道標の方程式(1)
是非、縦書きで読んでください。
毎週、水曜日午前0時(火曜深夜)に次話投稿します。
1
方程式。
方程式とは――未知数を含み、その未知数に特定の数値を与えた時にだけ成立する等式の事をいう。
その未知数はⅩ等と表記され、それは「様々に値を変える数である」という観点から変数、もしくは「特定の値を持つわけではない」といったことから不定元と呼ばれる。
変数に値を代入する事によって初めてその方程式が等式として成立するかの評価がなされる。そして、与えられた方程式を等式として成立させるような変数に代入された値を方程式の解、それを全てもとめる事を方程式を解くという。
一言に方程式といってもその種類は様々で、代数方程式や関数方程式などがあり、それぞれはまたn次方程式や、微分方程式といったものに分類される。
――さて、
何故こんなに方程式の事について述べているかというと、決して僕が数学の才能に目覚めて、その頭脳で事件を次々解決していくという話になったわけではなく、今、僕の目の前にはうずたかく積まれた方程式の山がそびえていて、それから少し目をそらしたい、というか現実逃避したかったのだ。最初に難しい事を言ってしまったので、どんな難問の方程式かと思うかもしれないが、僕はせいぜい中程度の学力の高校一年生だ、心配しなくてもそこにあるのは、何の変哲も無いただの二次方程式。のはずなのだけれど、これが思いのほか解けない。
解けない。
溶けない。
熔けない。
鎔けない。
説けない。
融けない。
梳けない。
解けなああああああああああああああああぃいっっ!
全然、解けない。ぜんっぜんっ解けないのだ。
この春からの色んな事に振り回されて、僕は明らかに高校教育に置いていかれていた。
置いてけぼりだ。
特に数学が酷かった。他の教科はまだ、何とか誤魔化してやっていけそうだけれど、数学はきちんと公式とか解き方を知らないと全く分からない。
やばい……。
焦ったけれどすでに遅く、先日の中間テストで僕は目も当てられないような点数をたたき出したのだった。そんなわけで僕には、これはペナルティーかと思うほどの量の課題が与えられたのだ。いや、まあ、普通に考えればペナルティーか…。そして僕は今、その課題の大量なプリントを目の前に絶望している。ただ、どんな風に逃げたところでやらなくてはいけない事には変わりなく、しかしそんなことは分かりきっているが、一向にペンが進まない事に、焦りと諦めを同時に感じるという器用な真似を僕も出来るのだな、などと考えてみたりし――
「太郎くん!ちゃんと聞いてる?」
僕の思考を遮って南が顔を覗き込んできた。
「あ、ああ、聞いてるよ」
「じゃあ今のところ自分でやってみて」
「お、おう。任せとけ」
僕は、プリントに視線を移す。
むむむっ?
何だ…これは……?
何が書いてあるのかさえ分からないぞ……。
「ねえ?分かる?」
「南……気をつけろ…どうやら僕たちはどこからか、スタンド攻撃を受けているようだ」
「何、言ってるの!やっぱり聞いてなかったんじゃない!せっかく教えてあげているのに、ちゃんと勉強しないと、これからもっと大変だよ」
南はそんな母親のような小言を言って、めっ、と僕に指を立ててみせる。
相変わらずな古いリアクション。
一旦、状況説明。
今、僕は髑髏塚愛子さんの事務所、通称ドクロ事務所で課題の数学のプリントをやっている。量的に一人では到底無理なのでここは優等生、南奈美の力を借りようとしたら「それだと太郎君の力にはならないよ」だそうで、南に数学を教わる事になったのだ。そういったわけで、僕は今、ドクロ事務所の応接セットで南に教わりながら、大量の数学のプリントと格闘しているということ。お分かり頂けたかな?
