008_狂気の信念
それは、王子とシスフィナの結婚が間近に迫ったとある日のことでした。
「陛下から招集? 一体何事かしら」
城の兵から知らせを受けたシスフィナは首を捻ります。陛下――つまりこの国の国王であり、ヴィクス王子とエルセロア王子の父に当たるジルド・モスティス王から突然の招集命令が下されたからです。
ジルド王とは以前、ヴィクス王子の婚約者として遠目から二言三言交わした程度の関わりでしたが、その時はもう長くなさそうに見えたのをよく覚えています。
病に蝕まれ、今では体を起こすのもやっとという王の病態こそ、王子たちの派閥争いに拍車をかける原因の一つになっているのです。
そんな、いつ王冠が地に伏してもおかしくない状況での招集となれば、ただ事でないことは容易に想像がつきました。
怪しく思いながらもシスフィナはヴィクス王子と連れ立って、謁見の間に足を踏み入れました。
「陛下、ヴィクス・ザルート・モスティス、お呼びに預かり参上いたしました」
「同じくメルヴィナ・リッシュラード、参上いたしました」
謁見の間には既に、数名の大臣とエルセロア王子、そして玉座に腰かけるジルド王の姿がありました。
土気色の肌をしてまるで死人が辛うじて動いているような姿のジルド王は、もう先が長くはなさそうです。彼は二人が頭を下げると、弱々しく口を開きます。
「ああ、ご苦労……久方ぶりだな、ヴィクス。近頃はよく外に出ていると……ゴホッ、ゴホッゴホッ!」
「父上、ご無理をなさらず」
玉座の横に控えていたエルセロア王子がすぐさまジルド王の体を支えようとしましたが、王は咳をしながらも王子に手を振って見せました。
「この体も、いよいよ言うことを聞かぬようになってきたわ……しかし、だからこそ今、確かめねばならぬことがある……」
そして、病床の身でありながらも未だ衰えることのないジルド王の眼光は、まずはヴィクス王子を貫きました。シスフィナの視界の端で、王子が怯えるように肩を揺らします。
しかし、王の視線はその後、ゆっくりとシスフィナに向けられました。
「……メルヴィナ・リッシュラード嬢。そなたには深く感謝している。ヴィクスを外へ連れ出し、保守派の者たちをしっかりまとめていると聞いている……そなたが国母になってくれたなら、これほど心強いことはないだろう……」
「恐れ多きことです、陛下」
「だからこそ……ゴホッゴホッ! ……確認せねばならぬのだ……そなたの本性をな。ご客人、参られよ」
王が枯れ枝のような指を動かして手招きして見せると、左右に控えていた者たちの中から、一人の男が歩み出てきました。
ローブを目深に被ったその人物は、恐らく男だろうということしかわかりません。
一体誰なのだろうか、と怪しく思いながらローブ姿の人物の様子を伺っていると、王は静かに問いました。
「ご客人……如何かな」
するとローブの男は、ゆっくりと口を開きます。
「……やはりメルヴィナ・リッシュラードの正体は君だったか、シスフィナ・オルヴィルス」
それは、シスフィナの聞き覚えのある声でした。
「……まさか」
いいえ、聞き覚えなんてものではありません。忘れるはずもない、一度聞いただけで脳裏から蘇る、威風堂々とした、どこまでも通る低い声音。この力強い声の主は、世界広しと言えど一人しか居ません。
「三年ぶりだな。出来ればもう二度と、君と顔を合わせずに済むことを願っていたのだが……まさか院長まで抱き込んでいたとは。私はまだ、君をみくびっていたらしい」
ギュール・ラヴタール・ディーグラッツ。かつてシスフィナの婚約者だった人物であり、シスフィナが修道院へ追い込まれるに至った原因であり、そして数少ない、シスフィナの本性を知る男。
シスフィナがその生涯において唯一敗北を喫した宿敵が、いま目の前に立っていたのです。
「どうして……どうしてあなたが……!?」
「ことの発端は半年前だ……デーゲンブラム男爵令嬢が、とある人物を保護した。その人物は事故に遭い長らく目を覚まさなかったが、ついひと月ほど前に目覚めたのだ。彼はメルヴィナ・リッシュラードの護衛だと名乗った」
「……!」
ミルファリア・デーゲンブラム男爵令嬢。彼女の存在もまた、シスフィナにとって忘れられない相手です。ディーク王子と共にシスフィナの暗躍に気付き、忠節のために自身の栄誉を捨てたもう一人の宿敵なのですから。
