婚約破棄を言い渡したら「では最後に」と寝室に引き込まれてワッと泣かれまして
氷の騎士。
堅物騎士。
仮面騎士。
冷徹騎士。
決して良い意味を持たない四つの通り名。
その意味は――氷のように冷たく、一枚岩のように堅物で、仮面のように表情が変わらず、物事を冷静に見定めている。
と、いうことらしい。
大層な通り名だ。かつ、偏屈を思わせる通り名。
そんな四つ名をつけられた氷像がごとき人物が私の未来の旦那様だなんて、誰が信じよう。
「グレイ様」
邸宅にお邪魔したのは、招かれたからではない。
グレイ様は私が婚約者だからといって、用もなしにお茶に招いたりはしない。
凍てつくような瞳で振り返り、引結ばれた口が不機嫌さを見せる。
身長差がどうしたって威圧感を与えてくるのに、グレイ様が相手だとそんなことも関係ない。
怖気付いてはダメ。胸を張って、堂々と向き合って。
「お話がございます」
招かれもしていない邸宅に意を決してやってきた理由を、私は今日こそこの方に伝えるんだ。
❇︎
私の両親は、貴族には珍しい恋愛結婚だった。
王城で催されたダンスパーティーでお互いに一目惚れ、それぞれに婚約者もいなかったため、家同士の政略も何もなくトントン拍子で婚約。一年後にはすぐに結婚し、翌年には私が生まれている。
母がどれだけ父を愛してるのか、父がどれだけ母を愛してるのか。私はそれを毎日教えられて育った。
愛にあふれた空間は両親が作り出していて、そこはいつも私を受け入れてくれる居心地のいい場所。
父と母が愛し合って、同じ愛を私に向けてくれて、誰もが笑顔になる。そんな、目に見える幸せ。
結婚とは、幸せを詰め込んだ尊くて愛しいものなのだと、ずっと憧れていた。
――しかし。
時は流れて、デビュタントを終えてすぐのこと。
無情な宣告をしたのは、いつだって私の味方であるはずの父だった。
「イーリス。エヴァンス公爵家に嫁ごうね」
「はっ?」
家族でテーブルを囲んだ夕食の席。
給仕がいるにも関わらず母の皿のものを一口大にせっせと切っている父は、とても幸せそうに微笑んでいた。
「エヴァンス公爵家のグレイ公子だよ。知っているだろう?」
「えぇお父様、グレイ様は存じておりますわ」
エヴァンス公爵家は代々王家に仕える由緒正しいお家だ。
騎士の才に恵まれた家系であり、グレイ様のお兄様は第一王子殿下の近衛騎士に抜擢されている。グレイ様にしたって私よりも五つ年上なだけで騎士隊の小隊長を務めているのだから、とてもすごい人だ。
そんなすごい人と結婚ともなると、ご令嬢方は血眼でその権利を得たいと奮起しそうなものだけど、私にとっては嬉しくない話だった。
「お父様、なぜグレイ様なのですか?」
結婚は、恋愛結婚を望んでいた。
両親がそうだったからというのが大きい。でも、何より一番に望むのは穏やかで幸せな結婚生活だ。
両親は自由だったとはいえ、貴族令嬢の自覚はあるので私は政略結婚かもしれないと少しばかりの覚悟もしていた。もしそうなるなら、せめていいご縁をお父様に頼んで、精いっぱい旦那様を愛そうと思っていた。
なのに、不評な通り名が四つもあるグレイ様に嫁げ、だなんて。
「エヴァンス卿からの申し入れだよ。はいママ、あーん」
「家格が釣り合わないではないですか。うちはしがない伯爵家ですよ」
「そうはいっても、向こうからの希望だからね。ママ、美味しいかい?」
「なぜ私に? グレイ様にもエヴァンス公爵様にもお会いしたことなんてないのに」
「イーリスのデビュタントの場にいたよ。すぐに帰られたけど。ママ、もぐもぐほっぺが可愛いね」
「まさかグレイ様が望まれたわけではないでしょう? 女性に興味があるとは思えません」
「グレイ公子の異名はすごいもんなぁ。ママ、私にもあーんしてくれるかい?」
二人の世界の片手間に返事をされ、私はだんだんと苛立ちが募った。
いつも通りの食事風景、いつもなら微笑ましい両親だなぁと思うだけなのに。味方をしてくれるはずの父が笑顔で私をかわすから、疎外感を強く感じてしまう。
「お父様! 真面目に答えてください!」
「家格が違うからなぁ。パパからお断りはできないよ」
父は一切、私と目を合わさない。
だったら母だけはかばってくれるかと思いきや、あらあらと口には出さずに私たちを見ているだけだった。
