007_妖精と豚
エリナがシスフィナの異変に気付いたのは、それから三日ほど後のことでした。
――また小説を読んでいらっしゃる。
自室の椅子に腰をかけて、静かに本をめくるシスフィナの姿を、エリナは意外に思いました。
シスフィナは昔、小説を読んでいるところを父のオルヴィルス公爵に見つかってひどく怒られてからというもの、あまり小説を読もうとはしなかったからです。
ですから、てっきりまた国盗りのために何か企んでいるのだろうと思っていたのですが、それが二日、三日と続けばさすがのエリナもおかしいと気付き始めます。
普段の彼女であれば本の山程度、一日二日で読破して暗記してしまいます。ですから小説の情報が欲しいだけなら、とっくに読み終わっているはずなのです。
だというのに、シスフィナの奇行はそれだけに留まりませんでした。
「あれは……お嬢様?」
それはある日、エリナが突発の仕事を終えて自室に戻ろうとしていた夜のことでした。
すでに夜も更け、未だ起きているのは見張りの者しかいないような時間でしたが、そんな夜闇の中を一人出歩くシスフィナの姿を目撃したのです。
いくら暗躍好きのシスフィナとは言え、遅くに自分から動くことなどまずありません。
不信に思ったエリナは気付かれないようその後をつけましたが、どうやら目的は達した後だったようで、そのまま自室へと戻っていってしまいました。
そして翌朝シスフィナの様子を伺うと、彼女はやけに眠たそうにあくびをしながら朝食の席に現れました。
「昨夜は眠れませんでしたか?」
「えぇ……少し考え事をしていて……ふあ……」
その時彼女が口にしたのは、普段なら気付きようのない、しかし今ははっきりとわかる嘘でした。
もちろんシスフィナがエリナに嘘をつくのは珍しいことではありません。しかし、シスフィナに長年仕え続けたエリナの直感が告げていました。これは何かが怪しいと。
そして、そんなおかしなことを始めたのは、シスフィナだけではありませんでした。
「お、王子!?」
「王子が……!!」
それはまた別の日の朝食時。相変わらず眠たそうに目をこするシスフィナに紅茶を差し出していると、廊下からは城の従者たちの騒ぎ声が聞こえてきたのです。
「何事かしら」
「さぁ……?」
二人が首を傾げていると、その後、二人が居る食堂の扉が従者によって開かれました。
「ヴィクス王子……!?」
そこに立っていたのは、シスフィナがこの国に嫁いでからというもの一度たりとも人前に姿を現さなかったヴィクス王子だったのです。
「あ、あの……ぼ……ぼくも、一緒に……いいかな……朝食」
たどたどしく、視線もろくに上げない王子は、しかしはっきりとそう告げました。これにはエリナも、そして王子の従者たちも目を丸くしました。
一体彼の中でどんな心境の変化があったのかはわかりません。ただ、シスフィナだけはそんな王子の姿に驚くことなく、柔らかな笑みを浮かべていました。
「もちろんですわ。エリナ、殿下にも朝食のご用意を」
「は、はい」
そして二人は向かいに座ると、言葉を交わしながら(と言ってもシスフィナが一方的に質問して王子が答える問答のような会話でしたが)食事を始めたのでした。
そんな異変が毎日のように続き、とうとう豚王子が朝も夜もシスフィナと食事を共にするようになり、やがてそれらの光景が珍しくなくなるまでに長い時間は必要ありませんでした。
「……一体どんな魔法を使ったので?」
問いかけるエリナに、相変わらず小説をめくるシスフィナは、やはり妖しげな笑みを浮かべるだけでした。
結局、シスフィナがどんな手を使ったのかはエリナにはわかりませんでしたが、彼女の国盗りが着実に進行していることだけは間違いなさそうでした。
色々と不審な点はありながらも、エリナはそれ以上踏み入るような真似はせず、シスフィナの動向を注視することに決めました。
しかし……エリナは後々、この時の判断を後悔することになるのでした。
◆
「お嬢様。まだお休みにならないので?」
それはシスフィナたちの最初の奇行から早くも三か月ほどが過ぎた、ある夜のことでした。
いつものように夜風にあたりながら、ホットミルクを片手に庭を眺めるシスフィナの姿を見かけたエリナは、彼女の横顔に声をかけます。
