小型ターミネーター 同時三階級王者 ヘンリー・アームストロング(1912-1988)
シュメリングやベアのような白人の人気世界王者が映画出演することは珍しくなかったが、アームストロングは黒人でありながら主演映画を撮っており(1939年)、その点でも革命的だったといえる。引退後の1946年には、かつて人気のうえでライバルだった現役ヘビー級王者ジョー・ルイス主演の映画に脇役で出演している。
歴史にその名を残すほどの超一流のボクサーというと、ムハマッド・アリやオスカー・デラホーヤのようにプロ入り前からホープとして注目されていたか、マイク・タイソンやフロイド・メイウェザー・ジュニアのように連勝につぐ連勝によって大ブレイクするケースが多く、少なくとも相対的に試合数が減った今世紀以降、グリーンボーイ時代に敗戦を繰り返したような例は見当たらない。
ところが往年の三冠王ヘンリー・アームストロングは、右スイングの一撃で顔面からキャンバスに沈む(三ラウンドKO負け)という何とも情けないデビューぶりで、そこには将来性のかけらさえ見いだせなかった。なんとか二戦目に初勝利を飾ったものの、三戦目から連敗する有様で、デビュー二年間の成績は五勝三敗(一KO)という冴えないものだった。
デビュー当初はメロディ・ジャクソンの名でリングに上がっていたヘンリー・ジャクソンがヘンリー・アームストロングと名乗るようになったのは、彼が兄貴と慕っていた親友ハリー・アームストロングにあやかってのことである。こちらの方がずっと強そうに聞こえるし、改名のご利益もあったようで、草試合上がりのような無骨なファイトながら地道に勝ち星を積み重ねてゆき、やがてボクシング狂のトップエンターティナー、アル・ジョルスンの目に留まるまでになった。
歌手兼俳優のアル・ジョルスンといえば、一九一〇~三〇年代にかけて最も人気があったハリウッドスターの一人である。無名のアームストロングのボクシングに魅かれたジョルスンは、まず自身のマネージャーであるエディ・ミードに引き合わせて、以後のマネージメント契約を結ばせると、早速、同じく熱狂的なボクシングファンで知られる俳優ジョージ・ラフトとともにアームストロングの売り出しに着手した。
一九三六年以降、ショービジネス界に幅を利かせる三人のビッグネームの後援を得たアームストロングは、過去二連敗を喫していた元世界フェザー級王者ベビー・アリズメンディに一矢報いた後、現役の世界フェザー級王者マイク・ベロイズをノンタイトルで破るなど着実に力をつけてきた。
中でもマネージメント面だけでなく常にセコンドについてアームストロングを励ましたエディ・ミードの存在は大きかった。まだマフィアがボクシング興行に大きな影響力を持っており、海千山千のプロモーター達から食い物にされるボクサーも少なくなかった時代、ボクシングだけに専念できる環境を与えられたアームストロングは、強力な宣伝力を背景にトップボクサーへの階段を着実に昇っていった。
アームストロングのボクシングスタイルは「パーペチュアル・モーション(永久運動)」と称される果断なきラッシュ戦法である。ずば抜けたKOパンチは持たないぶん、相手の懐に潜り込んであらゆる角度から回転の速い連打を叩きつけてくるという一見泥臭いスタイルだが、並のボクサーと違うのはその執拗さである。
一分間の脈拍が常人の半分の二十九回という特異な心肺機能を持つアームストロングは、第一ラウンドから最終ラウンドまで休むことなく連打が繰り出せるのだ。
よくあるタイプのKO即決型のボクサーは、序盤から全力で倒しにかかるため、早いラウンドでのKO勝ちが多い反面、中盤以降は失速して判定に持ち込まれるか、逆転KO負けをくらうケースも少なくないのだが、アームストロングの場合は一気に仕留めようとせず、じわじわとダメージを与えてゆくことに主眼を置いたファイティングスタイルゆえに、終盤のガス欠の心配もなくほとんどの相手が根負けした形で軍門に下っていった。
本来、執拗なインファイターに対峙する際は、ジャブとフットワークを使って距離を取りながらカウンターを狙い、潜り込もうとしたところをアッパーで突き上げるか、懐に入られた場合は即差にクリンチして接近戦を回避するというのがセオリーである。
