Heart-Shaped Box(1)
毎週水曜日午前0時(火曜深夜24時)に次話投稿します。
1
何だか色々と大変だった年末を過ぎ、それに比べて意外なほど平和にそつなく正月のイベントをこなし、月日はそそくさと過ぎていく。
校長先生が始業式でおっしゃったとおり、一月はあっという間に行ってしまい、気がつくと今はもうすでに二月。きっとこの調子なら二月もキャッツアイぐらいの逃げ足で逃げていってしまい、三月はおそらく、さよならも言わずに僕の元から去っていくのだろう。
ぼやぼやしていると、この貴重な青春の日々を、二度と取り戻す事のできない日々を無為に費やしてしまうという事に戦慄を覚えながらも、結局どうすることも出来ずに、ただただ日々をこなしていた二月の中ごろだった。世の中が何となくふわふわと浮ついているように感じると思っていると、カレンダーを見てその理由に気がついた。
「あっ、そうか。今日はバレンタインだ」
思わず呟いてしまったが、それに答える人はいない。
それはそうだ。僕は今、この春から住んでいる安アパートの洗面所で歯を磨きながら、学校に行く準備をしているのだから。
春から一人暮らしを始めた僕の部屋にはもちろん僕しかいない。
呟いたとしても、誰も返事をしない。
フォロワーゼロだ。
だから、
「まあ、僕には関係ないか」
と自分で返事しておく事にする。
………………寂しい。
いや!
決して寂しくなんかないぞ!
くじけませんよ!男の子です!
大体、バレンタインって何だよ!
どうせ、あれだろ?お菓子メーカーが談合で決めたチョコレートの販売促進キャンペーンだろ?
僕はそんなものには踊らされないぞ!
自慢じゃないが、今までこの強制的に愛の告白を迫る催しに縁はなかった。
それでも多少は思い出というものもあるにはある。
その思い出というのは、何を思ってのことなのか、母親によって一方的に板チョコをおやつにされてしまった記憶と、小六の時にお返しを期待したある女子がクラスの男子全員にダイレクトメールのように十円のチョコレートを配って回ったという思い出だ。
どうだ!立派なものだろう?
はっはっはっはっはっ!
…………なんか、空しい。
とにかく。
今日がバレンタインデーだとしても、僕にとってはそんな事とても些細な事だと声を大にして言いたい。僕にしてみれば、そんな事よりもまだ高齢者の犯罪率の増加の方が大きな関心事だとお菓子メーカー各社にFAXを送りつけてやりたいし、今日の天気の方がまだ気になると、全国の浮ついた女子たちに伝えてやりたいぐらいだ。
少し尖がりすぎか?
いや、男子たる者、これぐらいとんがっている方が何かと役に立つってものだ。
つ、強がりじゃないんだからねっ!
寂しくなんかないんだからっ!
と、僕の中のツンデレも目を覚ました頃、そろそろ学校に行かなくてはいけない時間になってしまっていた。
僕の住んでいるアパート「眠罠荘」から我が東雲東高校までは徒歩で十分ほどだ。
結構近いじゃないかと感じるかもしれないが、近いからといって楽というわけではない。この十分という距離のほとんどが結構急な坂で構成されているので、校門の前に着く頃にはそのままバスケットボールの選手としてコートに立てるぐらいには体が温まってるのだ。
季節によっては登校拒否の理由にもなりそうなその坂を上りきると、ちょうど校門前にバスが到着していて中から一人の眼鏡の男子生徒が降りて来るところだった。
「おっ、これはこれは誰かと思えば太郎氏なんだよ」
僕に気がついた佐々咲糸くんは、こちらに近づいてきながら微笑みかける。
こうやって見ると見た目だけはいいんだけどな……。
「ん?どうしたんだよ?太郎氏?息が少し荒いような……はっ!さてはぽっくんを見て新しい魔改造のアイデアが閃いたんだね!」
「誰が、そんな変態か!」
「なるほど。何時いかなる時も、常に創作への情熱を燃やし続けることが君みたいな大作家を作り上げているんだね!恐れ入ったんだよ!」
「人の話を聞け!」
誰が、大作家か!
