4:続・秋風
そのまま俺とカオルが走って辿り着いたのは『グランデ川西』の202号室。即ち俺の自室である。
扉の鍵を開けてノブを捻り、
「汚いとこだけど、ほとぼり冷めるまで我慢して。どうぞ」
と声をかける。カオルは小さく「お邪魔します」と言ってから玄関に入り、少し緊張気味に目だけを動かし、中の様子を伺った。
気持ちこじんまりとなった彼女を横目に見つつ、まさかこんな形で住処に案内することになるとは人生分からないなと、内心で世の巡りを問う俺がいた。どうでもいいが。
「えっと、ご両親は――いない――わよね?」
今更になってジンジンと熱を帯びてくる頬を擦りつつも、靴をカカトで脱いで框を上がれば、いまだ入った時のポジションのままに尋ねてくる彼女。
最初は適当に「ああ、うん」と答えようと思ったのだが、そのときふと違和感に気付いて、俺は口をつぐんだ。カオルは『親はいるの?』と尋ねたのではない。『親はいないね?』と確認したのである。
実は実際その通りで、両親は俺が大学入学を機に、余生(余生!)はノンビリ過ごしたいからという信じられない理由で以って、今現在セットで渡米していた。つまり俺は、実家にいながら一人暮らしという奇妙な境遇で生活しているのである。
その『余生ノンビリ過ごしたい計画』を切りだされたのは、大学入学式から帰ってきた4月1日の夕食の席。ハンバーグをナイフでカットしている俺の対面に座っていた親父が、いきなり「パパ海沿いに別荘買ったんだ」と笑顔満面で写真を見せてきたのだ。
俺は口の中を肉汁で満たしつつも、その写真に写った掘っ立て小屋にキョトンとなって、ついで背景の南国全開な海とヤシの木にポカンとなって、最後に住所が『バガニア』とかなってるのを見て唖然とした。
バガニア? どこ、そこ? 魔窟?
「グァムだよグァム。グァム島だ」
親父が元気いっぱいに答えてくれた。どうやら疑問が目に現れていたらしい。以心伝心ともいう。 ていうか、いや。大事なのはそこじゃない。絶対そこじゃない。どうしてそんな場所にそんなものを、何の前触れもなく唐突に、突然に、無計画に購入したのだ親父よ。
親父は腕組みして一人大きく頷き、
「まぁ急な話だと思うが、お前ももう一人前になったことだしな」
レオはまだ18でありんす。
「思い残すことはもうないし。あとはママと一緒に、パパはここでノンビリ余生を過ごそうと思う」
そしてビシっと、写真の小屋もとい自称別荘を人差し指で抑える親父。
なるほど。
唐突でもなく突然でもなく、まして無計画でもなく、単に無連絡であったわけなのか。親父は前々から、俺が高校を卒業したら最愛の妻たる俺のお袋とともに、日本を離れて海外に移住する――そんな人生計画を、俺に小出しにすることもなく、裏で勝手に進行させていたのか。
「そういうわけでレオ! 今日からこの202号室はお前が管理しろ! これはマスターキーだ!」
そしてチャラリとテーブルに置かれた、キーホルダーのついた金属片。タグには『202』とある。どうやら本気でここの親鍵らしい。OKOK。事情は相分かった。それでは親父よお袋よ。これまで大層世話になった。202は俺に任せて、君たちはそのバガニアにある掘っ立て小屋で仲良くやっていくといい。じゃーの。
いやいやいや。
いやいやいや。
まてまてまて。
ざけんなこら。
「なぁ親父、今の話どこまで本気?」
「半分ぐらいだな」
だよな。いきなりここ出て行くとかないよな。ギャグで買ったその小屋も、まぁ俺を置いて出て行くなんて話に比べたら全然笑えるし、いや、笑えないわ。でも許容範囲。
「一応、当面はグァムだが何れはイギリスはロンドンに小洒落た一戸建てを買おうと思っているんだ」
へぇ、そうなんだ。本気なんだ。バカじゃないだろうか。半ば放心状態で親父の笑顔を見守っていたら、その背後。でかいキャリーバッグを「うんしょ」と運搬するお袋とかいた。そういえば今日に限って、夕食の席に着いてなかったっけ。変な汗が噴き出て来て呼び止めようとしたら
「あなた~。準備できたわよ~」
と、手帳のようなものを二つ、まるでトランプを開く手品師のようにしてみせる母親。そこには大層読みにくい字で『日本国旅券』と金字で描かれていた。
あらましとしてはそんなところ。
実際この後二人は、いくつかの伝言と別れの挨拶を俺に残した後、夜の便で異国へと旅立っていった。
そしてしかし。
どうしてそれを、この秋風カオルは知っているのだろうか――。
俺がそこに気付いて彼女の顔を見やれば、その端正な顔が半笑いを浮かべていた。
これはついいましがった知った、彼女の新たな表情。腹を立てる、頭に来た、そういう時に見せる表情。即ち怒りである。激おこぷんぷん丸とも。いや言わない。
つまりいま、秋風カオルは怒っているのだ。
「――――」
俺は頭を回転させる。もしかして彼女、まだ先ほどの乱闘の件を引きずっているのだろうか。
否、それはない。
ここまで走ってくる道中、確かにカオルは笑っていた。半笑いではなく、笑っていた。だから彼女は、俺の自室に入ってから新たな怒りを獲得したはずである。
まさか、いきなり年頃の女の子を自宅に招いたのがマズかったか。
成り行きとはいえ確かに、俺は彼女の手首を掴んでここまで走ってきて、ろくに了解も取らぬままここに招き入れてしまった。強引なナンパだと言われれば全否定は出来ない。姿を隠すとか逃げるとかなら、別に此処以外にいくらでもあったのだから。
しかし――否、それも違う。
彼女が『お邪魔します』といった時、やはり半笑いはしていなかった。そうするとでは、いったい何が彼女の怒りを買ってしまったのだろうか。
「水道――来てるわよね?」
カオルの必要以上に済ました声。まるで嵐の前の静けさ。そしてその目が、なんだか水平切りにされたカットメロンのようになっていた。恐ろしい、いや、すげー。人ってあんな眼が出来るんだ。
「なに? あの水場で蠢いてる食器群は?」
――――――あ。
「親がいないからって、ここまで生活って崩れるものなの? レオ」
カオルに促されるようにして、レオさんは恐る恐ると振り返る。
そこに男の一人暮らしが全開していた。
床に散乱するクシャクシャの洗濯物。
洗わずに積まれた油汚れのお皿たち。
寝相が伺えるような格好で放置された掛け布団とベッド。
机としての機能を失した本の墓場、もといエントロピーマックスな机。
そういう場所に、深窓にして武闘派の同い年お嬢様をお招きしたという事実を今更理解して、俺はどっと汗が吹き出してきた。
「ああ、あ。い、いや悪い。ちょっとバタバタしててさ。はは、ははは」
俺が喉より絞りだしたこの乾いた笑いは、今後、幾度と無くカオルに見せることになる。なってしまう。
そしてそれが引き金となってしまった。
「ああもう! 何が劇団四季のペアよ! とんだS席もあったもんじゃないわね!」
言うやいなや、カオルは袖をまくるような仕草をしてからズカズカと戦場に進行していった。
「今日は本当にあたしの誕生日なのに!」
等という、予想外を口にしながら。
俺はその勇ましい背中に、固まった笑顔を向けつつ無言に問いかける。ねーねーカオルさん。もしかしてあの時の瞳のキラキラ、割りとマジだったりしました?