みるみるうちに血の気が引いていくシスフィナを他所に、ギュール王子は更に続けます。
「彼から話を聞くうち、デーゲンブラム男爵令嬢はある疑念を抱いたのだ。何せ、彼が事故にあったのは君の――シスフィナ・オルヴィルスの死んだ時期と不自然なほど一致していたからな。
きっとこの違和感に気付けたのは、君の死に疑問を抱いていた私とデーゲンブラム男爵令嬢だけだったろう。だが、私たちはその時確信した。君はまだ、生きていると」
さも当然のようにギュール王子は言ってのけましたが、それが容易ならざることは想像に難くありません。
既に死んだとして処理された人間を疑い、状況証拠から仮説を打ち出し、更にそこから死んだ人間の生存を確信する。それはある意味、誰よりシスフィナ・オルヴィルスを信じた男の狂気とも言うべき執念でした。
後にシスフィナをして、狂気の信念を持つ男とまで言わしめたギュール・ラヴタールの片鱗が、今再びシスフィナの喉元に指先を伸ばしていたのです。
言葉を引き継ぐように、エルセロア王子が口を開きます。
「シスフィナ・オルヴィルス。ギュール王子からそなたの話は聞かせてもらった。金糸の妖精の真の顔についてもな。確かにそなたの才があれば、愚鈍な我が兄を手玉に取り、この国の王に押し上げ、裏で操ることも容易だったろう。しかし……そなたの野望もここで終わりだ」
もはや、万事休すでした。この窮地を脱するためシスフィナの思考は一気に駆け巡りましたが、しかし言い逃れるための言葉は一切出てきません。あの日、ギュール王子から婚約破棄を言い渡された時のように、詰みの様相を呈していたのです。
――また……! またあの二人が……! わたくしの国盗りを邪魔すると言うの……!?
返す言葉すら失ったシスフィナの姿に、ジルド王は一度頷いてから静かに口を開きました。
「ゴホッゴホッ……さて、ここからの差配は非常に難しい……このような前例は当然、一度もない。故に、この後の沙汰は慎重に考えねばなるまい……」
苦しそうに息をするジルド王をエルセロア王子が制し、その続きを口にします。
「シスフィナ・オルヴィルス。まずそなたの処遇についてだが、ディグランツ王国に身柄を引き渡すこととなった。後の差配はギュール王子に一任する約束だ。そして兄上。あなたにも相応の罰を受けていただく」
「なっ……どうして殿下まで……!」
思わぬ展開にシスフィナは思わず声を漏らしましたが、エルセロア王子は構わず続けます。
「兄上。あなたには大罪人シスフィナ・オルヴィルスを国内に招き入れ、共に国家簒奪を企てた、内乱罪の嫌疑がかかっている」
「内乱罪……!?」
内乱罪とはその名の通り、国家に対して内乱を起こし、秩序を乱すことに対する罪を指します。もしこの罪が適用されたなら、罪人は無期の禁固刑、或いは死刑さえも適用される非常に重い罪でした。
「兄上。あなたは私に王位を奪われることを恐れ、シスフィナ・オルヴィルスの力に頼ることにしたのでしょう。囚われの身であったシスフィナと兄上、お互いに利のある取引だ。そしてその報酬は――この国そのものだった。違いますかな?」
その時憎たらしい笑みを浮かべたエルセロア王子を見て、シスフィナは全てを悟りました。自分は利用されたのだと。彼はシスフィナの入れ替わり劇を利用して、ヴィクス王子の失脚を狙っているのです。
真実はどうであれ、ここでシスフィナ・オルヴィルスが国家簒奪を目論んだ大罪人であることが公表されれば、そのシスフィナと共にあったヴィクス王子もまた、貴族たちから嫌疑の目を向けられるに違いありません。
そんなことになれば彼らの支持があるからこそ一つの派閥として力を持っていたヴィクス王子は失脚し、王位継承どころではなくなります。
一方でエルセロア王子は政敵が居なくなり、堂々と王位を継承することが出来るという訳でした。
そう、全てはシスフィナの失態によって、ヴィクス王子までもが追いつめられる結果になってしまったのです。
それは国家簒奪などという大それた悪行を続け、その上で色恋に現を抜かしたシスフィナに対する、神様からの報いだったのかもしれません。
己の愚行が愛するヴィクス王子までも追いつめようとしていることに気付き、シスフィナは愕然としました。しかしそこへ、思わぬ助けが入ります。