「ぽっくんもそれを見習って、今度から愛すべき彼女達をいつも胸ポケットに入れて持ち歩く事にするんだよ」
「それはやめておけ……」
彼の言う愛すべき彼女達とは、彼のコレクションしているフィギュアのことで、もしそんなことをしようものなら、道行く人たちが皆、振り返る立派なイタい人になってしまう事だろう。南くんだって恋人をポッケに入れて無闇には持ち歩かなかったじゃないか。
「それはそうと、太郎氏。今日が何の日か知っているんだよ?」
二人並んで、校門をくぐって下駄箱へと向かう途中、糸くんが唐突に訊いてきた。
「その語尾はもう無理やりとしか言いようがないけれど、今日が何の日かぐらいは僕だって知っているさ。バレンタインデーだって言いたいんだろ?」
糸くんと出会ってもう結構たつ。彼の口調も僕の呼び方も、もうすでになれてしまって、突っ込む事さえなくなって久しい。
「そうなんだよ!今日はただでチョコレートが食べられる日なんだよ!それってとても素晴らしいんだよ!」
「素晴らしいって……」
んなこと言ってたらまたデブに逆戻りだぞ。
「ん?でも、糸くんって貰う当てがあるのか?まあ、確かに見た目だけならそこそこモテそうといえばそうだけれど……」
それは今年の話で、去年までの彼はただの飛べない豚だったからな。
「ぽっくんは毎年、ママとあーやから貰っているんだよ」
「ああ、やっぱり母親か……っておい、あーやって誰だよ!」
まさか恋人でもいるのか?
もし本当なら僕は世の中の価値基準をすべて疑う事になるぞ。
「言ってなかったっけ?あーやはぽっくんの妹なんだよ」
「へえー糸くんって妹がいたんだね。知らなかったよ」
僕は糸くんの妹を想像してみる。
眼鏡でデブできっと髪形はおさげだったりするのかな?
それはなかなか悲惨かもしれないな……。
「あーやはきっと世界一可愛い妹なんだよ」
「へえー、そうなんだ……」
家族は良いように見えるからな。可愛らしい性格をしているのかもしれない。
「あーっ!その顔は信用してない顔なんだよ!」
「それは、まあ……」
糸くんはある意味まったく信用できないからな。
「そんなにいうなら、太郎氏にも見せてやるんだよっ!」
そう言うと糸くんは内ポケットをごそごそとまさぐりだした。
確かに糸くんの妹に興味はある。見てみたいと思う。怖いもの見たさでね。
「さあ、その目に焼き付けるんだよ!」
「こ、これは……」
そう叫んだ糸くんが取り出したのは、写真ではなく一体のフィギュアだった。
「持ってんのかよ!」
見習うも何もないじゃねえか。
「それはそうと、なんだよ、これ……」
糸くんが誇らしく掲げているのは、世間的にいえば所謂、美少女フィギュアだった。近所の中学校の制服を着て、二つ結びに髪を括って(ツインテールって言うんだっけか)片足を上げてポーズをとっている。
「八分の一、あーやのフィギュア制服Verだよ!どう?可愛いでしょ?」
「まあ、可愛いといえば可愛いけれど……」
多少、アニメっぽくされてはいるけれど、もしも実際にいるとしたらきっと可愛い部類に入るだろう。ただ僕はそれについて一言だけ言いたい。
「君の妹がこんなに可愛いわけがない」
「おいおい、太郎氏。それを言うなら君じゃなくて俺なんだよ。あんな大ヒットラノベのタイトルを間違えるなんてらしくないんだよ。ここだけの話、実は作者が初めて買ったラノベなんだよ。最初は試しに一巻だけ買ってみて、それを読み終わったその日に残りを全部大人買いしたんだよ。でも、大人はきっとラノベをまとめて買わないと、ぽっくんは言いたいんだよ」
「糸くんが何を言いたいのか、僕はたまに全く分からなくなるよ」
本当は、ほぼわからないといっても過言ではないのだけれど。
「そうじゃなくて、君の妹がこんなに可愛いわけないじゃないか。脚色しすぎなんじゃない?」
「何を言っているんだよ!太郎氏!ぽっくんの妹はオタクだけれどスポーツ万能、勉強も出来て、読者モデルもこなすようなそんな完璧美少女なんだよ!」
「それこそ、どっかのラノベと一緒じゃねえか!目を覚ますんだ!糸くん!」
「ぽっくんはずっと目を覚ましているんだよ!覚醒モードよりも覚醒しているぐらいだよ!なんで信じてくれないんだよ!」
糸くんは歯がゆそうに地団太を踏む。
