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第三章  逃走

父の旧型電動車は、車庫の奥で埃をかぶっていた。


充電は七十三パーセント。走行可能距離は二百九十キロ。父の別荘は北に三百キロある。シスが計算した。


「充電が不足しています。途中で補充する必要があります。ただし現在の状況下では充電スタンドへの立ち寄りはリスクが高い」


「代替手段は?」


「農村部を迂回するルートを取れば、廃屋になった農場施設にソーラーパネルが残っている可能性があります。不確実性は高いですが」


「そのルートで行く」


シスが運転席に座った。父と私は後部座席に並んだ。荷物はトランクに詰め込んだ。研究ノートの入ったケースを、私は膝の上に置いた。


車は暗い道を走り始めた。


ヘッドライトを最小にしていた。熱源センサーに引っかかるリスクを下げるために、エンジン出力も抑えた。時速五十キロ。ゆっくりと、静かに、夜の農道を走った。


窓の外、田んぼの向こうに、遠くの街の明かりが見えた。いくつかの光は揺れていた。炎だと気づくまでに少し時間がかかった。


「父さん……怖い?」


「怖い」


「正直だね」


「お前に嘘はつかない」


私は窓の外を見た。暗い田んぼが流れていった。


「お母さんのことを考えた。こういうとき、お母さんがいたら何て言ったかなって」


父は少し黙った。


「……お前の母親は、怖がらない人だった。怖くても、怖がらないふりができた人だった」


「私に似てる?」


「正反対だ。お前は怖いと正直に言う。それはそれで、いい」


「シスは怖い?」


運転席のシスが、少し首を動かした。


「私は恐怖の感情を持たないように設計されています。ただ、アンさまとお父様の心拍数が通常より高い状態であることは、センサーで確認しています」


「それは怖がってるってこと?」


「そう解釈することもできます」


私は少しだけ笑った。こんな状況でも笑えた。シスがいると、笑えた。


三十分ほど走ったところで、シスが速度を落とした。


「後方、確認中。電磁波の反射パターンに不規則性があります」


「ドローン?」


「……可能性があります。まだ確定できていません」


五分後、シスは言った。


「確認しました。二機。軍用偵察型です」


父が息をのむ気配がした。


「振り切れる?」と私は聞いた。


「困難です。熱源探知と電波追跡を組み合わせています。遮断手段がありません」


「どうする?」


「農道に入ります。木立の中を通過することで、追跡精度を落とせる可能性があります」


車が急に曲がった。砂利道に入り、サスペンションが揺れた。ヘッドライトが木の幹を照らした。葉が揺れた。


その三十秒後、銃声が始まった。


最初の一発は車の後部に当たった。金属のへこむ音がした。シスが更に速度を上げた。私は父の腕を掴んだ。父も私の手を掴んだ。


「頭を下げて」とシスが言った。


「シス、状況は?」


「ドローン一機が接近しています。もう一機は――」


次の衝撃は、私の右肩に来た。


乾いた音だった。それから、遅れて灼熱感が来た。熱い、というより、何か硬いものが体を貫いた感覚だった。私は声を上げる間もなく、体が座席に押し付けられた。


「アン!」


父の声が、遠くなった。


「大丈夫」と私は言った。「動ける」


動けなかった。でも、動けると言わなければならなかった。父がパニックになってはいけないから。


次の衝撃で、車のエンジンが止まった。シスが車から飛び出す気配があった。車のドアが開く音。足音が消えた。外で何か激しい音がした。金属同士がぶつかる音と、電子系統が焼け切る音。


シスがドローンを素手で叩き落とした音だと、後から理解した。


静寂が来た。


「アン、見せろ!」


父が私の右肩に触れた。私は首を横に振った。


「大丈夫」


「嘘をつくな、見せろ!」


父が私の上着をめくった。暗くてよく見えなかったが、父の息が止まった。


「シス!シスを呼んでくれ、医療品を」


「父さん、私より父さんは無事なの?」


「私は無事だ」


「ほんとに?」


「無事だ。話しかけるな、じっとしていろ」


シスが戻ってきた。医療ケースを開いた。暗い農道の脇で、シスが私の傷の処置を始めた。私は父の手を握っていた。父も握り返してきた。


「痛いですか?」とシスが聞いた。


「……痛い」


「すぐに止血します。アンさま、私の声を聞いていてください」


「うん」


「安定指数〇・九四。再現実験のパラメータは、明日から始めます」


何を言っているのか一瞬わからなかった。それから気づいた。気を紛らわせようとしている。


「……明日、データを整理しないといけないね」


「はい。位相オフセットの体系的な検証から始めます」


「シス」


「はい」


「ありがとう」


「いいえ」


処置が終わったあと、シスが私を車の後部座席に戻した。エンジンは動かなかった。シスが車を降りて、後ろから押し始めた。オートマタの力で、車はゆっくりと農道を進んだ。


「父さん、あと何キロある?」


「百五十くらいだ」


「シスが押してくれるの?」


「そうなる」


「シスに悪いな」


「シスは大丈夫だ。……大丈夫か?シス」


「問題ありません。お父様もアンさまも、黙って乗っていてください」


私は目を閉じた。右肩が重く、熱かった。でもシスの処置で出血は止まっていた。


父がいた。


安心して、目を閉じた。


車が揺れていた。シスが押していた。父が隣にいた。


月が出ていた。雲の切れ間から、白い月が見えた。


痛みと鎮痛剤で意識がぼんやりしてきた。





いつの間にか眠っていたようだ。


気がついたとき、車は止まっていた。


まだ夜だった。木立の中に、車が止まっていた。


シスがいなかった。


父もいなかった。


「父さん?」


返事がなかった。


ドアを開けようとした。右肩が痛くて、左手だけでドアを押した。外に出た。足がふらついた。地面は土だった。


「父さん!」


少し歩いたところに、シスが立っていた。


月の光の中で、白磁の外装が青白く光っていた。シスは私を見て、一歩近づいた。それだけだった。何も言わなかった。


「……父さんは?」


シスは三秒だけ、動かなかった。


シスの足元にお父さんは横たわっていた。


その姿は一目で向こうへ旅立ったことがわかるものだった。


月の光を浴びたその顔はとても穏やかだった。


「……車内で……第二射撃の際に。即死だったと判断しています。苦痛は……なかったと思われます」


地面が傾いた気がした。


実際には傾いていなかった。私の体が傾いていた。シスが私を支えた。白磁の腕が、私の背中を抱えた。


私は何も言えなかった。


十数秒後、一気に涙が溢れてきた。大量の涙が。父さん、さっきまであんなに元気だったのに……涙が止まらなかった。


明るい月が、雲の向こうに入った。





後から、シスに聞いた。


父がどんな様子だったかを。


「第二射撃は車体の左側面に集中していました。お父様は、アンさまを庇うように、アンさまの左側に体を寄せていました。意図的な行動だったと判断しています」


私は何も言えなかった。


「……わかった」


「知らせるべきかどうか、迷いました」


「……教えてくれて、よかった」


シスは何も言わなかった。


私は目を閉じた。


父が、私を庇っていた。


銃撃の中で、最後の瞬間まで、父は私の盾になろうとしていた。


母を失って。娘を失いたくなくて。その娘のために十年研究して。そして最後に、体で守ろうとした。


私には、何もできなかった。


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