母にはあんなに、幼い頃からずっと「パパとママみたいになりたい」と言っていたのに。いつか大好きな人と結婚するのと、夢を打ち明けていたのに。
「……お父様なんて嫌い!」
バンッとテーブルを叩いて立ち上がる。母だけは嫌いになれず、私はそのまま退出して自室に閉じこもった。
なんでグレイ様なの、なんで私の理想から一番遠い人なの。
ベッドに枕を何度も叩きつけて、悲しみと怒りをぶつけた。
「パパったら。本当のことを教えてあげたらいいのに」
「それを伝えるのはグレイ公子本人じゃないとなぁ」
「憎まれ役になっちゃったわね」
「こうして子離れするんだな、ママ」
「えらいわパパ。うまくいくといいわね」
「……うまくいかずに帰ってきてもいい」
「パパ?」
「嫌われたくないよ、ママ……」
そんな二人のやりとりがあったことを、しばらく経ってから母が教えてくれた。
❇︎
「イーリスと申します」
「……グレイだ」
初の顔合わせは街の上品なカフェを貸切にし、両家の両親も共にやってきた。
少しの歓談を済ませてお決まりの「じゃあ、あとは若い者だけで……」な流れになり、私は眉間に皺がよるのを必死に堪える。
退出際の父から送られた意味ありげな視線は「うまくやりなさい」とのことらしく、ため息が口の端から漏れた。
「グレイ様。お名前だけは存じておりましたが、こうして言葉を交わすのは初めてですね」
「……あぁ」
「騎士隊の小隊長を務めていると伺っております。そのお若さで大変に優秀だと」
「……あぁ」
「ご兄弟で出世なさって、エヴァンス家はさすが王家お抱えの家門です」
「……あぁ」
「今日は天気がいいですね」
「……あぁ」
ダメだ。お父様、ダメですこのお方。私に微塵も興味がありません。
通り名にそもそも良い印象がなく、目の前にしても納得の四つ名であるグレイ様。
意外だったのはその見た目だけで、騎士ながらにティーカップを口元に運ぶ姿は上流階級の貴族そのもの。艶のある銀の髪は細く繊細で、切れ長の瞳は鋭いのに優しいターコイズブルーだった。
何も知らなければ見惚れてしまうだろう美青年は、四つ名を知っているがために「あーこれかー」を私に印象づけていく。
反応は冷たく、柔らかさは一ミリも感じられない雰囲気で、表情はぴくりとも動かず、たまにこちらを見る瞳は私を精査しているよう。
今すぐこの場を締めて解散したい気持ちになった。
「グレイ様、お茶のおかわりをいただきますか?」
「……あぁ」
いるんかーい。
グレイ様にしても早く席を立ちたくてガブガブ飲んでいたのかと思ったのに、期待が外れてしまった。
店員に新しくお茶を用意してもらい、また身を締め上げられる時間が始まる。
「ここのお茶は美味しいですね」
「……あぁ」
「店内も落ち着いていて居心地がいいです」
「……あぁ」
いや、思ってないでしょ。
私はとても居心地が悪いです。
「そうだ、ここは庭園もあるとか。行ってみますか?」
「……あぁ」
しかし、途端に雨がざんざんと降り出した。
立ち上がりかけた私はやるせ無い気持ちで、静かにまた腰をおろした。
「雨ですね……」
「……あぁ」
「止みそうもないですね……」
「……あぁ」
まるで、私の気持ちのよう。
数日前まで幸せな結婚を夢見ていた私はふわふわと晴空の中にいたのに、突如現れた雨雲によって全てを灰色の中に包まれてしまった。
私なりにどうにかグレイ様と幸せな結婚生活をと、たったの数日でなんとか気持ちを前向きにしてきたというのに、グレイ様は四つ名に違わずこれだもの。
会話をする気も失せてしまった私は土砂降りの窓を眺めながら、そういえばと思い出したことをつぶやいた。
「新しい演劇が来週からあるのよね。観に行きたいなー……」
「ほう」
雨音が私たち二人の気まずい世界を支配する中、負けじと力強い声が相槌を打つ。
視線を戻せば、ようやく「あぁ」以外の言葉を発したグレイ様と目が合った。
❇︎
なにがなんだかわからないままに観劇の約束をした、当日。
雨には見舞われず、グレイ様の「持ち合わせていたんだ」という好意に甘えて馬車で迎えにきたもらった。
グレイ様のお迎えにより父は感動していたが、私は「???」な表情を隠せずエスコートされる。母がにこやかに手を振り、私は「???」のままで手を振り返した。グレイ様は無言だった。