「信じるも何も……」
「そうか!わかったんだよ!太郎氏はぽっくんがこんな可愛い妹からチョコをもらえるものだから、嫉妬しているんだね。男の嫉妬だなんて、みっともないんだよ」
「そうじゃねえよ!それに僕は決してチョコレートが欲しいじゃわけない!」
「本当に?」
糸くんはニヤニヤと僕の顔を覗き込んでくる。
「あ、ああ、本当さ。もし、貰ったとしても全部君にくれてやってもいいぐらいさ」
「それは良い事を聞いたんだよ!」
糸くんは見たこともないぐらい、顔を輝かして
「じゃあ、もし太郎氏が今日、誰かからチョコを貰ったら、それは全部ぽっくんが貰ってもいいんだね?」
「ああ、いいとも」
とはいえ、きっと誰からももらう事はないだろうから、どちらでも構わないのだけれど。
「やったーっ!」
糸くんは心から嬉しそうにそう叫ぶと、下駄箱へと走り去っていった。
この様子なら彼がもとの飛べない豚に返り咲く日は、そう遠くないだろう。
「やれやれ、どうせチョコなんて貰えるわけないのに、あんなに喜んじゃって……」
僕は意識してシニカルに笑うと、下駄箱へとゆっくりと歩き出した。
その下駄箱で何が待ち受けているかも知らずに……。
下駄箱についたときにはすでに糸くんの姿はなく、時間も遅かったから生徒の姿もだいぶ少なかった。僕はいつものように自分の下駄箱の蓋を開け、その中を見て、そしてもう一度蓋を閉めた。
「なんだ…今のは……」
あまりの衝撃に、僕はもう一度自分の下駄箱かよく確かめたぐらいだ。
まあ、何度確かめてみたところで、それは確かに僕の下駄箱で間違いないのだけれど。
「まさか…な……」
まさかと思いながらも、僕はもう一度、下駄箱の蓋を開けてみる。
ゆっくりと開いていく蓋。
その隙間が開くのと比例するように早くなっていく鼓動。
僕は両の瞳でその対象物をしっかりと見つめる。
これは確かに『あれ』だ。
いや、まだ中を確かめていないから、正確に言うと限りなく『あれ』と思われるものだ。
シチュエーションから考えると、ほぼ百パーセント確定で間違いないのだけれど、いかんせんさっきの糸くんとの約束が、僕の決断を鈍らせる。
僕は何故、あんな愚かな約束をしてしまったのだろうか……。
今すぐにでも自動販売機に首を突っ込んで、タイムマシンを探したいぐらいだ。
その事だけが悔やまれる。
その約束を無効にする為には、これを決して誰にも見つからないように――
「何してるの?太郎くん?」
呼ばれて僕は思わず飛び上がってしまいそうになる。
それでも僕の本能というものは、まだまだご健在のようで、とっさに下駄箱の中にあった『それ』を鞄へと押し込んだ。
「お、おう、南。早いじゃねえか」
「何言ってるの、太郎くん。もうすぐホームルームが始まる時間だよ?全然早くないし」
変な太郎くん、と南は軽やかに笑った。
「それで何しているの?自分の下駄箱をジッと見つめて」
「えっ?こ、これは……」
南は純粋無垢な瞳で何の悪意もなくそう問いかけてくる。
「これは、そう!僕は自分の下駄箱の中の臭いが好きなんだよ。ここに住み込みたいぐらいさ!」
なんだそりゃ?我ながら最悪な誤魔化し方だ。
しかし、僕の予想に反して南は、
「へ、へえー……変わっているね……」
と、とりあえずは僕の苦しすぎる言い訳を信じてくれたようだ。
「じゃ、じゃあ、私、先に行くから……ほ、ほどほどにね……」
南は若干引きつった笑みを浮かべて、教室へと去っていった。
おそらく、南の中で僕の変態度数は旧型のスカウターでは測りきれず、爆発させてしまうほどに数値を上げてしまったことだろうけれど、『これ』を誰かに見つけられるわけにはいかないのだ。
僕は何となく恐る恐る、鞄の中を確かめる。
そこにはついさっきまで下駄箱の中にあった『それ』がまるで元々そこにあったかのように教科書たちに挟まれていた。
僕はそれをそっと指で撫でる。
「本当に貰ってしまうなんて……」
僕はひとりごちて、鞄のチャックを閉めた。
鞄の中では今日の授業の教科書たちと、大して開いた事もない英和辞典と落書きと板書が二対一のノート、最低限のものしか入っていない筆箱に加え、ピンク色の包装紙できれいにラッピングされたハート型の箱がカタカタと音を立てた。