ところが、アームストロングは常に身体を上下左右にリズミカルに揺すりながら接近してくるうえ動体視力も良いので、ジャブやロングレンジからのパンチはすいすいかわしてしまう。仮にフットワークでいなそうとしても、反応が速く出足も鋭いため、接近を阻むのは至難の業である。
何より休みなく攻撃を仕掛けてくるので、相手は間合いが取れず、自分の距離で戦わせてもらえないのだ。
ダッキングした際に身体を沈み込ませた反動を利用して身体ごと叩きつけるような左右のフックで相手の懐に飛び込むや、すかさずボディへの連打というのが、アームストロングの基本的な攻撃パターンである。
それも顎をきっちりと引いて、相手の顔面目がけて伸び上がるように頭から飛び込んでくるため、ガードの隙間を縫ってカウンターを当てるのも容易ではない。しかもダーティーテクニックも超一流のアームストロングのこと、不用意にクリンチしようとすればヘディングを狙ってくるか、もみ合っている際にもレフェリーの目を盗んで、肘をあばらにねじ込んでくるのだから始末が悪い。
史上最悪のダーティファイターと恐れられた反則の達人、フリッジイ・ジビック(世界ウェルター級チャンピオン)ほどの男が「クリンチの際、アームストロングほど抑えにくいボクサーはいなかった」というのだから、クリンチはむしろアームストロングの思う壺と言ってよかった。
こういうボクシングをされると、少々の体重差やリーチの差があっても、そのアドバンテージは相殺されてしまう。おまけにデビュー戦以外はレフェリーストップこそ1回あるが、生涯テンカウントを聴くことがなかったほど打たれ強いため、ラッキーパンチでのKOも有り得ない。さすがに歴代パウンドフォーパウンドTOP5の常連だけのことはある。
この難攻不落のアームストロングに完勝するためには、歴代最強といわれるシュガー・レイ・ロビンソンのスタイルで戦うしかない。
両者はアームストロングが王座陥落後の一九四三年に八月二十七日に対戦しているが、ダンサーのようなステップを踏み、しなる鞭のようなパンチを繰り出してくるシュガー・レイの洗練されたリズミカルなボクシングの前では、アームストロングのトリッキーなボクシングもネタバレしたマジックのように全く通用しなかった。
一九三七年はアームストロングが世界タイトル目指して一気にロケット加速した年である。年明けの一月一日早々リングに上がり、幸先よく年度の初勝利をKOで飾ると、七戦目の判定勝ち以外はオールナックアウトという凄まじい破壊力を見せつけ二十七連勝を記録。
試合数の多さもさることながら、メインエベンターを張りながら年間二十六KO勝ちというのは空前の快挙であり、「リング」誌による年間最優秀ボクサーに選出されている。
この間にペティ・サロンを六ラウンドKOで下し、世界フェザー級タイトルを手に入れている(十月二十九日)が、すでに減量がきつくなり年度の第二戦以降、世界戦の十日前までライト級リミットでリングに上がっていたにもかかわらず、そこから一気に七ポンドも減量し生涯百戦を超えるキャリアを持つサロンにボクシング人生唯一のテンカウントを聴かせたのだからそのタフネスぶりは尋常ではなかった。
アームストロングは典型的な“戦うチャンピオン”であった。
世界戦からわずか二十日後には再びライト級に上げ、三十二勝〇敗の若きホープ、ビリー・ビョルドから二度のダウンを奪って五ラウンドにストップ勝ちしているが、ノンタイトルとはいえ、世界戦直後に急激に増量し、今日でいう二階級上の強豪ボクサーと戦うなど、余程スタミナに自信がなければとても出来るような芸当ではない。しかも、翌一九三八年は一月から二月にかけてノンタイトル戦を七度もこなし、全てナックアウトしているのだ。
連続KO記録はその後二十七で途絶えるが、五月三十一日には、「不死鳥」の異名を取る史上三人目の三冠王、バーニー・ロスを滅多打ちにしてウエルター級タイトルを奪取(十五ラウンド判定勝ち)している。
歴代ウェルター級屈指の名王者に圧勝した試合内容もさることながら、驚くべきはアームストロングがロスより十ポンドも軽いライト級リミットでリングに上がっていることであろう。
この時点でのアームストロングは現役のフェザー級チャンピオンであるから、二階級(今日なら四階級に相当)上のタイトルを奪取したことになる。これは近年で最も傑出したフェザー級チャンピオン、ナジーム・ハメド(英)が同時代最強のウェルター級ボクサー、オスカー・デラホーヤに挑戦するようなもので、仮にハメドがこの対戦を希望したとしても、結果が見えすいていてプロモーターがつかなかっただろう。
