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009_妖精の心

 メルヴィナ・リッシュラードが豚王子を見捨て、エルセロア王子に付いたという話はたちまちのうちに貴族たちの間に広まり、城内はその話題で持ち切りとなりました。


「きっと初めからそれが目的だったのよ。なんて品の無い方なのかしら」


「エルセロア殿下も殿下だわ。あんな尻軽女を婚約者にしてしまうなんて……」


 令嬢たちは自分がエルセロア王子に選ばれなかった腹いせにシスフィナを批判し。


「おかしいと思ったんだ、あんな才女が豚王子なんか選ぶはずがないからな」


「まずは敵としてまみえて能力を見せ、本命のエルセロア殿下に自分を高く売る……か。やはりメルヴィナ様はとてつもない才覚をお持ちの方だな」


 城に仕える者たちは今までの疑問が全て氷塊するかのように納得し。


「そんな……それじゃあ次期国王はエルセロア殿下で決まりってこと……? 今から第二王子派に乗り換えなくてはならないなんて……!」


「親族があちらについてる家はまだ良い方さ。第二王子派に伝手の無い家は、最悪この件で取り潰される。メルヴィナ・リッシュラードは本当にとんでもないことをしてくれた……」


 第一王子派に与していた者たちは、派閥争いに敗北したことを察知して今後の身の振り方に頭を悩ませていました。


 そうして瞬く間に日時は過ぎ去り、ヴィクス王子が王都から去る日。城中では何かと不穏な空気が漂い、城内を歩くエリナも奇異の目に晒され居心地の悪さを感じていました。


 しかしそんなことが些細に思えるほど、今エリナはもっと重大な問題に頭を悩ませていたのです。それは――


「今日の紅茶はハリラの茶葉を使ってみたのですが、如何ですかお嬢様」


「ええ、そうね」


「ハリラの茶葉は鬱屈とした気分を晴れやかにする効能があるそうです。ゆったり香りを楽しむのが良いらしいですよ」


「ええ、そうね」


「そういえば最近、中庭の花が咲いたと耳にしました。明日にでも歩いてみてはいかがですか?」


「ええ、そうね」


「……」


 重症だ。エリナはまた頭を抱えました。


 一昨日の一件でヴィクス王子との婚約破棄が決まってからというもの、シスフィナはずっとこの調子です。


 泣くでもなく、怒るでもなく、ただこの世の全ての物事から興味が消え失せてしまったかのように、窓の外をじっと見つめたまま王子からプレゼントされた小物入れを手にして、エリナの問いかけに「ええ、そうね」と返すだけの人形になってしまったのです。


 ここまで消沈するシスフィナを見たのはエリナも初めてのことで、どうすれば良いのかさっぱりわかりません。


 何より、それだけシスフィナの中でヴィクス王子の存在が大きくなっていることがエリナにとっては衝撃でした。


 しかし、このままではシスフィナがこれまで励んでいた国盗りにさえ支障が出かねません。これ以上、このままにするわけにはいかないと、エリナは心を鬼にしました。


「お嬢様。もう過去に縋るのはおやめください。やるべきことはいくらでもあるのですよ」


「ええ、そうね」


 相変わらず反応の薄いシスフィナを無視して、エリナは彼女の手に握られた小物入れを取り上げました。


 今まで何をしても反応しなかったシスフィナが驚きの表情でエリナを見上げましたが、エリナは構わずその小物入れを窓の外に投げ捨てようとして――


「やめて!!」


 ――シスフィナの悲鳴のような叫び声で、その手を止めました。


「……お願い、やめて……」


 今まで見たことないようなしおらしい彼女の態度に、エリナはまた溜息を付きます。その姿はまるで普通の少女のようで、心なき怪物シスフィナ・オルヴィルスとは到底似つかない姿だったのです。


「……だから言ったではありませんか。国か王子か、どちらかを選ぶ覚悟をしておけと。お嬢様はあの時仰いました。迷いなく国を選ぶ、と。そしてその通りの結果になりました。これ以上、何が不満なのです?」