馬車は寄り道をせずに演劇場まで私たちを届けてくれ、案内されるままにカップルシートに座った。
貴族御用達だという席はこれまたグレイ様が用意してくれたものだけど、本当に意味がわからない。馬車の無言向かい合わせも地獄だったが、密着必須の狭いシートはもっと地獄かもしれない。触れてる部分が温いんですけど。
そうこうしているうちに待ちに待った演劇が始まり、私はようやく無言どうしよ? なんか喋ったほうがいい? な気遣いから解放された。
体の片側はグレイ様の体温を感じて落ち着かないけど、ここは無理矢理にでも演劇に集中したほうが地獄が和らぐ。
私は前のめりになって役者の動きを追い、セリフで頭をいっぱいにした。世界観に全力で浸りにいって、グレイ様の存在を掻き消した。
そうして終幕の時には、私はぼろぼろと涙を流していた。
苦境のヒロインが結ばれるはずのないヒーローとの恋に悩み、苦しみに打ちひしがれ、ようやく決意して困難に立ち向かって幸せを掴むという王道ラブストーリー。 私が目指している幸せとは道筋が違うけれど、それでも掴みたいものは同じ幸せ。
手を取り合った二人に感情移入しすぎたせいで、演劇だというのに「いいなぁ」と素直に思ってしまった。
もしかしたら、万に一つでも、星が地上に落ちるくらいに奇跡的なことかもしれないけれど、グレイ様とそんな幸せを迎える日がくるかもしれない。
涙をハンカチで拭ってちらりと隣を見れば、同じように涙を流すグレイ様が……
「帰ろう」
いなかった。演劇一つ観たとは思えないほどの変わりようのなさ。無。
スンッと冷めた私は「はい」と頷いて、寄り道せずにまっすぐ屋敷へ送ってもらった。
グレイ様とはその後もそんな感じで、なぜかわからないけれど約束は毎週あって、途切れることなく地獄の逢瀬が続いた。
その度に幸せな結婚を諦めきれない乙女な私が期待を寄せてちょっこり顔を出すけれど、淡さすら残さず無情に押し込められる。
乙女な私は、どんどん萎れていった。
「なんで私なのかなー……」
自室でゆったりとした部屋着に着替えて、クッションを抱きながら本日の地獄巡りを振り返る。
顔合わせの時に使ったカフェで庭園リベンジをし、図書館へ行ってそれぞれの時間を過ごし、街を少し歩いて解散。
私はいつしか無言に慣れてしまい、返事も期待していないので一人で喋っている状態だ。いや、相槌は律儀にしてくれるけど「あぁ」だけなので。
「私の必要、ある?」
この婚約話はエヴァンス家からだと父は言っていた。
エヴァンス家からということは、グレイ様のお父上であるエヴァンス公爵様から。グレイ様からの線も考えてはみたけれど、なにせ私に興味がなさすぎて「違うな」に至った。それは、直接聞いてみた結果でもある。
「私との婚約は、グレイ様からの提案ですか?」
「……」
「はーい」
グレイ様は白。エヴァンス公爵様が黒。
そこにどんな理由があるのか、私はいまだに掴めずにいる。
「家格の見合わない私である意味ってなにー」
もう、わからない。本当にわからない。
私の目指すほんわか愛のあふれる幸せな結婚もこれまでのグレイ様を見ていて叶わないことがわかったし、婚約の謎が解けたところで私のメリットがない。私に興味のないグレイ様にだって、当然あるはずがない。
「いっそ破棄してくれたらいいのに……」
グレイ様がいえば、公爵様だって認めてくれるだろうに。
「婚約を僻んだ嫌がらせもなかったしなぁ……」
グレイ様の持つ四つ名のせいで。
見目こそ麗しい貴公子は、剣の腕も確かでとんでもない玉の輿なのに令嬢人気が底どころかマイナスだった。
遠目でいいの……という令嬢はいるが、一歩でも前に出てしまうと一人最前列に立ってしまうことになる。遠目を望んで淑やかなわけでなく、一致団結で前に出ないようにしていた。なぜなら、目をつけられたくないから。
ちょっとグレイ様がかわいそうだなとも思ったが、四つ名は真実なので仕方なかった。
騎士団の稽古では誰よりも厳しく頑固で、最初はただの「鬼」と呼ばれていただけだったらしい。
しかし、冷静な人を探る目は令嬢にも容赦なく発揮され、愛想笑いもなく寄ってきた女性を「興味がない」「鬱陶しい」「つきまとわないでくれ」と一刀両断したのだとか。そこからだんだんと増えていったのが、今の通り名である。
「うぅ。私、やっていけるのかなぁ」