「……とは言え、いくら私も鬼ではない。兄上を手にかけたいわけでも、父上の目の前で兄弟争う様を見せたいわけでも無いのです。ですから兄上、私と取引を致しませんか? 王都から……そしてこの継承争いから、ご自分で身をお引き下さいませ。そうすればこの先、私から手出しはしないと誓いましょう」
それは事実上の降伏勧告でした。王都を退くということは自領に戻れということ。しかしヴィクス王子には自領はありませんから、母方の家であるザルトバラン公爵家を頼ることになるのです。
ザルトバラン領は王都から遠く、山に囲まれた盆地ですから、そんな場所に移り住めばもうまともに王都での政治に関わることはできないでしょう。
全ての権力を剥奪されるに等しい宣告でした。
しかし、それでも命があるだけ恩情ある措置でした。過去の歴史では政敵となった兄弟を処刑するなんてことは当然で、今回そうならなかったのは本当にヴィクス王子に情をかけたか、或いは処刑するまでもないと思われたからなのでしょう。
シスフィナは、隣に立つヴィクス王子の顔をまともに見ることができませんでした。彼が今、いったいどんな顔をしているのか……想像するのも恐ろしかったからです。
彼が今抱いているのは怒りでしょうか。憎しみでしょうか。嫌悪でしょうか。それとも……
他人にどう思われているのかが不安で不安でたまらないなんて、シスフィナにとっては初めての経験でした。
だからこそ恐ろしかったのです。今、ヴィクス王子が一体どんな目をしてシスフィナのことを見ているのかが。
ただ、はっきりとわかるのは一つの事実だけ。
彼女はまた、国取りに失敗したのです。
力なく項垂れるシスフィナの姿を見て、ギュール王子は安堵からか、それとも今度こそシスフィナの息の根を止めた達成感からか、一つ大きな息を付きました。
「エルセロア王子。これで私の務めも終わりました。約束通り、シスフィナの身柄はこちらで――」
しかし、再び思わぬ助けがエルセロア王子から入ります。
「待たれよ、ギュール王子。シスフィナ・オルヴィルスの身は、我がモスティア王国で預かる」
一瞬、彼が何を言っているのか理解できなかったのは、ギュール王子だけではありませんでした。シスフィナもまた、驚きから顔を上げます。
抗議の声を上げたのはギュール王子でした。
「――なんですって? 話が違います。彼女はこちらに引き渡していただく約束だったはず。だからこそ私は、そちらにシスフィナ・オルヴィルスの情報を渡したのです」
「気が変わりました。彼女は――私の妻にする」
「……は?」
声を漏らしたのはシスフィナだったのか、ギュール王子だったのか。しかしエルセロア王子は構わず続けました。
「その才、捨て置くにはあまりに惜しい。愚鈍な兄には御せずとも、この私にならその才を正しく使う場を与えられよう。対価は――この国の国母の座だ」
彼が何を言っているのか理解できず、シスフィナは呆然と口を開くばかり。唯一、ギュール王子だけが彼に反論します。
「横暴が過ぎます! そもそもシスフィナ・オルヴィルスは我が国の――!」
しかしそこへ、ジルド王が続きました。
「ギュール王子、控えられよ。今、其方が立っているその場所は、モスティア王国の領内である。ならば、我が国の法に則り罪人を裁くのが道理……そして法とは即ち……王権だ」
「……初めから、それが目的だったか……!」
弱々しいながらも威厳あるその言葉に、ギュール王子は唇を噛みしめました。
ここで下手に食い下がれば国際問題に発展することは明らかで、現在ディグランツ国内での立場を悪くしているギュール王子にとっては、望まぬ結果となるからです。
ギュール王子さえもやり込めたエルセロア王子は、その視線を満足げにシスフィナへと滑らせました。
「さて、どうするシスフィナ・オルヴィルス。私と共に来るか、それとも母国へ帰るか。或いは……兄上と共に行くか? お前の自由にするが良い。無論、相応の手を打たせてもらうがな」
「わ、わたくしは……」
王子は三つの道を示しましたが、シスフィナからすれば一択も同じでした。もしシスフィナがエルセロア王子と共に行かなければ、ヴィクス王子に一体どんな危険が降りかかるか分かったものではないからです。
