それでもセカイは優しく廻る(7)
毎週水曜日午前0時(火曜深夜24時)に次話更新します。
7
階段を駆け上がり
上りきった一番上
扉の前で一呼吸。
僕は深く息を吸い込み
扉の取っ手に手をかけ
勢いよく回し
扉を開ける。
扉を開けると、風が強く吹いていた。空は晴れてはいたが、強い風に雲がどんどん流されて、千切れたり、またくっ付いたり。早送りの映像を見ているみたいに、凄いスピードで流れていく雲。
僕は、まるで今の僕の気持ちみたいだと思った。
色んな考え、色んな言葉が、取りとめも無く頭の中を流れていく。
このときの僕は、何をするべきか、いや、それどころか僕は何をしたいのかさえも分からなかった。
混乱する頭と、激しく動悸を刻む身体。僕は頭で考えたり、心で感じたりした事ではなく、ただ衝動に任せて動いていた。
すると気がつくと、こう言っていた。
「探しましたよ……。何、やってるんですか……?」
僕のその言葉に、扉の向こう、屋上で寝転がっていた影が身体を起こす。
「……なんだ、てめえか……。何の用だよ?」
真っ赤に染めた長髪をかきあげて、不知崎鏨先輩がだるそうな顔で、それでも視線だけは鋭くこちらを睨む。
普段なら、僕のような小心者は、それだけで震え上がって意味もなく謝っているんだろう。なんたって伝説の不良のガンつけだ。しかし、このときの僕は突き動かされるような衝動にかられ、自分でも思ってもいないようなことを口走った。
「何をやっているのか、とこちらが訊いているんですよ。何、勝手にそっちが質問してるんですか」
「あぁん!?」
鏨先輩がほぼ脊髄反射といえる反応で僕に凄みをきかせる。
「てめえ、自分が誰に対してそんな口、きいてんのか、分かってんだよなぁ?」
「ええ、もちろんです」
僕も負けずにその視線を押し返そうと睨み返す。
「もう一度訊きます。……あんた…何やってんだよ」
「てめえ!」
一気に跳ね起きた鏨先輩は勢いよく僕の襟を掴む。
だけど、今の僕をそれぐらいでは止める事ができない。
僕は襟を掴みあげられ、足が浮きそうになりながらも、鏨先輩の目を睨んだまま叫ぶ。
「何やってんだよ!あんたが今いるのは、ここじゃねえだろ!」
「てめえ、何言ってんだ?」
僕は半狂乱になりながら絶叫する。
「逃げんじゃねえよ!何、逃げてんだよっ!あんたが逃げたらダメだろっ!」
そう叫んだ瞬間、視界が揺れて世界の縦と横が入れ替わった。
「!?」
後から、顔の左半分を焼かれているような痛みが走り、そこでやっと鏨先輩に殴り飛ばされた事を知った。
「てめえ、あんま調子乗ってっと、マジで潰すぞ!」
屋上の地面に叩き伏せられた僕に、鏨先輩が文字通り殺し文句を投げつける。
このまま、倒れていればもう痛い思いはしなくてすむだろう。
だけど、僕はここでこのまま寝ているわけにはいかない。
僕は地面に手をつき、震える膝を叱咤激励し、ゆっくりと立ち上がる。
鉄の味がする口は、言葉を止める事ができない。
「僕は、ただ真実を述べているだけで、別に、調子になんか乗ってない……」
「んだと?」
僕は真正面から鏨先輩を見据えて、静かに話す。
「先輩…あんた、何でこんなとこにいるんだよ…。あんたがいなきゃダメなのはこんなところじゃねえだろ……。鏨先輩、わかってるはずだよな…?あんた、そこまで馬鹿じゃねえよな…?なあ?先輩……?」
「てめえ……それは……」
鏨先輩はそういったまま黙り込んでしまう。
強い風が二人の間を吹きぬける。
いつまでも続きそうな沈黙を破ったのは――鏨先輩だった。
「もう…遅えんだよ……」
そう呟いた鏨先輩には、もうさっきまでの殺気のようなものは無くなっていた。
