オカエリナサイ(10)
毎週水曜日午前0時(火曜深夜24時)に次話投稿します。
10
「さあ!行きなさい!太郎!」
愛子さんに背中を押されて、僕はつんのめるように一歩前へ進み出る。
「へえ~、本当にお前が僕の相手をするんだね。こりゃ驚いた」
百夜はゆっくり近づきながら、暗闇の中に凄惨な笑顔を浮かび上がらせる。
「お前も姉さんなんかに捕まって、こんな事に首を突っ込まなければ、もっと平穏な人生を送れただろうに、残念だったね」
そう言って髪をかきあげる百夜。
その瞬間、僕はとっさに目を閉じる。
「……それは、何の真似だ?」
姿は見えないけれど、百夜の戸惑った、そして呆れたような顔がまぶたの裏に見える。
「お、お前なんて、目を閉じてたって、ぶっ飛ばせるってんだ」
来やがれ!と凄んでみせても、無駄だよな。
「お前は馬鹿なのか?姉さまから何を吹き込まれたか知らないけれど、目を閉じてどうやって僕をぶっ飛ばすのさ」
はははは、と声をあげて百夜に笑われる。
呆れるを通り越して哀れまれてる?
「どうせ、僕のこの左目の秘密を聞かされたんだろう?そうさ。この目は相手の目を見ないと力を発揮できない。決してそこまで強い力じゃないさ」
足音が近づいてくる。
スタスタスタスタ。
「相手の目を見て、相手からあらゆる感覚や感情を奪う。ただそれだけの脆弱な力さ。奪うだけで何も与えられない、何も与えないそんな力」
スタスタスタスタ。
「しかも、そうやって目を閉じられてしまえば全く能力は使えない。僕に与えられたのはそんな力だったのさ」
スタスタスタスタ。
「そんな力にでもすがらないと、僕たちは生きていけなかったんだ。それがお前には――」
一瞬、足音が消えて、百夜の気配をロストした。
次の瞬間――
「わかるわけがないだろ」
吐息がかかるほどの耳元で囁かれ、驚いて僕は腰を抜かしてしまう。
鼓膜に悪意を吹きかけられたような不快感。
僕は無様にも四つんばいになって、逃げるようにして距離を取る。
「何やってるのよ!太郎!」
「そんな事言ったって、愛子さん!目を閉じてるから、相手の居場所がわからないんですよ!」
って、当たり前か。
しかも、百夜は気配を消す術をもっている。
これで勝ち目はあるのか?
「怖いのなら、目を開けて僕を見ればいい。その恐怖を僕は消す事ができる」
とろけるぐらいの甘い声で百夜は誘う。
「開けてはダメよ!太郎!」
「わ、わかってますって!ただ……」
目をつぶったまま敵と対峙するのが、これほどまでに恐怖と重圧を伴うものだったなんて……。
わかってはいても、どうしても心が折れそうになってしまう。
目を開ければその恐怖から、重圧から逃れられる。そう思うとまぶたから自然に力が抜けて開きそうに――。薄い光が――。
「ダメよ!太郎!」
愛子さんが叫んでいる。
でも…愛子さん……怖いんですよ……。
「目を開けてはダメ!目を開けたところで、恐怖は無くならないわ!その子の力は恐怖そのものを無くす事はないの。恐怖を感じる心を消すだけなのよ!騙されてはダメ!」
「でも…じゃあどうやって……?」
「あなたはあなた自身で恐怖に打ち勝つのよ!大丈夫、あなたなら出来るわ!」
相変わらず、難しいことを簡単に言ってくれる。
「だから、あたしを――」
愛子さんは声の限り叫んだ。
「あたしを信じなさい!そして、あたしが信じるあなたを信じなさい!」
その声は、僕の鼓膜を震わし、さらにその奥にある『何か』も振るわせた。
……しょうがないな。
そこまで言われたら、逃げるわけにはいかないだろ?
やれやれ、と僕は立ち上がる。
愛子さんの気迫に押されてか、僕の心の中からはすっかり恐怖が押し出されていた。
いや、違う。
恐怖は依然、僕の心の中にこびりついてはいるけれど、それをかき消してしまうほどの感情が新しく心に満ちている。
それを人は勇気と呼ぶのか?それとも無謀と呼ぶのか?