それもアームストロングが一階級飛び越えてロスとの対戦を選んだのは、ライト級王者のルー・アンバース陣営が危険な挑戦者として対戦を拒んだからというところが凄い。
二冠達成から約二ヶ月半後の八月十七日、世界ライト級チャンピオン、ルー・アンバースに挑戦したアームストロングは、スプリットデシジョン(反則による減点がなければ二対〇)ながら見事タイトルを奪取し、ボクシング史上アンタッチャブルレコードと言われる同時三階級制覇の偉業を達成した。
これだけ短期間に三階級の王座に挑むという無謀なチャレンジの背景には、ジョー・ルイスが君臨するヘビー級中心の当時のボクシング界にあって、人気面でルイスに対抗しうる中量級のスターを作り出そうという興行上の目的があったからだ。
それでも各階級にチャンピオンが一人しかいない時代だけに、昨今のように比較的弱いチャンピオンを選んで挑戦させるようなわけにもいかない。ロスやアンバースのような一流王者を打ち破って達成したからこそ、過去の三冠王ボブ・フィッシモンズ、トニー・カンゾネリ、バーニー・ロスを越える人気を博したのだ。
アームストロング陣営にとって同時三冠王は単なる通過点に過ぎなかった。一九三九年には、さらなる鉄人記録をボクシング史に残すことになる。それが年間十二回の世界戦である。
過去に防衛戦とノンタイトル戦を合わせて年間十試合以上をこなしたチャンピオンはいても、これほど世界戦を戦った例はない。それはノンタイトル戦がその時の自分の体重に合わせて試合を行えるうえ、小遣い稼ぎと割り切って勝てる相手を選ぶことも出来るのに対し、世界戦となると規定の体重まで落とさなくてはならず、相手も世界ランカーから選ばなければならないからである。
その世界ランカーにしても、今日では世界20位以内であれば防衛戦と見なされるのに対し、当時は10位以内でなければノンタイトル扱いになってしまう。しかも統一団体が一つしかないことを考えると世界ランカーの質が全く異なる。
ほぼ毎月世界戦のリングに上がるためのコンディション維持と集中力の継続だけでも相当な労苦を強いられるうえ、その全てに勝利するとなると挑戦者たちとは格段の実力差が要求される。
身長一六六cm、筋肉質でずんぐりむっくり型のハンクは、上背だけならフェザー級がいいところで、ライト級でも小柄な部類に入る。それでいてフェザー級からミドル級までの世界チャンピオンとグローブを交えているのだから恐れ入る。
初代六冠王のオスカー・デラホーヤはJ・ライトからミドルまでを制したが、最初のタイトルはWBOがまだマイナー認識しかなかった時代のものであるうえ、元々中量級にしては長身(一七九cm)だったため、時間をかけて上の階級に適した身体づくりをすることで、ナチュラルミドルの相手にも引けをとらない体格へと進化することが出来た。とはいえ、ミドル級でも通用するパワーを身につける一方で、ライト級時代と変わらないスピードを維持していた点は大いに評価すべきであろう。
二代目六冠王にして二十一世紀最強といわれるマニー・パッキャオはフライからスーパーウエルターまで、バンタムとフェザーを通り越して王座についたことで実質八階級制覇の声もあるスーパーボクサーである。一六八cmのパッキャオの場合はフライ、バンタム級でこそ長身の部類でもライト級以上では明らかに体格的なハンディキャップがある。それでいてデラホーヤをKOで破っているのだから、全く別格の強さと言っていい。
彼がしばしばアームストロングと比較されるのは、まさに体格的な不利を克服してこれだけ体重の違う複数階級を制覇したことにある。そういう意味では、両者は似たタイプのボクサーと言えるかもしれないが、パッキャオはやや打たれ弱いのが難点で、ラッキーパンチ気味の一発で失神KO負けしたこともある。
アームストロングの三階級制覇は今日なら六階級に相当する大偉業だが、各階級に世界チャンピオンは一人しかいなかった時代のことだけにその価値は全く異なる。もっとも、パッキャオはその都度、同階級で最強と謳われるボクサーを倒してきたことで、実質的な統一チャンピオンと見られることが多いが、時間をかけてゆっくりと階級を上げた結果である。
