第二話 条約型駆逐艦
タイ海軍スループ艦メクロンと、その基となる松型駆逐艦が生まれた経緯について説明します。
■昭和五年(1930年)
ロンドン イギリス議会議事堂
チャン島沖海戦から遡ることおよそ10年前、ロンドン海軍軍縮会議では補助艦の制限についての議論が行われていた。
ワシントン海軍軍縮条約で主力艦の対米英比率を6割に抑え込まれていた日本海軍は、補助艦については何としても7割とすることを強硬に主張していた。
このため交渉はなかなか纏まらず会議は長期化してしまう。時は世界恐慌の真っ只中である。さっさと条約を締結し財政を改善したいアメリカは日本に対して譲歩案を提案してきた。
「日本の補助艦の比率7割以上を認よう」
「なに!?それは本当か!?」
「ただし条件がある」
「その条件とは?」
「代わりに駆逐艦の性能に制限をかけたい。もちろん我々も同じ条件を受け入れる用意がある」
「具体的には?」
「基準排水量で1300トン超、速力28ノット超の駆逐艦は保有しないものとする。現在保有する駆逐艦でこれに該当するものは改装または廃棄とする。この条件ならば米英は日本の比率7割以上を受け入れよう」
実は米英は日本の特型駆逐艦に脅威を覚えており、その脅威を取り除けるならば7割でも8割でも受けいれるつもりだった。
それにそもそもアメリカは駆逐艦より巡洋艦を重視している上に、大量の古い平甲板型駆逐艦をさっさと転用か廃棄するつもりだった。イギリスも植民地警護のため速力より居住性と航続距離を重視していた。
だいたい居住性最悪で武装てんこ盛り駆逐艦に頼って戦力をひっくり返そうという日本海軍の発想の方が、ちょっと頭がおかしいといえた。
ちなみに大型駆逐艦を心から愛するフランスと、その脅威に嫌々ながら付き合うしかないイタリアは、この条項については批准しなかった。
とにかく米英から7割を認めるという言質が取れたことで、日本側の交渉団は駆逐艦の性能制限くらいなら良いだろうと安易に妥協してしまった。
交渉の結果、最終的に日本の保有率は7.25割となりロンドン海軍軍縮条約はなんとか締結にこぎ着けた。
「どうだ!7割を超えたぞ!」
「ふざけるな!計画を滅茶苦茶にしやがって!」
交渉団は期待以上の成果だと胸を張ったが、特型駆逐艦で主力艦の比率差を補うつもりだった日本海軍は当然ながらこれに切れた。本当にブチ切れた。そして条約締結を「統帥権干犯」だとして強く非難した。
しかし条約はもう正式に締結されてしまっている。米英も条約に基づいて自国の駆逐艦の廃棄をはじめている。
仕方なく日本海軍も特型駆逐艦を建造中のものも含めてすべて泣く泣く廃棄し、以後の建造計画も中止した。また、それ以前の古い駆逐艦も廃棄または改装を行った。
■条約型駆逐艦の誕生
圧倒的に不足することになった駆逐艦戦力を早急に補完するため、日本海軍は新たに「条約型」と呼ばれる駆逐艦を整備していくことになる。
これが「松」をタイプシップとする「松型駆逐艦」であった。
松型に求められた事は、とにかく「短い建造期間と低価格」、それだけだった。それ以外は一切求められなかった。
あまりに貧相な性能のため、一等駆逐艦にもかかわらず二等駆逐艦のような草木の名称がつけられている。このあたりにも日本海軍が松型にあまり期待していないことがよく分かる。
だが確かに性能的には見る所のない松型駆逐艦ではあったが、実は多数の新機軸が盛り込まれた意欲的な艦でもあった。
それはまず、その特徴的なデザインに現れていた。
優美な曲線を描いていた従来の駆逐艦と異なり、松型は艦首から艦尾にかけてほとんどの部分が直線のデザインとなっている。船体を構成する面もほとんどが平面だった。これにより工数が大幅に削減され建造期間の短縮を実現していた。
不格好にはなるが、これでも水槽実験の結果から従来の艦形に比べて抵抗の悪化は数パーセント程度に留まることが分かっている。
次に軽量化と工数削減のために溶接が全面的に採用されていた。この事が後に第四艦隊事件で大きな問題となるのだが、この時点では強度不足の問題は表面化していない。
機関には千鳥型水雷艇用に準備していたものが比較的製造が簡単なため、これを強化したものを採用している。
そして機関部はシフト配置とされた。欧米では生残性を高める目的で採用が増えているシフト配置であるが、日本艦としては初めての採用となる。
だが採用の理由は少々情けなかった。
急速建造で密に組まれたスケジュールの中で、機関と缶の納期にズレが出た際にも、左右の軸で別々に作業を進めて全体の工期への影響を最小にしようという苦肉の策である。
つまり生残性の確保など二の次の、実に弱小工業国家の日本らしい理由だった。