「……わかっているわ」


「わかっていません。わかっているならば、何も迷う必要はないでしょう? エルセロア王子と婚約が決まったおかげで、大手を振って国母の座に腰かけることが出来るのですから。後はゆっくりとこの国を手にすればいいだけ。なのに何を拗ねているのです」


「それ……は……」


 肩を落とすシスフィナに、小物入れを握らせたエリナは続けました。


「……お嬢様は迷っておられるのでしょう? やりたいこととやるべきこと、二つの道が目の前に現れてしまったから」


「エリナ……?」


「人間は、何もかも理屈だけでは割り切れないんですよ。今のお嬢様のように、選ぶべき道と選びたい道が分かれる時が必ず来るのです。だから人は迷い、悩むのです。お嬢様はようやく、人の心を手にされたんです」


「人の……心……」


 それはシスフィナが今まで全く理解できず、非効率的だと切り捨ててきた物でした。それがようやくシスフィナも手に入れたのだと、エリナは告げます。


「きっと今、お嬢様はこう考えておいでなのでしょう? ヴィクス王子を追いかけたいけれどあんなことを言ってしまった手前、拒絶されるのが怖い。国盗りをやめてしまえば、今までの人生が全て無駄になるのが怖い。そして何より、この先が見えなくなってしまうのが怖い、と。


 でも、人はそうしていくつもの選択肢の中から、自分が後悔しない道を選び続けることでしか進めないんです。あなたのように迷いなく、何もかも切り捨てることなんて出来ないんです。でもそれが人間なんです。


 選ぶべき道と、選びたい道。二つの道は既に示されました。後はあなたが最初の一歩を踏み出す勇気を持つだけです。きっとあの日、その小物入れを渡した王子もそうだったはずです。今度はお嬢様が、その勇気を持つべき時ではありませんか?」


「勇気……」


 シスフィナは両手で握りしめたボロボロの小物入れに視線を落としました。それはきっとエリナの言うように、ヴィクス王子の勇気の形だったのでしょう。


「お嬢様はもう、人の心を持たない怪物ではありません。愛を知り、心を得て、人間になったのです。後は選ぶだけ。心を捨ててもう一度怪物に戻り、今度こそ望みを叶えに行くか。それとも望みを捨てて、人間として愛する人を追いかけるか」


「わたし……は……」


「お嬢様。人は例え何かを為せずとも、幸せになることが出来るんです。その心が、満たされてさえいるのなら」


「わたしの……心は……!」





「王子。荷物の積み込みが完了いたしました。そろそろ……」


「……そうだね、そろそろ行こうか」


 従者グイストに声をかけられ、城門の前で城をじっと見つめていたヴィクス王子は、ゆっくりとその視線を城から外しました。


 彼が振り返ると、そこには最低限の荷物を詰め込んだ馬車と、これから向かう先にたった一人だけ付いて来ることを表明した年老いた従者の姿だけ。王位争いに負けた敗者の旅立ちは、とても寂しいものでした。


「しかし、まさかメルヴィナ嬢の本性があのような悪女だとは……申し訳ありません殿下。このグイスト、全く見抜くことができませんでした」


 ことの顛末を聞かされたグイストは、苦々しく表情を歪めて毒づきます。メルヴィナの正体がシスフィナであったことは伏せられていましたが、彼女がヴィクス王子を騙していたことは城中の誰もが知るところとなっていたのです。


 しかし、弟に城を追われ、婚約者に裏切られたヴィクス王子を嗤う者は居ても、同情する者は殆どいませんでした。


 今更豚王子に与しようという奇特な者は、身内以外に誰も居なかったのです。


 だというのに、ヴィクス王子の瞳からは未だ光が消えていませんでした。グイストの言葉に静かに首を横に振った彼は、小さく呟きます。


「……それは違うよグイスト。彼女は……メルヴィナは、僕を守ってくれたんだ」


 それは、あまりに意外な言葉でした。


「守る? しかしあの者は……!」


 まさかまだあの女を想っているのかと憤慨するグイストを、ヴィクス王子は手で制して続けます。


「彼女はあの時、あえて僕を突き放したんだ。僕に何の価値もないことを大々的に広めて、僕を守ってくれた。もしあそこで彼女が僕を突き放さなかったら、きっとエルセロアは僕を人質にして、メルヴィナに言うことを聞かせたはずだ」