しかもウェルター、スーパーウエルターのタイトル戦は、両者のプライベートな合意によるキャッチウェイト制を採っており、そのタイトルの正式ウエートで戦ったわけではない。この制度を逆手にとった悪しき例が、シュガー・レイ・レナード対ドン・ラロンデのWBCミドル&ライトヘビー級タイトルマッチである。
この試合の契約ウエートはミドル級で行われたにもかかわらず、ラロンデはライトヘビー級タイトルを賭けるという条件だったため、レナードはラロンデに勝てば一試合で二冠を手に入れることができることになっていた。一八五cmのラロンデは一七八cmのレナードよりも一回り以上大柄であるにもかかわらず、今日なら二階級も下のウエートにまで落とさなくてはならないから明らかに不利である。
過酷な減量によるスタミナ不足が災いしたか、中盤以降はめっきりスピードが落ちたラロンデはレナードに滅多打ちされてマットに沈んだが、前半の四ラウンドには浅いフック一発でレナードから先制のダウンを奪っているように、パワーでは明らかに勝っていた。
もし、ラロンデがベストウェートのライトヘビー級で戦っていれば、レナードはパワー増強のための無理な増量か、スピードを生かすために体格差のハンディを受け入れるかの二者択一を余儀なくされるため、結果は逆になっていたかもしれない。
ライトヘビー級のウエートで対戦するリスクを避け、筋肉とスタミナを削ぎ落としたラロンデを倒してライトヘビー級チャンピオンの座を手に入れたレナードはさすがにファンの非難を浴び、初の四階級制覇の偉業も茶番と酷評された。
以上のように、複数階級制覇とは言ってもその価値を額面どおりに受け取れるとは限らない。ジュニアやスーパーなどの後発の水増し階級ではなく、本来の正式な階級による三階級制覇を成し遂げたボクサーは、アームストロングの他にはボブ・フィッシモンズ(ミドル・ライトヘビー・ヘビー)、シュガー・レイ・レナード(ウェルター・ミドル・ライトヘビー)、ロベルト・デュラン(ライト・ウェルター・ミドル)、トーマス・ハーンズ(ウエルター、ミドル、ライトヘビー)、オスカー・デ・ラ・ホーヤ(ライト・ウェルター・ミドル)、ロイ・ジョーンズ・ジュニア(ミドル・ライトヘビー・ヘビー)、マニー・パッキャオ(フライ・ライト・ウェルター)の8名だが、アームストロングとフィッシモンズ以外で、主要団体の統一王者になったことがあるのはデュランとレナードだけである。
またフロイド・メイウェザー・ジュニアは五階級を制覇したが、S・フェザー、S・ライト、S・ウェルターを含むため、全七階級時代なら二階級制覇に過ぎない。
言うまでもないことだが、階級が細分化しているということは昔なら同一階級だった選手が分派し、各階級の選手層が薄くなっていることを意味する。
例えば世界フライ級チャンピオン時代のパスカル・ぺレスは今日のミニマム級からスーパーフライ級までの四階級から選りすぐった上位十名以外と対戦しても世界戦と認めてもらえなかったため、挑戦者の質を考えれば、防衛戦の二回に一回は統一戦に臨んでいるようなものだった。
そんな時代のアームストロングの次なる野望がミドル級制覇であった。
一九四〇年三月一日、ロスのギルモアスタジアムで前人未踏の四階級制覇に挑んだ相手はフィリピン出身のセフェリノ・ガルシアだった。
ガルシアは二年前にアームストロングのウエルター級タイトルに挑戦し、善戦しながらも判定負けしたタフなファイターだが、当時のアームストロングはライト級で戦っていたため、体重差があっても勝算があるとみたのだろう。試合当日の軽量ではアームストロングがスーパーライト級の体重であったのに対しガルシアはスーパーウエルター級だった。
試合は序盤にガルシア得意のボーロパンチ(低い位置から弧を描くにように放つロングアッパー)を顎に喰らったアームストロングがたじろぐシーンも見られたが、中盤以降はヘッドブラッシュを交えた至近距離からのショートの連打で終始ガルシアを圧倒した。
アームストロングの左目もかなり腫れあがっていたが、ガルシアの方が明らかに疲労困憊という体だったため、観客の大半は四階級制覇成功を確信していたが、何と結果はドローだった。
これはルー・アンバースとのリターンマッチで反則による減点が多すぎてライト級タイトルを手放した時のことを彷彿させるような判定である。