すると、エリナの存在に気付かなかったらしいシスフィナは少しばかり驚いたように目を丸くして、エリナ、と小さく呟きました。
「ええ、もう少ししたら休むことにするわ」
しかしエリナは気付いていました。シスフィナの目的が、ただ夜風に当たりに来ただけではないことに。
「……ヴィクス王子ですか」
シスフィナの隣に並び、彼女が見ていたものに視線を向けると、そこには夜も遅いというのに一人で中庭を駆けまわる豚王子こと、ヴィクス王子の姿がありました。
観念したようにシスフィナは微笑みます。
「……あの人、太った自分が一緒に居るとわたくしが笑われてしまうからって、人のいない夜にああやって毎日走り回っているのよ。もう一月になるかしら」
口調こそ王子をバカにするような言い方でしたが、その視線はエリナが今まで見たことがないほどに柔らかなものでした。
その目を見た時、エリナの脳裏に嫌な予感が走りました。しかし、それはあまりにも荒唐無稽であり得るはずのない可能性だったため、さすがのエリナも首を横に振って否定します。
まさか、シスフィナが豚王子に心を寄せつつあるなんて。そんなことが起こりうるはず無かったからです。
「……そうですか。それではお先に失礼いたします」
「ええ。おやすみ、エリナ」
「おやすみなさい、お嬢様」
エリナは自分の中に生まれた疑念を直視するのが嫌で、シスフィナが手にしていた、とっくに冷え切ってしまったミルクの存在からはあえて目を背けたのでした。
しかし、エリナの嫌な予感は的中してしまいます。
それは豚王子とシスフィナの結婚式を一か月後に控えた舞踏会の日のことでした。この日はメルヴィナ・リッシュラードの誕生日で、多くの客人たちが彼女の元を訪ねてきました。
「お誕生日おめでとうございます、メルヴィナ様。これは我が領地で採掘された宝石を使ったネックレスです。きっとお似合いになりますわ」
「ええ、ありがとう。嬉しいわ」
訪ねてくる貴族たちは、誰もが自分たちの領地でとれた品や今王都で流行っているドレスなど、様々な品をシスフィナに届けました。
中には他国から取り寄せた食器など、普段はお目にかかることすら出来ないような物まで並びます。
こうしたプレゼントは渡した側の人脈の広さや経済力を示すと同時に、渡された側はそれだけの者たちを従えているという権勢の証にもなりますから、これらは立派な政治活動の一環です。
そんなこと貴族の間では常識ですから、誰もが自分の価値を内外に示すためシスフィナに各々が考える珠玉の一品を取りそろえたのですが……
「シスフィナ、誕生日おめでとう」
「ヴィクス殿下! ありがとうございます。もしかして、そちらの品は……?」
「うん、君への誕生日プレゼントだよ」
会場に姿を見せた王子が取り出したのは、二つのプレゼントでした。
一つは彼の母方の家である公爵家から持たされた、名産品のインペリアルエッグ。色とりどりの宝石があしらわれた卵型の宝石入れは、周りの観衆たちから溜息を引き出すほど美しいものでした。
ですが問題は、もう一つのプレゼントです。
「それで、こちらは……?」
それは何とも見すぼらしい……というより、あまりに造りがヘタクソすぎて出来損ないの雑巾かと見まがうような、布の小物入れでした。
王子は少し逡巡しながら言葉を紡ぎました。
「実は……自分でプレゼントを用意したいと思って、前に君がそうしてくれたように小物入れを作ろうと思ったんだけど……失敗しちゃって……それに同じ小物入れなら、インペリアルエッグの方が良いよね……ごめん。これは持って帰るよ……」
みるみるうちに語尾が小さくなっていくヴィクス王子。周りの者たちも小物入れの出来の悪さと、手作りという重さにドン引きです。
これはあくまで政治の一環。誕生日に思い出作りなんてやって喜ぶのは庶民や家族間での話で、公の誕生日会でやることではありません。
そんなこともわからないのかと、エリナも眉間に皺を寄せたのですが……ただ一人だけ。王子の小物入れを見て、目をキラキラと輝かせている人物が居ました。
「素敵……ありがとうございます殿下。とても嬉しいです、とても……ずっと、ずっと大事にしますね」
もちろん、シスフィナです。
彼女はそう言って、王子がひっこめようとした小物入れを大事に取り上げると、胸にぎゅっと抱き寄せました。