「どこで、間違えちまったんだろうなぁ、俺たち。学校祭の後…睦月からここに呼び出されて、全部聞いた……」
鏨先輩は空を仰いで、ふっと笑った。
いや、嗤ったのか……。
「笑っちまうよな…俺があいつの本当の気持ちを聞かされたときには、もうどうすることも出来なくなっているなんて……」
「どうすることも出来ないなんて……」
鏨先輩はこちらを蔑んだような、いや、それよりも哀れんでいるような目で見て、
「どうすることも出来なくないってか?じゃあ、一体、俺に何が出来たのか教えてくれよ……なあ、俺はどうすれば良かったんだよ……?」
静かに責めるような口調で問いかける。
その言葉は僕を責めているのと同時に、鏨先輩自身も責めているように感じた。
僕は何も言う事ができない。
「大丈夫って言ってやれば良かったのか?それともお前とずっと一緒だって言えば、あいつも少しは救われたとでも思うのかよ?それか、一緒に死ぬとでも……?」
「………………」
「言えるわけねえよな…んな事、冗談でも言えねえよ……あいつから、本当の気持ちを聞いたときに、俺はあいつに言葉一つかけてやれなかった……何を言ってやればいいのかわかんなくて、俺は馬鹿みたいに黙ってたんだぜ……何を言ってもあいつの事を傷つけてしまうんじゃねえかと思って、黙るしかなかった……」
そう言うと、黙り込んでしまった鏨先輩。
お互いにお互いが大切であるが故の――別離。
鏨先輩を傷つけたくなかった睦月先輩。
睦月先輩を傷つけたくなかった鏨先輩。
失う事を怖れるがために、失ってしまう。
離れて欲しくないから、離れていく。
そんな二人。
他人が入り込む余地なんてものは、剃刀一枚無いのかもしれない。
だけど、
僕はどうしても、
どうしても言わなくてはいけない事、
いや、言ってやりたいことがある。
僕は俯いた鏨先輩の胸倉をつかんで持ち上げる。
「言い訳はそれだけかよ?」
僕の突然の行動に、心底驚いたらしい鏨先輩は、目をしばたたかせて事態を飲み込めずにいるようだった。
「何、きれい事を並べ立ててんだよ。んなこと知ったことじゃねえよ!僕はあんたに、何でこんなとこにいるのか訊いてんだよ!あんたが今いなきゃいけないのは、睦月先輩の傍だろうがっ!」
僕のほうが鏨先輩よりも身長が低いので、胸倉を掴もうが先輩にしては全く苦しくないはずだけれど、このとき先輩は一瞬苦しそうな表情を見せて、
「それが出来りゃ……」
と呟いた。
それと同時に僕の腹部に衝撃が走り、その痛みに思わず掴んでいた手を離してしまった。どうやら、鏨先輩の膝蹴りが僕の腹に入ったのだとわかったのは、あまりの痛みにその場に崩れ落ちた後だった。
「ぐっ……ぐはっ……」
「それが出来ねえっつってんだろがっ!」
僕は口元のよだれを拭いて、もう一度立とうとする。しかし足が上手くいうことをきいてくれずに、また倒れてしまう。
「あいつのとこにいたら、傷つけちまうかも知んねえだろっ!」
「それは…違う……。あんたは…あんたは、自分が傷つきたくないだけだ……睦月先輩と向き合いたくないだけなんだよ……」
苦しい息を整えながら僕は立ち上がる。
「てめえ…まだそんなこと……。てめえにはわかんねえよ……」
「わかりますよ……よくわかります……。だって、僕もあんたと同じだから……。僕も睦月先輩を傷つけたくない、傷つけるのが怖くて向き合うことが出来ない……。励ますことも、勇気付けてあげる事もできない……それどころか軽口をたたいて、気を紛らわしてあげる事さえできない……。何も出来ないんだ、僕は……でも――」
鏨先輩を強く見据えて僕は続ける。