「まさか……!」


「そして何より、僕は今回の一件を言い訳に、自領に退くことができるようになった。王都ではいつ、誰から襲われるかもわからなかったけれど、これで味方しか居ないザルトバランに引き上げられる。彼女は僕が安全な場所に逃げるための口実をくれたんだ……」


「しかし、それは王子の……」


「もし僕を見限るだけなら、あんな突き放す言い方はしなくていいんだよ。賢い彼女ならそれがわかっていたはずだ。本当に彼女が僕のことを何とも思っていないなら、僕の身がどうなろうと知ったことじゃないはずだからね」


 グイストは言葉を失いました。もしそうだとしたなら、メルヴィナは王子を守るため、たった一人でこの城に残ったということだからです。


 ヴィクス王子を利用し、結婚式目前でエルセロア王子に乗り換えた、最低最悪の悪女という醜聞をもその身に被ってまで。


 彼女の本心は、きっとその行動こそにあるのでした。


「……最後まで、僕を守るために戦ってくれたんだ。全部、全部僕のために……」


 ……彼女の正体を聞かされたあの時、ヴィクス王子は愕然としました。シスフィナの言葉にではありません。彼女にそこまで言わせないと、己の身一つ守れない自分のあまりの弱さにです。


 王子にはわかっていたのです。彼女の数々の辛辣な言葉たちが、全ては自分を守るための偽りの盾であることを。


 そしてだからこそ、シスフィナの言葉に胸を締め付けられました。己の弱さゆえに、愛する人にそんな真似をさせてしまった、そのあまりの情けなさに。


 王子は気付きました。自分は守られていたのだと。狡猾な仮面を被った華奢な腕の少女によって、非力な自分はいつも守られていたのだと。


 そして同時に、そんな自分が彼女と一緒に居続けては、また彼女を苦しめてしまうことに。


 だから王子は決断したのでした。彼女のそばを離れ、彼女の幸せを願い、そしてもっと強くなることを。


「僕はもう、彼女の傍には居られない。彼女の隣に立つには、僕はあまりに弱すぎる。今まで逃げ続けてきたツケを払う時が来たんだ。今ほど己の無力を無念に思ったことはないよ」


「ヴィクス王子……」


「誰もが僕の後ろに王位を見ていたけど、彼女だけは僕自身を見てくれていた。なのに僕には、そんな彼女を守る力すら無かったんだ……それがあまりに悔しくて……情けなかった」


 震える拳をぎゅっと握りしめ、王子はただ一人の従者に思いの丈を吐露します。それは決して、想い人に届くことのない王子の決意の形でした。


「僕は強くならなくちゃならないんだ。もっともっと強くなって、せめて遠くからでも彼女を守れるくらいに。それが僕を守ってくれた彼女に対する、せめてもの誠意なんだ」


 決意する王子の姿が、グイストには今までとは違う意味で、一回り大きくなったような気がしました。


「……強くなられましたな」


 王子は小さく笑うと、それから馬車に乗り込みます。


 もう彼の瞳に迷いの色はありません。やるべきことがはっきりとわかっていたからです。


 グイストが馬の手綱を握り、馬車を走らせる準備が整いました。見送る者は誰も居ません。がらんとした城門で、王子は最後にもう一度だけ振り返ります。


「さようなら、シスフィナ。僕の――」


 ……しかし、その時でした。


「なっ、何者だ!?」


 外でグイストが叫ぶと同時、馬車の扉が勢いよく開いて、何者かが王子へと飛び掛かって来たのです。


 ――まさか、暗殺……!