僕には、それははっきりとはわからなかったけれど、それでも足の振るえは止まり、鼓動も収まっていた。
「ふうん。目を開けないんだ」
百夜はつまらなさそうに呟いた。
「まあ、そうやって目を閉じていればいいさ。そうやっているうちに、僕がお前を殺してやろう」
目を閉じたままだけれど、百夜の邪悪な笑顔が目に見えるようだ。
「御託はいいから、早く来いよ。この変態」
僕はそう言って構える。
「お前……誰に言っている?」
僕の挑発に百夜の声色が変わった。
「お前だよ、この変態。ロリコンの上にストーカーで、しかも無理心中だなんて、変態以外の何ものでもないだろう?」
ふふん、と鼻で笑ってやる。
「お前に何がわかる!一般人にわかるわけ――」
「わかるわけねーだろ。変態の考えなんて!」
「お前……」
百夜の声は震えていた
「殺してやる!」
そう叫ぶと百夜は凄い勢いで近づいてくる。といった音が聞こえる。
タッ、タッ、タッと床を蹴る音。
まだか?
まだか?愛子さん?
僕が焦れて、構えを解いて防御を取ろうかとした時だった。
「今よ!太郎!《桐壺》!」
唐突に愛子さんが声をあげる。
その声に考えるより早く体が動く。
僕は両手をそろえ、花が開くように、手のひらを掌ていの形に前に突き出す。
ドンッ
向かってきた勢いをころすように、相手の胸の辺りにヒットした。
「ぐっ…」
相手が声をあげる。
「そのまま《末摘花》!」
愛子さんの次の指示に、体が動く。
僕は屈みこみ、地面に円を描くように足を動かす。
その足払いに相手の足が当たり、バランスを崩して倒れるのが音でわかる。
「そこで《空蝉》!」
僕は上に飛び上がり、そのままの勢いで地面に向かって肘を突き立てる。
「ぐはっ!」
落下の加速度と万有引力の法則に乗っ取って、威力を増して突きたてた肘は、床ではなく相手の鳩尾にきれいに入ったようで、目を開けると僕の体の下で、百夜が白目を剥いて気を失っていた。
「これで、一安心だな……」
僕はそのまま百夜の上から体を動かし、床の上に大の字になる。
「まさか、流鏑馬さんとのあの特訓がこんな形で役に立つなんて……」
僕たちの作戦というのは、いたって簡単なものだった。
その作戦というのは、実際に拳を交える僕は、百夜の力を封じる為に目を閉じ、その代わり愛子さんが心を読んでその動きを目を閉じた相手、つまり僕に伝えるというものだった。簡単そうに見えるけれど、実は伝える際に出来るだけ短く正確に伝えなくてはいけないので、普通は出来っこないのだ。そうでないと、とても戦闘にはついていけない。それを可能にしたのは、流鏑馬さんに仕込まれた、あの《型》と言うものだった。
百夜の次の動きに合わせた《型》を愛子さんは僕に伝え、僕はそれを忠実に再現する。
それが出来ないとこの作戦は全く使えないのだ。
あのときに教えられた型というのはこのためのものだったのか……。
愛子さんはそこまで見越していたのだろうか?
まあ、そんなことはどうでもいい。
とにかく、僕は勝ったんだ。
「さて、と――」
僕は勢いをつけて起き上がる。
「あとは、お前を連れて帰るだけなんだよな」
振り返り舞台上を見上げる。
「なあ?木星?」
木星は、目の前で起こっていることなど全く目に入っていないかのように、いつも通りの無表情を貫いて、ただ呆然とそこに立ち尽くしていた。
のた打ち回るケーブル達を避けながら、僕は舞台へと近づく。
「さあ、帰ろうぜ。あいつにたぶらかされているだけなんだろ?」
僕は後ろで倒れている百夜を顎で指しながら、
「あいつなら、僕がぶっ飛ばしてやったから、もう大丈夫だ」
僕が何を言っても木星には届いていないかのように、その表情は一ミリたりとも変化がない。
「おい?どうしたんだよ?木星?いくらなんでも、僕を無視しすぎだろ?まさか、百夜に何かされているのか?」
例えば、聴覚を奪われているとか?
