朝ぼらけ
午前四時、まだ夜も明けきらない薄暗がりの部屋で誠治は目を覚ました。背中には嫌な汗が滲んでいる。
行きつけの喫茶店で妻の純子とコーヒーを飲む夢を見た。向かい合って話しているはずなのに、何度呼んでも純子はこちらに気づかない。そこにいるのに振り向いてくれない。そんな夢だった。
妻が急逝してからすでに五年が経っていた。あの喫茶店に純子と行ったことはない。
普段は意識しないようにしている孤独が、ふとした瞬間に泥水のように心の隙間へと流れ込んでくる。
「……くだらん夢だ」
彼女を置いて六十三歳になってしまった自分の声は、寝起きでさらに掠れて聞こえた。
再び眠る気にもなれなかった誠治はジャージを羽織り、朝の散歩へと出かけることにした。
街はまだ静まり返って新聞配達の音もしない。定年退職後の日課としているこの散歩も、今日はどこか足取りが重かった。亡き妻の面影を引きずったまま歩くのに疲れ、やがて朝日が昇ってから誠治はいつもの喫茶店『カフカ』の扉を覗き込む。
開店時間には遠いが、店主の薫が扉を開けてくれた。
「あら、今日は早いんですね。どうぞ」
「ああ……すまない。ありがとう」
薫は誠治よりも三つ年下で、同じように連れ合いを早くに亡くしている人だった。この店が行きつけになったのは、そんな静かな共通点を知ったせいだったかもしれない。
「なんだか目が覚めてしまってね」
「顔色が悪いですよ。また、難しい本でも読んで夜更かし?」
「いや……ちょっと夢を見ただけさ」
誠治は苦笑しながらいつもの席に座り、ブレンドコーヒーを頼もうとした。しかし薫は首を横に振る。
「今日は、いつものやめておきましょう」
「ん? ああ、準備がまだだよな。申し訳ない」
「そうじゃなくて。胃が疲れてるような顔してるわ。代わりに、これ飲んでみてちょうだい」
そう言って薫が手際よく淹れたのはいつものコーヒーと似た黒い液体だったが、香りが少し違っていた。土の匂いがするような、懐かしくて香ばしい匂いだ。
「これは?」
「たんぽぽコーヒーです」
「たんぽぽ……? あの、道端に咲いてる?」
花の名前には詳しくないが、さすがにたんぽぽくらいは知っていた。しかしあの足元に咲く小さな黄色い花と目の前の液体が結びつかない。
「そう。その根っこを焙煎したもの。ノンカフェインで体に優しいんです。コーヒーの代用品なんて言われるけど、私はこれ、別の飲み物として大好きなのよ」
薫の微笑みにつられて、誠治は訝しげにしつつもカップを口に運んだ。
舌に触れた瞬間、コーヒー特有の鋭い苦味や酸味はなかった。代わりに麦茶を濃厚にしたような、あるいは炒った豆のようなじわりと広がる素朴な甘みと、後からくるほろ苦さがあった。
確かにコーヒーとは違う。がつんと目覚めを突きつけてはこない。しかし朝の空気に溶け込む優しさがよく似ている。
「……不思議な味だ。でも、悪くない」
「でしょう? たんぽぽってね、踏まれてもコンクリートの隙間からでも、根を張って花を咲かせるんです。だからこれを飲むと私、なんだか少し、強くなれる気がするんですよ」
薫の言葉がさりげなく誠治の胸に染みていった。
強いカフェインで無理やり目を覚ますのではなく、体を内側から温めてゆっくりと太陽の存在を教えてくれる。それはまるで若い頃の激しい恋と、今の自分たちが求めている穏やかな温もりに似ている気がした。
「強くなれる、か」
誠治は呟いた。夢の中で純子に届かない自分は、無力で孤独だった。けれど目の前には、こうしてそっと体を気遣ってくれる人がいる。
「薫さん」
「なぁに?」
「このたんぽぽコーヒー、また時々、飲ませてもらえるかな」
ここにはいなかったはずの純子の面影が、仄かな香りと共に揺らめいている。思い出が今に根を張り、未来と混じっていくのを感じていた。
薫は目尻に皺を寄せて柔らかく笑った。
「ええ、もちろんです。在庫、たくさん仕入れておきますね」
カップに残った最後の一口を飲み干す。
喉の奥に残るほろ苦さは亡き妻を思う切なさに似ていた。その寂しくも温かな余韻の向こう側に、予感めいた灯りが見える。
ろくでもない夢を見たよ、純子。だが夢は夢だ。たんぽぽコーヒーというものを飲ませてもらった。なかなか悪くない。
君と一緒に味わいたかった。
『カフカ』を出ると、空はすでに明るくなっている。
今日の散歩はもう少しだけ足を延ばしてみようか。ほど良く疲れてしまえば、夜はそれなりの夢を見てぐっすり眠れることだろう。
誠治は軽く息を吸い込み、新しい朝へと踏み出した。