「でも、先輩。あんたは違う。僕と違って、あんたなら出来る事があるんだ……。あんたなら、下手な言葉で気休めを言ってあげる必要も無い、睦月先輩を気遣って優しい言葉をかける必要も無い、その身体に降りかかった悲劇を一緒に嘆いてあげる必要も無い、何もする必要が無いんだ……」
僕たちの間に、一陣の風が吹いた。
「先輩、あんたは何もしなくていいんだ。ただ…ただ一緒に、睦月先輩の傍に一緒に居るだけでいいんだよ……」
風はさらに強く吹いている。
「それはあんたなら、いや、あんたにしか出来ないことなんだ……悔しいけれど、僕には出来ない……だから僕はせめて僕に出来る事をする……」
僕は静かに、でたらめなファイティングポーズをとる。
「鏨先輩、あんたを睦月先輩のところに連れて行く。力ずくでもなっ!」
「てめえがか?はははっ!出来るもんならやってみろよ?」
鏨先輩が両手を広げて、挑発するような表情を浮かべる。
「俺が行って、何になるってんだ?もう、手遅れなんだよ!俺たちはっ!」
「あんたは、まだそんなことをーっ!」
僕は地面を蹴って、
「この、わからずやーっ!」
叫びながら拳を突き出した。
その拳を身体を捻ってかわし、鏨先輩はその反動で拳を突き上げる。
「うっるせえーっ!」
突き上げた拳は、空振った勢いで前のめりになった僕の顎に、完璧な角度で入った。
視界が強制的に上に向く。
そのまま、僕は跳ね飛ばされてように後ろに吹っ飛んだ。
口の中を切ったのか、さっきよりもっと強烈な血の味が口の中に広がる。
倒れたままでは、次の攻撃を受けきれない。
そう思った僕はすばやく立ち上がろうと、上体を起こそうとした。しかし――
「……あれっ?……力が……」
身体に力が入らない。それどころか、視界までぐらぐらと揺れている。
「お前、もう立てねえよ。そこで寝てろよ」
鏨先輩は、そう言って屋上の出入り口のほうへ向かう。
「ちょっ……ちょっと、待て……僕は、あんたを…睦月せん…ぱい……」
視線が定まらず、自分がどこを見ているのかさえわからない。
もうダメだ……。
そう、思ったとき――
「うっせえんだよ。ばーかっ」
目の前に真っ黒い幕が下りる少し前――
振り返った鏨先輩がそう言って少し笑ったように見えた。
そして僕は意識を失い、次に目を覚ました時には、屋上には誰もいなかった。
「あっははははっ!なかなか男前になったねー」
病室を開けると、睦月先輩はその病的に白い肌には不釣合いなほど、明るくそして快活に笑った。
そうだった。
この人は、こんなに素敵な笑顔の出来る人なんだった。
「はい…まあ……」
何となく照れくさくて、曖昧に返してしまう。
「まあ、そんなとこに突っ立ってないでこっちにおいでよ」
病室の入り口に立ち尽くしていた僕は、そう促されてベッドのよこのパイプ椅子に腰掛ける。
「その……先輩……ダメでした……」
僕は、悔しさと情けなさを噛み殺しながら、俯いて言った。
「そっか……ダメ、だった、か……」
下から盗み見ると、先輩は少し寂しそうに笑っていた。
「やっぱ、そうだよね……訳わかんない理由で一回振ってんのに……今さらだよね……」
「………………」
僕は何か言おうと努力したけれど、言葉を全て忘れてしまったかのように、何も言う事が出来なかった。
先輩もそのまま何も言わず、部屋の奥の窓のほうを向いてしまった。
「先輩……?」
「ありがとね…あたし、嬉しかった。太郎ちゃんがたっちゃん連れて来てくれるって言った時、もう、それだけでほんと嬉しかったんだ……だから、ありがと」
向こうを向いているからその表情がこちらからは伺えない。ただ、その言葉は何故か僕の胸を強く打った。
「……そんな事、言わないでくださいよ」
「なんで?ただ、感謝してるだけじゃん?」