アームストロングは優れたファイターであっても、姑息な反則を織り交ぜる技術に長けており、審判泣かせなところがあった。そのため彼の反則を減点の対象と見なすかどうか個人差があり、アンバースとのリターンマッチではレフェリーの減点は5点にも及んだ。ジャッジのうち2名は一ポイント差でアンバースを支持していたことからすれば、反則による減点がなければアームストロングがタイトル防衛に成功していたところだった。
こういった過去のアームストロングのえげつないボクシングが伏線となっていたことは十分考えられる。つまり観客の見た目はアームストロング攻勢のラウンドでも、至近距離にいるレフェリーの目からは反則を交えた攻撃と見なされ、本来ならなされるべき加点がなかったということである。
このつまづきを糊塗するためか、アームストロングは峠を過ぎたロートルやキャリアの浅い若手相手の防衛戦を重ね、半年間で五度の防衛、それもオールナックアウト勝ちという無敵ぶりをファンの前で見せつけた。
アンバースに敗れた直後にも一ヶ月間で五度の防衛という未だに並ぶ者もない超人的記録を打ち立てているが、こういう記録は作為的と見られても仕方がないだろう。中量級のボクサーがヘビー級の無敵王者ジョー・ルイスに匹敵する人気を得るためには、とにかく新機軸のアイデアを次々と繰り出して、宣伝効果を拡大する必要性があるとはいえ、ジョルスンたちもちょっと調子に乗りすぎたようだ。
九月二十三日に十九度目の防衛に成功したわずか十一日後の十月四日に行われた二十度目の防衛戦の相手が悪かった。
対戦相手のフリジイ・ジビックはチャンピオンと同じく百戦を越えるキャリアを持つ歴戦の猛者である。一流どころとの対戦では、無冠の帝王チャーリー・バーリーには一勝二敗だが、ルー・アンバースにもビリー・コンにも敗れており、実力的にはアームストロングが恐れるほどの相手ではなかった。
ところがいかんせんハードスケジュールで防衛戦をこなした疲れがあったのか、タフネスでは他の追従を許さなかったアームストロングが肝心の最終十五ラウンドで失速してしまったのである。十四ラウンドまではジャッジ二人が一ポイント差でアームストロングを支持していたにもかかわらず、最終ラウンドはほぼ防戦一方になり、試合終了のゴングと同時にダウンを喫するという後味の悪い試合になった。
アームストロングのガス欠は想定外だったが、ジビックもアームストロングがガルシアのボーロパンチを結構もらっていたことが攻略のヒントになったのか、およそ十センチ上回る身長とリーチを生かした左右のボーロパンチを多用し、中盤までにほぼ両目の視界を塞ぐほどダメージを与えていたことも勝利への伏線になっていたと思われる。
しかしジビックの勝利を決定づけた最大の要因は、前述のように彼が”反則王”の異名を取るほどのこの道のエキスパートであり、ダーティファイトを得意とするアームストロングを凌ぐ技術を持っていたことであろう。
ヘッドブラッシュとボディへの肘打ち、サミングを巧みに交えてくるアームストロングに対して、ジビックがお返しとばかりに執拗なローブローで応戦したところ、さすがのアームストロングも十ラウンドには「いい加減にしやがれ」と毒づいたというから、さすがに反則合戦では分が悪いと悟ったのだろう。
一九四一年一月十七日、早速アームストロングとジビックのリターンマッチが実現したが、休養十分だったにもかかわらず、前王者は現役王者の猛攻をさばき切れず、十二ラウンドにストップ負け。
予想外の敗戦にショックを受けたアームストロングは引退を表明するが、約一年半後に撤回し、一九四五年二月まで現役に留まった。
カムバック後の一九四二年十月二十六日には、短命王者に終わったジビックとのラバーマッチに挑み、今度は一方的にジビックを打ち据え、十ラウンド判定勝利で積年の恨みを晴らしている。
生涯戦績 149勝21敗(99KO)10分
三冠王アームストロングを一方的に下して初防衛に成功したジビックは安定王者になれるかと思いきや意外なほど短命だった。一九四一年四月のノンタイトル戦でマイク・カプランに判定負けした後、七月に行われた二度目の防衛戦でフレディ・コクランに判定負けしてあっさりとタイトルを手放している。コクランのような二流チャンプにタイトルを奪われたくらいだから、ジビックがアームストロングに連勝したこと自体フロックだったのかもしれない。




