3:秋風
ご当地妖怪の解説
幼馴染:
幼い頃から交流のある普通の女の子。
ご近所さん:
近場にいるけど交流のない普通の女の子。
秋風かおる:
ご近所さんのくせに幼馴染みたいな普通の女の子。
解説おしまい。
大学の講義三限目。昼食を挟んで程よく空腹の満たされた講義一発目は、一限目の次に眠気を誘う。
広々とした大講義室に、詰める学生は4割ほど。内、真面目に板書をとっているのは半分程度で、後は睡眠学習や小声での雑談タイムという具合だ。講義は学習の場のみならず、友人との顔合わせの場としても機能している。
俺はと言えば、まるで眼鏡の優等生のように黙々とノートにペンを走らせている部類。それも額に汗して一心不乱に。しかしこれは別に、黒板の前でモゴモゴとフーリエ変換の説明をしている老教授の講義内容にひかれているのではなくて、ただ俺の隣にチョコンと座り、昨日からずっと、俺の左手に細指を絡めている麦わら妖怪少女夕凪メイから気を逸らそうとしているだけのことである。故にこれだけノートを真っ黒けにしようとも、俺の頭には老教授の語る正弦波の神性が全く入っちゃいない。
「あの。直流成分っていうのが、な、波の平均値で初項なんですね」
情けないことに、メイちゃんの方がしっかりと聞けている始末である。
講義ノートなど全く取っていないが、時折老教授のモゴモゴに彼女は頷いている。
「え、で、でも矩形波つくるときにギブス現象が出るって……あ。ああ、これが。ゆ、有限の近似による収束限界ということですね」
やべー、席の先頭で聞いてるやつでさえ難解そうに頭を捻っているというのに、教授が言うより先にこの妖怪は答えを導いている。というかこの子、高校数学は既に習得済ということであろうか。
まぁそれだけでも冷や汗モノなのだが、俺のこの必死さの真の原因は、メイちゃんの座る左よりむしろ右隣である。
「へぇ……親戚の中学生のわりには随分と博学ね? そのメイちゃんって」
笑っているのかキレているのか判じかねる、友人の声。恐ろしくて振り向けないこと請け合いだ。
「おかしいなぁ。あたしメイちゃんぐらいの時って、まだ三角関数さえ怪しかったのに。どうして複素数とかオイラーの公式とか知ってるのかなぁ」
恐るべき筆圧により、HBのシャー芯へし折ること7本目。
「わぁ、これがサンプリング定理やDA変換に繋がるなんて驚きです!」
ペキ。八本目。ちょっとメイ氏、あんまり自分の役柄忘れなさんなや、俺がカオルに殺されたらお前も終わりだろうに。
「ねぇ。もう一度聞くけど、その子本当に『遠縁の子で中学2年生』なわけ?」
細筆で引いたような眉を逆立て、顔を寄せてくるご近所さん。
「あ、あ、あ、当たり前じゃないか。な、な、何いってんだよカオル」
それと、カカトでつま先踏みにじるのは止めて頂きたい。
「しかも実際よりさらに幼くて、賢さも小学生ぐらいっていうのも、本当に本当?」
だめだ、もう情報通信の勉強とかやってる場合じゃないぞ。
「も、も、もちろんだともカオル。で、でなきゃ俺をパパと勘違いしたり、て、手をつないだり、い、一緒に暮らしたりするわけ、な、ないじゃないか」
「その割には、あのへっぽこ先生の言うこと。大学生バリにバリバリ理解してるみたいだけど? その子」
と顎をクイと動かす先では、熱心に講義を聞いてるメイちゃんの横顔。いつ後頭部の姉御が起き出さないか不安だが。
「ば、ば、バカだなぁ。メイちゃんが本当に、ふ、普通の、だ、大学生なら。あ、あ、あのへっぽこ先生のスワヒリ語講義が分かるわけないじゃないか。ははは、はははは」
詭弁することソクラテスのごとし。俺の笑い声は乾き、目は死んでいる。右隣に座るご近所さんこと秋風カオル女史は、そんな俺の目をヒクヒクと覗きこみつつ、どういうわけか必要以上に怒り心頭のご様子。
秋風カオル。
俺と彼女は幼馴染というわけではないが、小さい頃から生活圏を共有するご近所さんである。ただ俺と彼女は市を境として住んでいたために、小学校も中学校も別々だった。だから登下校の時にたまにすれ違っては、『あ、また会った』ぐらいに視線を交わす程度の仲だった。そして高校もまた別々になったので、その時点においてもまだこれといった接点はない。ただお互い成長したので、スレ違うときに会釈するぐらいの礼儀は弁えるようになった。
そのときのカオルのニコっとした笑顔を見て思ったのは、いいとこのお嬢様。
色白でサラリと肩に流した艶のある髪に、涼しげに笑う口元。背筋をシャンと伸ばして歩く姿。時折バス待ちで会った時なんかも、シェークスピアかなんかの詩集を膝上に開いていたように思う。