武装については、主砲としてこれまで日本駆逐艦の標準であった三年式12センチ45口径砲を高角砲化した十年式12センチ45口径高角砲が採用されている。
これは松型の主任務が水雷戦から艦隊護衛に変わったためだった。軍令部もこんな低速弱武装の駆逐艦を水雷戦に積極的に突っ込もうなどとは考えなかった。
それでも一応、松型も水雷攻撃が可能なように最低限の魚雷も装備されている。当初の計画では53センチ6連装発射管であったが、軍令部から「さすがに53センチでは万が一の時に弱すぎる」と物言いが付き61センチ4連装に変更されている。
設計が完了した松型駆逐艦は、建造期間わずか5カ月という驚異的なスピードで急速に整備が進められていった。
この後、松型は第四艦隊事件の対策を反映した改良型もふくめ太平洋戦争開戦までに50隻もの数が就役する。
その艦名と性能から「雑木林」と揶揄された松型駆逐艦であったが、次第に艦名に使う植物の名前に困った挙句、最後には難読漢字ばかり並ぶことになり後世の人間を困らせる事になるのは別の話である。
昭和十年(1935年)からは条約の失効を見越して松型の建造は終了となり、代わりに松型の武装・速度・航続距離をかつての特型並みに強化した「新特型」といわれる駆逐艦が建造され始めた。
しかし戦時中の駆逐艦の大量喪失により戦訓を取り入れた松型の改良型の建造が再開される。溶接の全面採用とブロック工法を取り入れ更に工期を短縮したこの改良型は終戦までに40隻が就役した。また、松型の経験と技術を生かした海防艦も200隻以上が建造された。
こうして松型駆逐艦は日本海軍を代表する「条約型駆逐艦」となった。日本海軍は終戦までに大量の駆逐艦を建造保有したが、そのほとんどが松型とその改良型で占められていた。
■新特型駆逐艦について
ちなみに松型に代わって、かつての特型駆逐艦に相当するものとして建造開始されたのが、「新特型駆逐艦」とよばれる暁型駆逐艦(三代目)である。
ただしこちらも早急に数を揃えることが優先されたため、その姿はかつての特型の様な優美なデザインではなく松型に準じた直線・平面構成となっている。
その基準排水量は2000トンを超え、かつての吹雪型に匹敵する武装も搭載している。ただし高角砲の主砲と機関のシフト配置は松型から継承されていた。
シフト配置に伴いボイラー数がかつての特型の3基から松型と同様に2基となり、新開発の高温高圧缶(蒸気圧力40キロ/平方センチ、蒸気温度400度)が採用されている。
この新特型駆逐艦は開戦までに各型合計30隻が建造され、開戦時の真珠湾攻撃にも参加している。
■タイ海軍 拡張計画
昭和九年(1934年)、タイ海軍はフランス領インドシナからの侵略に備えるため大規模な海軍拡張計画(シャム計画:Siam Project)を開始した。
これは、2隻の海防戦艦、2隻の巡洋艦、4隻の潜水艦、2隻のスループ艦、9隻の水雷艇の調達という、タイ海軍の規模としては非常に大規模な計画だった。
これらの調達は海軍先進国に対して入札が行われた。そしてスループ艦については当時大量に建造していた松型をベースとした計画を提案した日本がその圧倒的な安価と短納期で受注に成功した。
この計画案はほとんど松型と同じであったが、タイ海軍の要望によりいくつか変更が加えられている。
まず、水雷艇と共通化するため魚雷がイタリア製45センチ6連装に変更された。次に第一、第二煙突間にクレーンを設置し水上機1機を搭載可能としている。搭載する水上機には愛知航空機の九〇式一号水上偵察機を改良したものが採用された。
艦橋は指揮能力と見栄えを向上するため大型化された。第一煙突も同様に見栄え向上と、搭載機を煤煙と熱から守るため、わずかに高くされている。
最後に、艦首形状が松型の簡素な直線からわずかに曲線を取り入れた形状に変更され、そこにタイ王室のシンボルである大きなガルーダ像が取り付けられた。
この2隻は早くも昭和十一年(1936年)に完成する。盛大な式典とともにタイ海軍に納入された2隻はタイ国内を流れる川にちなんで、それぞれ「メクロン」、「ターチン」と命名された。
それから5年後、メクロンは仮想敵であるフランス極東艦隊とついに戦闘に突入したのであった。
【あとがき】
日本が特型駆逐艦を捨てるなんて事は絶対にないと思いますが、そういう話だと承知してくださいw
本作の松型駆逐艦は就役が10年早まっていますので、史実と装備がだいぶ違います。高角砲や機銃も一世代前ですし、電探も聴音機も装備してません。建造期間の短さと生残性だけが取り柄のショボショボ駆逐艦です。もちろん戦時中に生産された艦は史実とほぼ同じものになっています。
暁型はほぼ史実の朝潮型に相当しますが、主砲が高角砲になり、ボイラーが島風に搭載されたものと同じ高温高圧缶となっています。




