大な門と、古くなってところどころ痛んでしまっている看板。何度もネットで外観を見たから間違いようがない。ここが月見荘だ。
ゴクリと息を飲むと扉に手をかける。ギギィという重い音がして扉がゆっくりと開いていく。石畳の通路とそのわきに立っている灯篭があり、その先におそらく玄関らしき扉が見える。楓太はもう一度息を飲み込んで歩き出した。
月見荘の中、正確にはまだ庭なのだが、は確かに呉守の妖怪の元締めというのも納得できる雰囲気を持っていた。
硬い石畳の音も、その横にある灯篭のぼやけた明かりも、庭のどこかから聞こえる葉が風で揺れる音も。そのすべてが五感語り掛けてくるような重い威圧感のようなものを感じる。
まるで地獄の道でも歩いているような錯覚をしてしまい思わず早歩きになる。
10メートルぐらいしかないはずの道が果てしないく長く感じてしまう。
「や、やっと着いた」
額の汗を右手で拭う。背中もなんだかじんわり汗をかいているようで気持ちが悪かった。
不意に視線を感じて後ろを向く。いったいいつからいたのだろうか。
一匹の猫が楓太の後ろに行儀よく座っていた。茶と白のぶち模様を持つその三毛猫はこちらをじっと見ていたが、やがて興味をなくしたように楓太を素通りして庭の方に歩いて行った。
(なんか今の猫妙に威厳があったな)
ついでに言えば三毛猫にしては珍しく雄猫だった。そのことに少しだけ気を良くしつつ扉に向き直る。
玄関には月見荘と書かれた木札の他にも表札がかけられていた。
『葛城』とかかれたそれを見て夕方屋上で言い合っていた少女の片割れの顔が思い浮かぶ。
今日でだいぶ印象が変わったものの、曲がりなりにも『深層の令嬢』と呼ばれている葛城雅がこんなところに住んでいるとは思えない。浮かんだ考えを頭の隅に追いやると意を決してインターホンを押す。
ピンポーンという気の抜ける音からほどなくして中から足音が聞こえてきた。
「はいはい、どちらさまー」
間延した声を伴って扉が開く。現れたのは一人の女性だった。
身長は颯太より頭一個分ほど高い。楓太の身長が高校生の平均身長より少し高いくらいなのでかなり高めだ。年齢は詳しくはわからないが颯太より少し年上ぐらいだろうか。
春を感じさせる爽やかな緑色のワンピースとそれに合わせた淡い色のキュロット。首にまかれたスカーフがアクセントになっていて元気のいい大人、という印象を感じさせる。
いきなりの年上の美人の登場に面喰いつつも楓太は自分が今日からお世話になる日向であると名乗る。
女性は「日向、日向」とこちらの名前を復唱して、しばしの沈黙の後、ポンと手を打った。
「あぁ、聞いてる聞いてる。さっき荷物も届いてたし。そうか君が楓太くんか。なるほどねぇ」
女性はふむふむとしきりに頷きながら楓太の周りをクルリクルリと回りながら品定めするように上から下から眺めまわす。
「な、何か?」
いきなり名前で呼ばれたこともだが普段慣れていないような視線を感じて居心地が悪くなってきた。それに向こうも気づいたのだろう。
「いや、ごめん、ごめん。話には聞いていたけれどどういう子が来るか気になってたからさ。本当に『普通』の子だなぁって」
そう言いながら玄関の中に楓太を招き入れた。こうされたら断るわけにもいかない。
楓太は月見荘の中に足を踏み入れた。
玄関の中は思っていたよりも広い。楓太の家の3倍はありそうだった。
よくお金持ちの家で見るような鹿の頭のはく製や高そうな壺がいくつか飾られていて思わず感嘆してしまう。
「普通というのは?」
「あぁ、気にしないでこっちの話はまたあとで。それより私の方の自己紹介がまだだったね」
女性は楓太の質問には答えず、ピョンと後ろに下がると彼を見て微笑んだ。
「私は首藤琴葉。ここの2階に住んでいる住人の一人。月見荘暦8年の大ベテラン!君の先輩ってことになるね。これからよろしく楓太くん」
楓太が「よ、よろしくお願いします」と頭を下げると琴葉も「これはご丁寧に~」とこれに応じて頭を下げる。
こんな美人が住んでいる場所が妖怪の元締めなはずがない。
やはり噂は噂でしかないのだ。むしろ、こんな美人と一つ屋根の下なんてものすごい運がいいとしか思えない。そんな風に思ってこれからの生活に希望を見出そうとした楓太だったが、その思考が次の瞬間凍り付く。
頭を下げていた琴葉から頭が転がり落ちたのだ。
スローモーションでもかかったようにゆっくりと落ちていく頭。
「やば…」
そんなことを言いながら、地面に落ち鈍い音を立てた琴葉の東部はコロコロと転がると楓太の足元まできて止まった。
その生首と楓太の視線がぶつかる。
その恐怖たるや。血だらけで転がられるのも絵としてヤバいが、困ったように笑っている生首にこんなにも迫力があるのだということを楓太は初めて知った。
琴葉の生首とたっぷり三秒見つめ合ったのち先に動いたのは琴葉(頭部)だった。
「て、てへっ」
そう言って舌を出す頭部と、何もない空虚な空間をゴツンと叩くジェスチャーをする首のない体。
「ぎょえええええええ」
この世のものとは思えない叫び声をあげて、あとずさった楓太は足を滑らせて後ろに倒れこむ。
その際、後頭部をしこたま地面にぶつけてしまう。
しかし、それを痛がっている場合ではない。
「あ、ちょっと、大丈夫」
自らの生首を拾おうとする琴葉に「あなたより大丈夫です」と心の中で答えながら、楓太は座り込んだままさらに後ずさる。
(逃げないと!)
そう思いながら後ろ手でドアを開こうとする。
しかし、楓太が開けるよりも先にひとりでにドアが開いた。
「ただいま~、あら」
背後から聞こえる野太い声。恐る恐る上を見上げればそこには口をすっぽり覆うような大きなマスクをいかつい男性がいた。
「お客さんかしら。って、琴葉ちゃん大丈夫」
男性は楓太を見て、次に転がっている琴葉の首に声をかける。
「私は大丈夫。それより楓太くんのほうがまずいかも…」
「あら、この子が颯太ちゃんなの」
「こ、これは…僕は…」
恐怖で口が回らない。
そんな楓太を不思議な様子で見ていた男性だったが突然大きなくしゃみをする。
その豪快なくしゃみは勢いでつけていたマスクをも吹き飛ばした。
「あら失礼。もうこれだから花粉症はやぁね」
そう言ってフフフと笑う男性の口を見て楓太は再び奇声を上げる。
なんとその男性の口は耳付近まで裂けていたのだ。
その姿は性別以外は颯太が想像していた口裂け女そのもので、さらに男性は楓太をを不思議そうに見ると顔をぐいっと近づけてこう囁いた。
「口紅落ちてないかしら。ねぇ、颯太ちゃん私って綺麗?」
三度の奇声を上げながら、楓太は自分の意識が遠のいていくのを感じた。