視覚も奪われているかもしれない。
僕が心配して近づこうとした。
その時――
「僕がそんな事するわけないだろ」
背後から声がして僕が振り返ると、
「危ない!太郎!」
倒れていたはずの百夜がいない。
それもそのはず。百夜は今、僕の目の前にいて、その手で僕の首を締め上げているのだから。
「な、なんで……」
「あれぐらいで、僕を止められると思っていたなんて、全くおめでたいヤツだ」
百夜の左目が怒りで紅く輝いている。
「この目で一息に殺してやってもいいんだけれど、お前をそんな楽に殺すわけないだろう?お前なんかにこの力を使う必要ないさ」
そう言うと、百夜は悪魔のような邪悪な笑みを浮かべて、僕の首にかけている手に力を入れる。足から力が抜けて、僕は後ろ向きに倒れてしまった。百夜はその上から馬乗りになって、さらに力を込めてくる。
「く…くそ……」
息が本当に出来ない。
「はははははっ!くやしいだろう!そうやって、お前は僕への敗北感にまみれて、無力さを噛みしめながら、諦めて死んでいくんだよ」
意識が遠くなる……。
「ははっ!そんなことももう感じられないか。どうせお前は死ぬんだからな。どっちだっていいことさ」
目が霞んで、耳が遠くなる……。
「死ねーっ!」
百夜がますます手に力を込めて僕の首を締め上げる。
そうか…こうやって人は死ぬんだな……。
もう、意識が遠くなりすぎて苦しさも感じない。
思ったよりもあっけない、終わりなんだな……。
死ぬ実感なんて全く無い。
全く無い。
ナイ。
その時――
力が抜けて、いよいよもうダメかと思ったとき、首にかかっていた力が急に消えた。
「げほっ!げほっ!……あれ?」
体を何とか起こして、まだ霞む目で辺りを見ても、さっきまで僕の上に乗っていたはずの百夜がいない。
「げほっ!…あれ?どこいった?」
目の前にはいない。ということは、
「上か?」
見上げると、百夜は空中に浮いていた。
浮いてる?
いや、よく見ると違った。
百夜は数百本、数千本のケーブルやコードにその体を縛られて、空中高く持ち上げられているのだった。まるで磔のような格好で手や足を縛られ、つるされている百夜は、なぜか嬉しそうな顔で、
「やっと、その気になってくれたんだね?木星?」
と、無表情に百夜を見上げる木星に微笑みかける。
「さあ、僕と一緒に行こう。こうやって、僕を縛り上げて、君の手で殺してくれるんだろ?そのときには僕が君を殺してあげるよ。さあ!」
百夜はさっき僕に向けたのとは全く正反対の優しい笑みを浮かべ、木星に話しかける。
「や、やめろ!木星!そんな事しちゃダメだ!」
僕は舞台に駆け寄ろうとする。が、すぐにケーブルに足をとられて転ぶ。
「痛てっ!くそっ!」
ただ、足に絡まっているのかと思ったけれど、そのケーブルは僕の足に巻きついて離れなかった。まるで、それ自身が意思を持っているかのように。
「やめろ!やめるんだ!木星!僕たちと一緒に帰るんじゃないのかよ!みんな心配したんだぞ!さあ、馬鹿なことはやめて僕たちと帰ろう!」
ピクッと木星が反応する。
「そうだ。木星、一緒に帰るんだ」
木星がゆっくりとこちらを向く。
「私は……お前と帰るわけにはいかない」
無表情のまま、いつも通り平坦な口調で木星は静かに言った。
「どういうことだ……?」
「私はもともとこうなる事が決まっていた」
木星の表情は変わらない。けれど、その目の奥に僕は何か寂しい光を見た気がした。
「ハンドレット。あなたを殺して、私も死ぬ。それでいい?」
僕のほうを向いたまま、静かに木星は言った。
「ああ、そうさ木星。僕と一緒に死のう」
安らかな声で百夜は答える。
百夜が答えても、木星は僕のほうを向いたまま、
「そういうことだ。クズ野郎」
いつも通りの暴言を吐く。
「何、言ってんだよ。木星」
お前はあそこに、ドクロ事務所に僕たちと帰るんだよな?
お菓子バッカ食って、ジュピターシステムの裏から顔を出しては僕に暴言を吐くんだよな?
これからも事件のたびにどこからとも無く情報を集めて、愛子さんをサポートするんだろ?
だから、そんな顔をするなよ。
そんな、悲しそうに笑うなよ。
お前は、笑わないんじゃないのかよ?
そういうキャラ設定なんだろ?
だから、そんな顔をしたまま、
「さようならだ。愛子、流鏑馬。そして――」
僕のほうを向いて、
「さようなら、太郎」
僕の名前をそんな風に呼ばないでくれ。