 このタイミングで襲われるとは思っていなかった王子は、完全に無防備になっていました。味方が誰も居ない今の状況は、暗殺するには最高のタイミング。恐らくは第二王子派の誰かの差し金なのでしょう。


 しかし、王子はもはや、抵抗すらしませんでした。


 ――ああ、そうか。これが報いか。


 黒いローブが翻り、狭い馬車の中、現れた人影がヴィクス王子に襲い掛かります。王子はただ、その光景を受け入れるだけでした。


 それは己の罪。逃げ続けた結果の惨状に違いなかったからです。


 ただ、唯一の心残りは。あの美しい金の髪をもう一度だけこの手で撫でて、彼女の声が聞きたいと――


「殿下!」


 ――グイストの声と共に、ドン、と衝撃が体を駆け巡り、その痛みにヴィクス王子は顔を歪めました。ローブをまとった何者かはヴィクス王子の胸に飛び込み、そのまま動きません。


「……?」


 しかしおかしいのは、その胸にナイフが突き立てられたわけでも無ければ、それ以上の何かがある訳でもないことです。暗殺に来たにしては随分と悠長なその人物を見て、やがてヴィクス王子は目を丸くしました。


「……まさか……メルヴィナ……かい?」


 それは、夢にまで見た金の髪の少女でした。


 涙を湛えた瞳でローブの下からヴィクス王子を見つめる彼女は、今まで見たことがないほどに弱々しく言葉を紡ぎます。


「ごめんなさい、ごめんなさい殿下……! わたくし、わたくしは、あなたを……!」


 罪の意識に押しつぶされそうになりながら、それでも必死に言葉を紡ぐ彼女の姿に、ヴィクス王子の胸にはどうしようもない思いが溢れて来てしまいました。


「良いんだ、わかってる。全部僕のためだったんだろう? 君の気持ちは痛いほど伝わっている。だからこそだ。だからこそ、なぜ追ってきてしまったんだメルヴィナ。君はこのまま――」


「わたくしは、わたくしの望みは、あなたの傍に居て初めて叶えられるものだと気付いたのです。あなたが隣に居なくては、何を手にしても意味がないのです。わたくしは……あなたの傍に居たいのです、殿下……!」


 それは愛の言葉でした。今まで一度も――そう、一度も彼女が口にしてくれなかった、想いを伝える言葉だったのです。


 この場にはヴィクス王子とシスフィナしか居ません。取り繕う必要はもう、どこにもないのです。


「……シスフィナ……」


 ヴィクス王子は、彼女の本当の名前を口にしました。


 名前と心を偽っていた彼女は、涙をこぼしながら必死に言葉を紡ぎます。


「あなたを利用したのは事実です。あなたを騙したのも、国を掠め取ろうとしたのも全部事実です。わたくしは大罪人なのです。でも……それでもわたくしは、あなたの傍に居たいのです……!」


 悲痛なほどの彼女の叫び。その身一つで自分を守ってくれた彼女の想いがヴィクス王子の胸に溢れてくるようでした。


「僕なんかで……良いのかい?」


「あなたが良いんです。あなたでなきゃダメなんです。わたくしに心を与えて人間にしてくださったあなただからこそ、わたくしは一緒に居たいのです」


「……きっと大変な道のりになるよ。君も、僕も、後悔するときがくるかもしれない。それでもいいんだね?」


「わたくしは幸せになりたくてここに居るのではないのです。わたくしは……例えこの先に地獄が待っていても、あなたと一緒に……居たいのです……」


 不安げに見上げる二つの瞳がどうしようもないほど愛しくなって、ヴィクス王子は彼女を強く抱きしめました。


「シスフィナ……僕も同じだ。君を守れる力を付けるまで一緒に居られないなんて思っていたけど……あんなのは嘘だ。本当は君とずっとに一緒に居たいんだ。僕に国はあげられないけれど、君と一緒に生きていきたい……」


「ヴィクス殿下……」


「一緒に生きよう、二人で。ずっと」


「はい……!」


 シスフィナはヴィクス王子を抱き返し、二人は強く抱きしめ合いました。まるでお互いの体温を確かめ合うように。互いの存在を確認するように。


 やがてシスフィナとヴィクス王子、二人を乗せた馬車は静かに走り始めました。目指すはザルトバラン領。この国の最西端の地です。


「でも……本当に良いのかい、シスフィナ? 多分、ここにはもう戻れないよ」


 ヴィクス王子の胸元から顔を上げたシスフィナは、柔らかく、そして美しい微笑みを見せて言いました。


「住めば都と申します。殿下と一緒なら、どこでもきっと幸せですわ。それに――」

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