政略結婚でも、無関心ならまだマシな気がする。
今のところはグレイ様に突き放される言葉を吐かれていないが、結婚後はわからない。婚約中は控えろと、公爵様に言い含められてるのかもしれない。
「……もう、私から婚約破棄しちゃおうかな」
グレイ様だって私に興味ないし、私が言い出しちゃえば二つ返事で了承してくれそうだ。
「そうだよ、婚約破棄しよう」
そんな思い立ちから、実際にはずいぶんと悩んだ結果だけれど、翌日にはまた会う約束を取り付けた。
❇︎
「お話がございます」
凍てつく瞳を向けるグレイ様にそう告げると、グレイ様はその場で足を止めて私に向き直った。
「なんだ」
「ここでは、少し。お部屋でお話ししたく」
「人目があると言えないことか」
かしこまった場を想定していたのに、勢いあまったせいで私のタイミングがおかしくなってしまった。落ち着け落ち着け。
とはいえ人目に関しては私はどうでもよく、それよりもやけにグレイ様が饒舌なのが気になった。
「えっと、私は構わないのですが」
「ならばこの場で話せ」
「わかりました。婚約破棄してください」
「…………」
出迎えてくれた使用人たちが、静かに静かにざわついていく。声は誰一人として発していないのに。
雰囲気がどよめいているのを、私は肌で感じ取った。グレイ様は相変わらず表情を変えず、鋭い瞳で私を見据えた。
「……では最後に。来い」
いつもはエスコートしてくれる剣ダコのある手が私の腕を掴み、戸惑う私を足早に引っ張った。
後ろで年嵩の執事の「おいたわしや。おいたわしや」という嘆きが聞こえてくる。
長い廊下を突き当たりまで歩かされ、グレイ様の自室らしき扉が開かれて私は押し込まれた。背後で扉の閉まる音が静寂に響く。
「……グレイ様?」
上品にあつらえた室内は、必要な家具だけが揃えられたグレイ様らしいシンプルなもの。可愛らしさを基調とした私の部屋とは大違いだ。
色味も落ち着いていてシックで、シンプルがゆえに大きなベッドは嫌でも目に入ってきてしまう。寝室だなぁとわかってしまう存在感に、私は息を呑んだ。
これ、大丈夫よね? 最後にって、意味を理解できずにいるんだけれど、大丈夫よね? 押し倒されたりしないよね?
掴まれた腕はそのままに恐る恐るグレイ様を窺うと、眉間に皺を深く刻んでぎゅっと唇を噛み締めていた。
「グ、グレイ様っ?」
驚いた私に、グレイ様は――ワッと涙を落として泣き出してしまった。
「さ、最後だから、君にちゃんと、想いを伝えたくてっ……」
ぼろぼろと大粒の涙がターコイズブルーの瞳から落ちていく。きっとすごく綺麗な光景なのに、私の頭の中はそれどころじゃなく大混乱だった。
「君が……君に、一目惚れだったんだ、イーリス」
「……えっ?」
「君のことが、好き、なんだ」
好き? 君が? 誰を? 私? はっ?
…………一目惚れ????
「そんなの微塵も感じられませんでしたよ!?」
グレイ様が私に一目惚れ!? いつ!? デビュタントで!? うそでしょ、そんな素振りいつあったの!?
言葉が出ずに口をはくはくさせている私と、ぐすぐすと泣き止むことをしないグレイ様。
今この状況は一体なんなんだと混乱する頭で考えていると、扉の向こうから執事の声が聞こえてきた。
「おいたわしや、坊っちゃま。この爺、坊っちゃまのお気持ちに共に悲しみを感じております」
執事のそんな囁きに、グレイ様は「うぅっ……!」と苦しそうに声を上げた。
「坊っちゃまは元より口下手な男の子。素直に思ったままを相手にぶつけてしまい、傷つけてしまうこともしばしばありました」
急に執事の昔語りが始まった。
グレイ様は感極まっているようだけど、私は一向にこの状況が理解できずにいる。
「それ以後、坊っちゃまは相手を深く観察するようになりました。相手を傷つけないようにです。そのせいで仮面だと言われてもです」
グレイ様にそんな過去があったんだなーと上辺で思いながら、私は状況の整理を始めた。
「坊っちゃまは優しい子です。口下手なだけの、そしてちょっと気弱な、素直ないい子です。おいたわしや、あぁ坊っちゃま、おいたわしや」
つまり、グレイ様は最初から私が好きで?
不評の四つ名は過去の出来事を繰り返さないようにした結果の産物で?
私が婚約破棄するって言ったから、最後に本音を曝け出してきたってこと?