例の幽霊事件の後、僕と南はここで働く事になった。最初の仕事は事務所の片付けという事だったのだが、片付けてもあまり変わらず、結局僕の居場所などは作れずに未だに応接セットが僕の席になっているのだった。応接セットに座り紅茶を飲みながら、コアラのマーチを食べて、メイド姿の南に勉強を教わる。
これはこれで幸せかもしれない。
この、山積みの課題さえ無ければなあ……。
と、その時、僕は視線を感じて、ふとそちらを向く。
そこには機械の山から顔を出した木星がこちらを見ていた。
というか睨んでいた。
冷たい視線とよく言うけれど、あれはマヒャド、もしくはオーロラエクスキューション級の冷たさだ。
「何……?これ、欲しいのか……?」
コアラのマーチを指して僕が訊ねると、木星はこくんと頷いた。その動きはいかにも年相応と言った感じだ。
「そうか…別にやってもいいんだけど……」僕はここで一つ意地悪を思いついた「タダって訳にはいかないよな。それじゃ、僕の代わりにこの問題を解いてくれたらやるよ」
山積みのプリントを指差して僕がそう言うと
「太郎くん、それはあんまりじゃない……?木星ちゃんに解ける訳ないじゃない」
と南に諭された。というか普通にお説教。
しかし、そんな南の心遣いを気にする素振りも見せずに、木星はスタスタ近づいてきて、僕の課題のプリントをまじまじと眺めだした。そして、ペンを手に取り――
――って本気か?
――ものすごい勢いでプリントに何かを書き始めた。横から覗き見ると、どうやら答えを書いていっているようだ。そして、あっ、という間に答えを全部埋めて、プリントを僕につき返してきたのだった。
「いやいやいや…でたらめじゃあ駄目なんだよ、なあ、木星ちゃんよぉ?ちゃんと答えが合って――」
「合ってる」
「そう、合ってないと……って、え?」
僕の横からプリントを覗いていた南が驚きの声を上げる。
「すごい…すごいよ!木星ちゃん!全部、完璧に合ってるよ!マジすごいよ!何で?何で出来るの?」
「ちょっ、南、お前何言ってんの?」
「すごいよ!太郎きゅん!木星ちゃんが書いた答え全部合ってるよ!」
「へ、へぇ~…や、やるじゃん……」
正直、僕にはこの答えが合っているかさえわからないけれど……。褒められて嬉しいのか、木星はじぃーっと僕の顔を見ている。だからその目は怖いっての。
「な、何だよ…?ちゃんと約束どおりやるぞ、コアラのマーチ」
怖気づく僕に向かって、木星はいつも通り平坦な口調でこう言った。
「こんなのも分からないなんて、脳に蛆でも湧いているのか」
「お前には何もやらーんっ!」
いい加減、傷つくぞ。傷ついてグレるぞ。
木星はコアラのマーチを力づくで奪おうと、手を伸ばしてきた。僕はそれを阻止しようとコアラのマーチを頭上に上げて守る。その様子を見ていた南が僕に、
「意地悪しないで、あげなよ。可哀想だよ、せっかく頑張って問題、解いたのに。木星ちゃんも別に悪気があった訳じゃないんだから」
と言ってきた。
「嫌だ!お前に僕の気持ちが分かるか!」
木星には明らかに悪気どころか悪意があるだろ……。いや、何なら悪意以外感じられないぐらいだ。
「そんな事言わないで、ね?お兄ちゃんでしょ?」
お前は、僕の母親か?……まあ、それでも
「まあ、南がそう言うなら……」
僕のほうが年上だし、ここは僕が折れておくか。確かに僕から提案した事だしな。僕は箱からコアラのマーチを一つ取り出して、
「悪かったよ。ほら、やるよ」
と木星に差し出した。すると
「!」
木星は今まで見たことも無いような素早さで、僕の手からコアラのマーチの箱の方をひったくった。
「おまっ!こらっ!そっちじゃない!待てって!こらっ!返せ!」
奪い返そうとする僕の腕をかいくぐって、木星は逃げ回る。
「くそっ!ちょこまかと…返せっての!」
「まあまあ……それぐらい良いじゃない、太郎。あげなさいよ。相変わらずケチねえ~」
頬杖をついて、事の成り行きを見ていた愛子さんが心からどうでも良さそうに声を上げる。
「そんな…愛子さんまで……」
僕が愛子さんに気を取られている間に、木星はすばやくいつもの機械の山の裏に隠れてしまった。こうなっては僕にはもうどうすることも出来ない。何故かというと、あいつはお菓子を食べるのが恐ろしく早いのだ。それを僕はイリュージョンと呼んでいる。今から取り返そうとしても、もう手遅れだろう。しょうがない、コアラのマーチは諦めよう。貧乏学生にとってはなけなしの金で買った御褒美だったのに……。御褒美というなら、木星にとってはそうなった訳だからまあ良しと――出来るか!