これには周りの者たちも舌を巻きます。何せこんな見すぼらしい雑巾もどきを渡されて、今にも泣きそうなほど感動して見せる演技なんて、例え相手が王子でも普通は出来やしないからです。
シスフィナの演技に気付かず照れている王子を内心嘲笑すると共に、シスフィナの豪胆さに誰もが感服しました。そして、彼女に従うことの正しさを改めて理解させたのでした。
しかしエリナだけはだらだらと、内心嫌な汗を流していました。
そして誕生日会の後、一縷の望みをかけたエリナはシスフィナに声をかけます。
「さすがに、手作りの品を差し出してきた時は表情が引きつってしまいました。顔色一つ変えず、それどころかあんなに嬉しそうに受け取ることが出来るとは。お嬢様の演技には脱帽いたします」
「……え?」
「……え?」
……エリナは後悔しました。あの日、初めてシスフィナの異変に気付いたあの時。あの時に止めてさえいられれば。
シスフィナが、豚王子に恋を――それも、よりにもよって初恋なんてすることにはならなかったのでしょうから。
しかしエリナはシスフィナの従者です。彼女にはちゃんと伝える義務がありました。
歯を食いしばり、苦々しい表情になりながらも、翌朝エリナは心を鬼にしてシスフィナに告げることにしたのでした。
「お嬢様……お話が」
「エリナ? どうしたの、急に改まって」
紅茶のカップを口に付けるシスフィナの前には、昨日豚王子から貰った小物入れが丁寧に置かれていました。どうやらこれを眺めながら紅茶を飲んでいたようで、エリナは頭痛を覚えました。
「お嬢様。お気を確かにして聞いてください」
「……だから何? どうしたのよエリナ」
「お嬢様は……恐らく、恋慕しておいでです」
「……恋慕? 誰が?」
「お嬢様がです」
「……誰に?」
「……………………豚王子にです」
長い沈黙が二人の間に漂いました。そして、まずはシスフィナが小さく鼻で笑います。
「無いわね」
「私も、そう信じたかったのですが……」
「無い。無いわ。絶対無いわよそんなこと。だってわたくしは金糸の妖精シスフィナ・オルヴィルスよ? 今までわたくしに心を捧げた男はいくらでも居たわ。けれど誰もわたくしの心は奪えなかった。地位も、お金も、名誉も権勢も、ありとあらゆるものをわたくしに差し出してなお――!」
次第にわなわなと声を震わせ、カタカタと震えるカップを辛うじてソーサーに戻し、今までエリナも見たことがないほどに動揺の色を濃くしたシスフィナは続けます。
「――そりゃあ最近は少し痩せて豚というよりぽっちゃり気味で愛嬌が出てきたし、わたくしを見つけたら無邪気に笑うところも可愛げがあるし、他人の前じゃおどおどするくせにわたくしの前だと饒舌になるところも愛らしいとは思うけれど、その程度よ? たったその程度で、このわたくしが……」
しかしエリナは沈痛な面持ちで口を開きました。
「……お嬢様。確かに少しは痩せましたが、それでもまだ十分肥満です。あれはぽっちゃりとは言いません。それに殿方に対して可愛げがあるだとか愛らしいだとか、そういう形容詞は普通使いません……好意を抱いている相手を除いては」
「……うそ」
「本当です、残念ながら……」
――シスフィナとエリナはお互いに顔を見合わせ、言葉を失いました。
シスフィナに至ってはぱくぱくと、陸に打ち上げられた魚のように口を開け閉めしている始末です。
二人の間にはなんとも気まずい沈黙が漂いました。
しかし、エリナはまだ諦めていませんでした。
「大丈夫ですお嬢様、まだ引き返せます。豚王子の悪いところを思い出してください。なるべく間抜けで格好悪い、一瞬で冷めてしまうようなところを思い出すのです。そうすればきっと、まだ引き返せます」
エリナの意図を理解したシスフィナも頷いて返します。
「え、ええそうね。大丈夫、大丈夫よエリナ……だってわたくしはシスフィナ・オルヴィルスだもの、他人の弱みを探すのは得意だわ。王子の悪いところだって……」
それから数秒間の沈黙が続き。
次の瞬間、シスフィナは勢いよくその額をテーブルに叩きつけました。
「お嬢様!?」
「……ダメ、全然ダメよエリナ。欠点なんて無いわ。だって足が遅いところもすぐにお腹すかして鳴らすところも女慣れしていないところも全部可愛いんだもの。欠点なんて見つからないわ……」
エリナは天を仰ぎました。終わりだ、と。