しかし彼女がエルセロア王子と共にあれば、少なくともヴィクス王子への危害を止めることが出来ましょう。
そして、彼女の恋心を知る者はこの場に居ないエリナだけ。他の者たちはみな、シスフィナがこの国を手に入れるためにヴィクス王子に取り入ったと、そう考えているはずだからです。
シスフィナが選べる手は、一つだけでした。
「……わかったわ。あなたと一緒に行ってあげる、エルセロア王子」
前へ前へと玉座に歩み寄りながらシスフィナがその言葉を口にしたとき、一人の王子はほくそ笑み、一人の王子は悔しそうに唇を噛み、そして最後の王子は――
「……メルヴィナ……」
彼女の後ろで、そう小さく呟きました。
シスフィナは締め付けられる胸の痛みを必死でこらえながら続けます。
「わたくしも初めから、あなたと婚約できればと思っていたのよ。だってそうでしょう? あんな豚と婚約したところで面倒ばかりでいいことは何一つ無いのだもの。
それでも女を知らない豚王子を惚れさせれば、或いはこの国を手に入れることだってできたはずだったのに……本当に使えない男だわ」
思いのほか、言葉は流暢に流れ出ました。今まで金糸の妖精の仮面を被ってきただけあって、別の誰かを演じるのは得意だったからです。
「まさか、あなたのような役に立たない豚を、このわたくしが本気で愛するとでも思っていたの? どこまでも愚鈍な男だわ。やはり豚に国を治めるのは、始めから無理だったみたいね」
意を決し、シスフィナは振り向きました。その顔になるべく、この世界で最も醜悪で、最も最悪で、最も性悪な女の顔を張り付けて。
シスフィナが振り向いた時、ヴィクス王子はただ悲しそうにその顔を伏せていました。そしてしばらくの沈黙の後、震える声で呟きます。
「……君が、そんな風に思っていたなんて。君がそんな悪女だなんて思わなかったよ……僕はずっと、騙されていたんだな……」
「ようやく気付いたのね。これがわたくしの本当の顔よ」
「君は……見た目の割に、随分と醜い本性を抱えていたようだな。そんなことも見抜けなかったなんて……本当に僕には……人を見る目がないらしい。そんな僕が王座に就くなんて、初めから無理な話だったんだ……」
まるで自嘲するように力無く笑い、ヴィクス王子は視線を上げます。その目にはもう、悲しみの色はありませんでした。
「エルセロア、王位は君に譲る。僕はもう、疲れてしまった……継承権を放棄して、ザルトバランに行こうと思う。穏やかな余生を過ごさせてもらうよ」
「そうなされよ兄上。この国は責任もって私が――いや、私たちが導きましょう。どうぞ、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
「明後日には城を出ることにするよ。細かい手筈は追って伝えるけれど……従者たちのことは任せてもいいかい?」
「無論です兄上。悪いようには致しません」
元々、従者や母の生家、その他自派閥の意向などを気にかけて、担ぎ出されるがままに神輿となっていたヴィクス王子でしたから、それらを全てやめると決断してしまえば、とんとん拍子に話が進みます。
これでヴィクス王子は王の責務から解き放たれ、エルセロア王子は晴れて王位に就き、そしてシスフィナも念願の国盗りに限りなく近づくことになりました。
誰にとっても理想的な展開でしたが、何故か誰の顔にも笑顔ひとつありませんでした。
やがて最後にシスフィナを見つめたヴィクス王子は、小さく、小さく呟きました。
「さようなら、シスフィナ・オルヴィルス」
そして踵を返すなり彼は部屋を去りましたが、結局シスフィナはその背中に言葉をかけることすらしませんでした。
周りで二人の様子を伺っていた者たちは、あまりに冷たい彼女の態度に呆れかえりました。彼女はきっと、どこまでもヴィクス王子を駒としてしか見ていなかったのでしょう。
豚王子を愛する奇特な令嬢など、やはり初めから居なかったのです。
「さて、皆のもの。今日の一件についてだが……くれぐれも他言無用とする。我が妻メルヴィナの悪評を醜聞する不届な輩はおらぬとは思うが……よろしく頼むぞ」
こうして誰もが新たな王の誕生を祝って誓いを立てる中、シスフィナ・オルヴィルスの初恋は静かに終わりを告げたのでした。