不器用すぎない?
「グレイ様、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか? グレイ様のお気持ちがわかっていれば、私だってこんなことは」
「君の両親には、伝えてある……」
父ィ……!
全部知ってたのね。お父様なんて大嫌いだわ!
「グレイ様、それでも私はあなたから直接聞きませんと。気持ちは伝わらないですよ」
「君に、嫌われたくなかった……っ」
涙をためて、唇を尖らせたグレイ様が私を上目遣いに睨みつける。私より大きな方がそんなふうになってしまうなんて、なんだかドキッとしてしまう。
「俺は、この通り、世間からよく思われていない……君に伝えるのが、こわかった」
また泣き出してしまいそうな顔を、グレイ様は私の肩に落として隠した。
「イーリス、最後だから言わせてくれ。好きだ、好きだ……」
触れる髪が近くて、心臓の跳ねる音が私にまで聞こえてくる。
あれだけ素っ気なかった人が本音を曝け出すとこんなになってしまうだなんて、ねぇ、私どうしたらいいの?
「おいたわしやぁ……っ」
爺うるさいな!
私がグレイ様を泣かせた悪いやつみたいじゃないの!
「……もう! だから、グレイ様の気持ちがわかっていればこんなことにはならなかったんですよ!」
ぐっと胸を押して、下から泣き顔のグレイ様を覗き込む。いつもは几帳面に整えられた前髪がくしゃっと無造作に跳ねて、鼻が赤くて、ちょっと可愛く見えてくる。
「私の夢は、幸せな結婚生活を送ること。仲睦まじい両親をずっと見てきてそう思ったんです」
「幸せな、結婚……」
「グレイ様は私に興味がなさそうだから無理だと思って婚約破棄を申し出たのです。でも、そうでないなら」
泣きすぎて熱を持った頬を包み込む。
指先でこぼれ落ちる寸前の涙を拭って、私は泣き虫に言い聞かせるように瞳を覗き込む。
「私をそんなに好いてくれてるのなら、その夢は叶うと思うんです」
グレイ様が私の両手に手を添える。
涙でにじんだ瞳に、小さく光が灯った気がした。
私を睨みつけるでなく見つめるグレイ様に、この距離感に恥ずかしさを覚えた私は扉に向けて声を張る。
「でしょ!? 爺、あなたもなんとか言ってあげて!」
「痴話ゲンカを収める魔法はチッスですぞ〜」
「もういいわ黙って!」
今の状況で一番いらないことを!
とっさにグレイ様の頬から手を離そうとするが、あっさり捕まってまた引き寄せられた。手のひらが唇に寄せられ、柔らかな感触に驚いた。
「……グレイ様? 本気にしてます?」
手を引こうにも力が強く、いつしかもう片方の腕は腰に回されて。ぐっと引き寄せられれば、すぐそこにグレイ様の唇がある。
「そうではない、が。……君が、許してくれるなら」
「……断ったらまた泣きます?」
「泣く。泣くから、断らないでくれ」
そんな情けない口説き文句で私の退路は絶たれ、ゆっくりと触れるお互いの熱。
伏せた視線を気恥ずかしく少しずつあげれば、透き通るターコイズブルーが私を絡め取って。
「顔が、緩んでしまう……」
仮面が取れた一瞬を私に見せて、強く抱きすくめられた。先ほどよりもグレイ様の鼓動が大きく振動している。
「――グレイ様。これから、いろんなあなたを見せてください。みんなが知らないあなたを、私だけに見せてくださいね」
広い背中に腕を回せば、グレイ様は威厳のないへにゃりとした声でつぶやいた。
「きっと、腑抜けだ」
「構いません」
自然と笑みがこぼれる。
四つ名で武装した本性がこれなら、私もあっという間にこの人を愛せるだろう。
恐ろしく不器用な愛は、これから素直に言葉に出していってもらえばいい。拗れて泣き出す前に、抱きしめて私も愛を伝えればいい。
「好きだ、イーリス」
世間は恐れるあなたの元で。
私は私なりの、幸せな愛を見つけていく――。
「坊っちゃま、お上手なチッスでした」
爺が本当にうるさいわ。
ちなみに、エヴァンス家は自由恋愛。
デビュタントで年下に恋したグレイは「年下に!? 俺が!?」となりつつも恋してしまったのは仕方ないので、公爵(父)を仇敵のごとく睨みつけて(恥ずかしかった)恋心を打ち明けた。
堅物息子が恋をしたことに喜んだ公爵はうっきうきでイーリスパパに婚約を申し込みに行った。イーリスパパも良縁にうっきうきで承諾した。おしまい。