間違っても隣に座ってシャー芯折りまくりつつ、人の足をグリグリ踏んで詰問してくるような輩には見えなかった。
それが今のような幼馴染気取りに変貌したのが若干3・4ヶ月前。これまで別々だったカオルと俺が同じ大学・同じ情報学部へと入り、4月下旬の情報システムの講義でバッタリと出会ったのが発端といえる。
「「あ」」
と、講義室の入口で二人声を発したのは、今でもよく覚えている。
カオルが驚いた理由は定かでないが、俺としてはともかく、外で見かける彼女はよく高尚そうな文学作品を開いていたから、まさか理系科目で出会うとは思わなかったのだ。
それでも最初はそう、彼女は第一印象通りのお嬢様だった。
実際に文学的教養があり、物腰は柔らかく、所作にもどこか品があった。聞けば親が大学教授だという。いや、そういう意味では第一印象だけではなく、今でもお嬢様ではあるのか。
「で、そろそろ本当のこと白状する気はないの? ねぇ。今だったらまだ半殺しぐらいで勘弁してあげるけど?」
半笑いの秋風カオル。しかしその目が実に笑っていない。というよりそもそも、俺はカオルに勘弁されなくちゃいけない立場にいるのだろうか。一体この女史は何様のつもりか。
「タイムリミットは講義終了までよ。知ってる? 亜脱臼って冷や汗噴き出るぐらい痛いらしいわよ?」
――なんて命知らずなことを言うほど、俺はアホではない。事情がどうあれ、一度こうなってしまった彼女に生半な理屈が通じないのは、今年の夏に体験している。
あれは7月の中旬頃。カオルに対する認識が、深窓のお嬢様から武闘派女史に改められた記念すべき月曜日。天候は晴れ。抜けるように青い空で蝉がキンキンと鳴く猛暑日の昼下がり。彼女は、ただでさえ暑苦しいなかで、窒息しそうな集団に囲まれていた。
一昔まえの言葉を借りればナンパ辺りが適当か。3,4人の日焼けした男が、街の目貫通りでカオルを囲んでいたのである。
俺はそのときの彼女の姿をよく覚えている。大きな白のリボンで長めの髪をポニーテールにまとめ、繊細なレースの入った白のワンピースを着ていた。
やはり印象を裏切らない、清楚なお嬢様というその容姿。アスファルトに咲く花のように――は言い過ぎにしても、軽く二度見をしてしまう男子は多いだろう。
つまり彼女が囲まれていた事情というのは、そういうこと。誠に遺憾ながら、二度見だけでは済ませられない連中に、エンカウントしてしまったということである。
そして俺がそこに居合わせたのは単なる偶然。ご都合主義ではなく、一人暮らしを始めたばかりの男は、ちょくちょくと買い出しに行かざるをえないという自然な背景である。
ともあれ彼女が、そのアプローチを至極迷惑そうにしているのは一目瞭然だった。なにせ、さっきから『いいえ』と『すいません』しか言っていない。
「あ、ごめんごめん。待たせた――カオル?」
俺が掛けた声に、すぐに視線が収束した。
取り囲む連中の苛立った目線と、驚いたような彼女の目線。それもそうだろう、だって今まで『秋風さん』と呼んでいたご近所さんに、いきなり『カオル』と呼び捨てにされたのだから。
俺は続ける。
「いやぁ、ほんとゴメン。劇団四季のチケットなかなか手に入らなくてさ。でも何とか二席は取れたから。さ、いこ?」
なんていうウソがペラペラと俺の口から出たのは、彼女を助けたかったからなんていう青い理由じゃなくて、単に暑さでおかしくなったからだと、今となってはそう思いたい。
ともあれ、俺の意図を理解してくれたらしい彼女は、その目を驚きから喜色に変えて
「もう、遅いじゃないレオ! あたし待ちくたびれたってば」
と、俺の名前を呼び捨てにして小走りに寄ってきた。
普段のおしとやかな彼女からは考えられない、あまりに歳相応な女の子らしい口ぶり。俺はそのギャップに吹き出しそうになったけれども、いや、普通に吹き出してしまっていたと思う。俺はそのとき笑っていたはずだ。
やってきた彼女に俺は言う。
「いや、ほんとゴメンゴメン。この炎天下で待ちとかないよね。でもさ、なんとか取れたよS席ペアで。カオルの誕生日だっていうから、何が何でも妥協したくなくてさ」
もちろんそんなハイソなものは買っちゃいない。我ながら造り過ぎの話だと言ってから思ったのだが、それに本気で目を輝かせる彼女。俺はその瞳の艶色に、演技派にしても程があると思って大笑いしそうになったのだが、
「ほんと!? 嬉しい! じゃぁ許したげる! さ、いこいこ!」
と、勢いそのままに腕まで絡めてきた彼女に、目を白黒させてしまった。
そんな俺に、カオルはウィンクを一つして、その端正な顔を寄せてくる。
(もう少しだけ。ね?)