「いや……その…そんな事、急に言われたら……何て言うか……」
「遺言みたい?」
開け放たれた窓から風が吹き込み、白いカーテンを膨らませる。
「いやっ…そうじゃなくて……」
「いいよ。だって、本当に遺言なんだもん」
優しい声でそう言った睦月先輩の顔は、向こうを向いているからやっぱり見えない。
「何となくわかるんだ。あたし、もうすぐ死んじゃうんだろうなって……」
その声はやっぱり優しくて、でもどことなく寂しく、乾いた悲しさを含んでいた。
でも僕には、この時の睦月先輩の心がわからなくて、ついこんな事を口走ってしまう。
「先輩は死にませんよ。死ぬわけ無いじゃないですか」
軽はずみだったと思う。
僕のその言葉に、睦月先輩の背中が少し震えた。
「何で…何で、そんな事言えるの……?」
「えっ……?」
「何で、そんな事言えるのよっ!あたしの命を安請け合いしないでよっ!太郎ちゃんに、何がわかるって言うの!」
先輩の肩が震える。
「いやだよ…あたし、死にたくない……死にたくないよぉ……ねえ、なんであたしなの……?教えてよ……あたし、なんで死んじゃうの……?」
何か言わなくちゃ。
そう思えば思うほど僕の唇は硬く閉ざされて、開きそうに無かった。
泣きじゃくる先輩の背中に、なんとか声をかけようとした時だった――
ガラッと、扉が開く音がして、先輩が振り返りこちらを見る。
僕の肩越しに入ってきた人物を見た睦月先輩は、涙でぐしゃぐしゃな顔をそのまま笑顔にかえて、
「やっと、来てくれたんだ……」
そう言って、さっきまでとは違う温度の涙を流した。
遅ればせながら振り返った僕の視線の先には、大きな花束を持った鏨先輩が決まり悪そうに立っていた。
「ちょっと、これ、買うのに手間取っちまって、な」
「うふふ、たっちゃんはいつも相手の都合も考えずに、大きな花束を贈りつけるよね?それって何でなの?」
少し悪戯っぽく笑って睦月先輩が言う。
「おまっ、何、言ってんだよ?いつもって――」
「あたし、知ってるんだから、中学のときに、たっちゃんあたしの靴箱に花束を詰め込んだでしょ?上履きも何もかも花びらだらけになって、大変だったんだから」
睦月先輩はあくまでも優しくたしなめる様に鏨先輩に抗議する。
「お前……知ってたのか……」
「バレバレよ。たっちゃん嘘つくの下手だから」
うふふ、と笑う睦月先輩。
「なんだ……迷惑だったのかよ……。だったらもっと早く――」
「迷惑なんかじゃない。とっても嬉しかったよ」
睦月先輩はそう言うと嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔は今まで見た笑顔の中で、とびきり一番魅力的な笑顔だった。
まぶたの裏に焼きついて、離れないほどに……。
その後、二人は取りとめも無いような思い出話や雑談を交わしだしたので、僕は静かに立ち上がり、話し込む二人の邪魔をしないように病室を出て、そっと扉を閉めた。
「……いいの?」
扉を出たところにいた愛子さんに訊かれる。
「ええ、もう、僕の出番は終わっちゃいましたから……」
僕は天井を見ながらそう呟く。
「そう……それもそうね……」
僕たちは、並んで病院の消毒液臭い廊下を歩く。
「それはそうと、あなた、もしかして泣いているんじゃない?」
「そ、そんな訳無いじゃないですか…いやだな~もう……」
僕は心持、歩みを速める。
「ちょっと!こっち見せてみなさいよ!ねえ!」
「いやです!今、急に愛子さんの顔を見るのがものすごく嫌になりました!」
追いすがる愛子さんを振り切るように、早足で僕は病院を後にした。
何かを吹っ切るような足取りで……。
そして――
これが僕が睦月先輩を見た最後になった。