「はあ……最悪だ……」
僕は一つだけ残ったコアラのマーチを口に放り込んで木星が消えた機械の山を見やった。愛子さんによると、この機械の山は全部木星が作ったらしい。木星の名前の由来にもなった『ジュピターシステム』というその装置は、イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストと名付けられた四つのコンピューターを並列に繋ぎ、同時に動かす事で、ものすごい処理速度で高い演算能力を発揮するのだそうだ。それを作ったのも、唯一動かせるのも木星だけということだそうで、つまりはあいつは超弩級の天才エンジニアという事らしい。それを使って情報を集めるので、木星には調べられない事は何も無い、と愛子さんは言っていた。
所謂、ハッカーという奴か。
それも、とびきり凄腕の。
……でもそれって、犯罪じゃね?
普通の少女(外国人だけどね)には到底、こんな事出来るわけないのだから、やっぱり木星にも何か秘密があるのかもしれない。もしかしたら、身体は子供、頭脳は大人、ってやつなのか?本人には絶対訊けないけど……。訊いたらきっと立ち直れない心の傷を負いそうだ。
「もう、すっかり木星とも仲良しね」
愛子さんはニコニコとしながらそう微笑む。
「どこをどう見れば、そう見えるんですか?」
「あら、だってちゃんとあの子、あなたと話してるじゃない。あの子はものすごくツンデレってるから本当に嫌いな人間の事は自分の世界から消去してしまうのよ」
「そう……なんですか……」
「もっと嫌われたらこの世から消されるわ」
「怖っ!木星……恐ろしい子!」
もう少し優しくしようかな……。
そんな感じで僕の毎日は賑やかに過ぎている。学校からドクロ事務所に直行し、そのままそこでダラダラして、晩御飯の時間ごろ家に帰る。これが毎日の日課になっていた。仕事は主に雑用か近所の迷い猫の捜索ぐらいで、僕たちが持ち込んだ幽霊話のような派手なものは全く無い。それでも、愛子さんや流鏑馬さんや南と、あと一応木星と過ごす時間は楽しかった。何かに所属するというのは仲間ができるというもので、何はともあれ仲間がいるというのはいい事だとおもう。仲間というほどのものでもないかもしれないけれど、今のところ僕はここに居場所を見つけている。席は無いけれど。
僕が木星に邪魔された(ある意味手伝ってもらった)数学の課題にまた取り掛かろうとした時、愛子さんが話しかけてきた。
「まあ、課題は木星にやってもらって、太郎には別の仕事を頼みたいのよ」
その言葉に僕はペンを持つ手を止めた。
「それは願ってもないことですけれど……。いいんですか?さっきは何か自分でやれって雰囲気だったのに」
「う~ん…本当はそのほうが良いんだろうけど、流鏑馬には別件で動いてもらってるから、あなたしかいないのよね~。まあ、木星にはあたしから頼んどいてあげるから」
そういうと愛子さんは機械の山の方に向かって
「良いわよね?木星?」
と訊ねた。
「………………」
「良いみたいよ」
愛子さんがこちらを向いて微笑む。
「良いみたいって返事が無かったじゃないですか!」
「大丈夫、大丈夫。あの子照れてるだけだから。それに、いざとなったら南ちゃんもいるし。木星も食べた分はちゃんと働かなくちゃ駄目な事ぐらい知ってるわよ。対価はもう支払われているもの」
「それなら僕も助かりますが……」
確かにコアラのマーチはほとんど盗られてしまったけど、たかだか百五円で頼むにしては量が多いような……。
「それで、仕事ってなんですか?また、猫探しとか?」
「それもあるけど、今回はちょっとある場所についてきて欲しいのよ」
「ある場所?」
「ある場所というか、ある人に会いに行くのよ」
「へえ~、なんだかいつもよりもちゃんとした仕事ですね。それで、一体誰に会いに行くんですか?」
「それは――」
愛子さんはいつも通り、不適に笑った。
「〝道標〟に、よ」