吐息混じりの囁き。意図はそれで伝わり、俺は何故かぼうとしてしまいそうになっていた心をつなぎとめ、ハっと我に返った。安全圏まではこのノリでということなのだろう。
すぐに了承して頷きかけた俺ではあったが、しかし。
「おい兄さん」
という声に振り返れば、拳が目の前にあった。
ガツンという衝撃が、頬から側頭部に抜けて転倒する。
周囲であがる悲鳴。
揺らぐ視界、途切れそうになる現状認識。
頬を抑えつつ、ようやく殴られたことに気づいた。
しかし俺は殴られたというその事実よりも、ただのナンパを暴力沙汰にしてしまったことに対して冷や汗が出た。
が、しかしそれ以上の大事がここで発生し、しばし呆気にとられることとなる。
「そういう出方がお好みなのね」
半笑いのようなカオルの声の後、打撃音。
「うぐえ」
絞りだすようなえずき声が一つ。身体を起こしつつ視線を向ければ、日焼けした男の一人が、目を飛び出さんばかりに剥きだして、ガックリと両膝を折っていた。
両手は鳩尾の辺りを抑え、口は何かを頬張ったように張れている。
――ものすごく吐きそう。
そんな様子でうずくまる彼であったが、しかし差し伸べられたのは救助の手ではなく、断頭台のようなカオルの踵である。
ドゴっという鈍い音が、彼の背中に炸裂した。悲鳴ひとつあげずに倒れこみ、そのまま昏倒する男。あれが本当に首へ振り下ろされていたなら、間違いなく召されていただろう――そんな一撃だった。
そして残る三人もまた、彼女に向かっていった。コノヤロウとか何とか言いながら。
まぁ気持ちは分からなくもない。
この衆目の中、ナンパしていたお嬢様に彼氏がいて、それに手を出したらあろうことかお嬢様の方に瞬殺KOである。格好わるいを超えて情けない。しかしそれを挽回する手段がこれでは最早みっともない。しかしなにより、その手段に実力が伴っていなかったのは、みっともないを超えて痛かった。
一人目。大振りのパンチをすかされ、体勢が崩れたところで手首をヒネられ、グキキという音を鳴らしつつ円を描くように転倒。止めとばかりに顔に下段正拳。ドっという音がえぐい。失神。
二人目。ポケットからナイフを抜いて吠え出す。吠える。凄まじく吠える。吠えてる間に手首を蹴られる。「あ」と落ちた得物に目を取られたら、その顔を蹴り上げる上段蹴り。鬼。転倒――失神。
三人目。
「ねぇねぇお兄さん」
「え?」
「お釣りだって!」
さすがに起き上がっていた俺が殴り飛ばす。フォームはストレートというより野球のスローイング。ぶっ倒れる日焼け。伸びた男に無言で啖呵を切る。俺にもメンツぐらいありますとも。
そしてその様子に、キョトンとしているカオルだったが、俺はその手を握る。
かける声は定番の『逃げよう!』ではなく、
「じゃぁ劇場いこ!」
「え? あ」
そのまま俺達は全力で走りだした。