「……残念ですが……一般的に、相手の欠点が可愛く見えるようになってしまったら……もう手遅れです。どうにもなりません。お嬢様はヴィクス王子に……本気で恋なさってしまったようです……」
シスフィナの顔にも絶望の色が浮かびます。国盗りが失敗して修道院に送られた時でさえ自信に満ちていたシスフィナが、恐らく生まれて初めてその顔を絶望に染めていました。
「そんな……嘘よ……このシスフィナ・オルヴィルスが……?」
頭痛が酷くなったような気がしたエリナはこめかみを抑えながら、それでも従者として嫌々その問いを口にします。
「……一応、念のために聞きますが……あれのどこが良いんですか?」
自身の恋心を自覚したシスフィナは、初めこそ抵抗の素振りを見せましたが、やがて抵抗を諦めたのかポツポツと語り始めました。
「……あの人は――」
「あの人」
「――彼は、優しくて、博識で……話していると、今まで感じたことがないような、穏やかな気持ちにさせてくれるのよ……肩肘を張らなくて良いというか……それに最近はわたくしのために、自分を変えようともしてくれている……」
「それでグラッときたわけですか」
「……初めてなのよ。公爵令嬢だとか金糸の妖精だとか、そういった肩書き抜きでわたくしを見てくれる人は……」
ある意味、公爵令嬢だからこそだったのかもしれません。
公爵令嬢であるシスフィナの周りには、自然と容姿も能力も優れた者ばかりが集うため、豚王子のように何もかもがダメな人間は彼女に近付くことすらなかったのです。
そんなダメ人間耐性が出来ていない状態で、何もかもダメな豚王子が自分のために努力をしている。このシチュエーションがシスフィナにとっては初めての刺激だったのでしょう。
妙な虫を近づけまいとした過去の己の働きが最悪のタイミングで最悪の結果として帰ってきたことに、エリナは大きなため息をつきました。
「……こうなったからには仕方ありません。幸い、王子と寄り添うことと、この国を手に入れることは相反しません。国盗りは続行できます」
震える声に何とか力を込めてエリナがそう言い訳すると、シスフィナもまたはっとした様子で頷きました。
「ええ、そうよ。その通り。あの人を王にしてわたくしがその隣に座れば、あの人の心もこの国も手に入る。一挙両得だわ」
「ただ……」
喜ぶシスフィナを他所に、エリナの表情は更に陰ります。
「……もし万が一。王子か国か、そのどちらかを選ばねばならない時が来た場合は……どちらを選ぶかは、今のうちから決めておいた方がよろしいかと」
「それは……」
「これまでお嬢様は、何よりも国盗りを優先されておりました。だからこそ、非情な選択も迷いなく選べたのです。そしてそれこそが、お嬢様の強みであり才でした。しかし――」
すっかり冷え切った紅茶を一瞥し、エリナは続けます。
「――これからもし、国と王子のどちらかを選ぶことになった時、お嬢様はきっと迷うことになります。もしそこで迷って、どちらも選べなかったら……その時、シスフィナ・オルヴィルスはきっと、真の破滅を迎えるのです」
「そんなの……言われなくたって、国を選ぶに決まっているわ。わたくしが一体、どれだけの時間と犠牲を払ったと思っているの。今更だわ」
「……それならば良いのですが。お嬢様、くれぐれも目的を間違えてはなりません。なぜ国を盗らねばならないのか、今一度よくお考えください」
「……わかっているわ」
シスフィナの瞳には未だ強い迷いの色が伺えましたが、エリナはそれ以上追及しませんでした。
エリナが懸念しているのは、何より相手があの豚王子ということでした。
何せあの豚は、才も無ければ覚悟もなく、ただ第一王子という席に生まれた、自分が傷つきたくないだけの凡夫でしかないからです。
もしシスフィナの裏の顔を知れば、覚悟がないあの男は、きっと腰砕けになって逃げ出すことでしょう。
その時、シスフィナは初めての失恋を経験することになるのです。そのショックから立ち直れるのか、エリナの一番の懸念はそこでした。
今までのシスフィナであれば、多少の挫折程度なら鼻で笑って終わりだったのでしょうが……
遠からぬ未来に不穏な予兆を感じ、エリナは深く深くため息をついたのでした。
そして、エリナの不安が現実になる日は思いのほかすぐに訪れたのでした。