006_心の形
シスフィナには昔から、努力だとか頑張るだとか、そういった言葉の意味がいまいち理解できませんでした。
ただ、頑張る、をしている人々は、誰もがとても楽しそうに見えて、退屈で虚しい人生を送るシスフィナには羨ましく見えました。
――わたくしも何かを頑張れば、少しは満たされるのかしら。
そこでシスフィナは、早速頑張ってみることにしました。
ダンスも、詩も、刺繍も、文学も、時には政治や乗馬にさえシスフィナは挑戦し、頑張ろうとしてみました。
ですがそのいずれでも、彼女の思うような結果は得られませんでした。
「さすがシスフィナ様ですわ。こんなに早く身につけられてしまうなんて」
「それに素晴らしい出来です。とても習いたてとは思えません」
どんな目標を立ててみても、どんな挑戦を行なってみても、シスフィナが頑張るより先に結果が出てしまうからです。
世間の言う目標とは、シスフィナが頑張るにはあまりに低い挑戦ばかりだったのでした。
しかしそれ以上を頑張ろうとすると、今度は公爵令嬢という立場が邪魔をします。
これ以上は公爵令嬢には必要ないことだから、頑張らなくていいと言われてしまうのです。
シスフィナは考えました。一体何を目標にすれば、誰にも邪魔されず、最後まで頑張ることが出来るのだろうと。
そして気付いたのです。たった一つだけ、シスフィナが頑張らないと手に入らないものがあることに。
「そうだわ。わたくしはこれを頑張りましょう」
彼女の手に握られていたのは、かつて国を簒奪したとされる過去の偉人の歴史書でした。
――彼女が国盗りを始めるまでに、長い時間は必要なかったのです。
◆
それは飛将王子ことエルセロア王子との肝が冷える謁見を終えた日の、陽がすっかり沈んだ夜のことでした。
湯浴みを済ませたシスフィナは、火照った体を涼ませるために自室の窓を開けて夜風に当たっていたのですが、そこでふと、中庭を通り抜けていく不審な影を見つけたのです。
「……あら? あれは……」
黒いローブを目深に被り、いかにも不審者ですと言わんばかりの恰好をした人物でしたが、その丸々とした体つきには見覚えがあります。どうやらあれは豚王子のようです。
「ふうん……?」
シスフィナは悪い笑みを浮かべました。ようやく固く閉じた貝を開くきっかけが見つかったようでした。
それから王子を追って中庭に降りたシスフィナは、王子が持った明かりを頼りにその後をひそかにつけました。
明かりはゆらゆらと人目を避けるように城の中を進み、やがてある一角までやってきたところで部屋の中へと入っていきました。
「ここは……図書室?」
そこは、王城の一角に備え付けられた図書室でした。部屋の中では、やはりゆらゆらと小さな明かりが揺れています。
「……ッ!? 誰!?」
と、その時でした。シスフィナの存在に気付いたらしいヴィクス王子が声を上げ、シスフィナに明かりを向けました。
特段隠れるつもりも無かったのですが、何だかこちらが悪いことをしているような気分になって、大人しくシスフィナは姿を見せました。
「わたくしですわ殿下。メルヴィナ・リッシュラードです。こんな時間に一体何をなさっておいでですの?」
「あ……う……」
観念したメルヴィナが姿を見せると、途端に王子は口ごもります。相変わらず、まともな会話は望めそうにありません。
しかし、シスフィナは王子が手にしているある物の存在に気が付きました。
「それはもしかして……小説ですの?」
「う……」
彼が手にしていたのは、とある小説のようでした。小説とは、近頃民衆の間で流行っている娯楽本の総称です。
シスフィナは意外に思いました。何せ小説は、貴族や王族が読むには好まれない本だったからです。
一般論として、貴族や王族が読むべきは大説と呼ばれる、政治や経済、為政者たるに相応しい志などが記された書物であるべきで、空想やおとぎ話のような虚構の物語ばかり描く小説は適さないという風潮が強くありました。
そう言った古臭い考え方は段々と廃れつつありましたが、それでも格式ばった貴族や王族の間では未だ主流の考え方で、ましてや保守派を多く抱える第一王子派の陣営からすれば十中八九咎められる行為に違いありません。
現に自分の娘が修道院送りになると言うのに、王家の命令ならばと黙って受け入れるような古臭い考えを持っていたシスフィナの父も、昔、シスフィナが小説を読んでいることを知った際には酷く叱りつけたのを覚えています。
一体どういうつもりなのか、シスフィナは王子に問おうとしたのですが……
「サリュヴァスの雪……」
王子が手にしていた小説のタイトルを見て、思わず言葉に詰まってしまいました。
何故ならその本は、シスフィナも昔読んだことのある小説だったからでした。
それは以前、民衆の心を掌握するためにも彼らの娯楽に精通せねばならないと手を出した小説たちの中でも、とびきり面白かった記憶のある作品でした。
話自体はそれほど意外でもない、悲恋に終わる小説なのですが、その独特の言い回しや表現が心に残ったのをよく覚えています。
シスフィナは珍しく迷いながら、王子に問いかけました。
「……その本が、お好きですの?」
するとヴィクス王子は静かに頷き返しました。
これまで人目を忍んで小説を読んで来たシスフィナですから、誰かと意見を交わすことなどしたことがありません。
こんなことを口にするべきではない。そんなことは重々承知した上で、それでもむくむくと首をもたげてきた知的好奇心から、王子に問わずにはいられなかったのです。
「……最後のサリュヴァスの笑顔について、殿下はどう思われますか? わたくし、サリュヴァスの雪はとても面白い作品だと思うのですが……最後にサリュヴァスが笑った理由が、どうしても理解できなくて……」
すると今度は王子が驚く番でした。
「……君も……読んだの? サリュヴァスの雪を……?」
「昔、一度」
それから少しばかりの沈黙。王子は何かを考えるように間を置いて、まるで探り探り、こちらの出方を伺うように言葉を紡ぎ始めました。
「……これはあくまでも、僕の解釈になるけれど……最後のシーンで、山脈に雪が降り積もる描写があっただろう? あれはきっと、サリュヴァスの心境を映し出しているんだと思うんだ。
彼にとって、雪はメルーナの象徴だった。雪が降れば、彼女と会える。でも、そのメルーナと結ばれないことがわかって、メルーナを手にかけた。それも、他ならない彼女の望みで。サリュヴァスにとっては悲劇的な結末だ。なのに最後は降り積もる雪を見て笑う。これはきっと――」
「……」
「――きっと彼も、この後自ら死を選ぶんだと思う。愛したメルーナに再び会うために。この笑顔は、もう一度メルーナに会う方法に気付いた喜びと……彼女への愛の証なんじゃないかな……」
目から鱗が落ちる。まさにそんな感覚を、シスフィナはこれまでの人生において初めて経験しました。
シスフィナは理屈や道理、仁心というものは理解しましたが、人の心の不条理さまではいまいち理解できず、情報と理屈をこねまわすことで何とか上辺だけを取り繕って生きてきました。
ですから小説における登場人物の心境など、汲み取れるはずもなかったのです。
しかし、ヴィクス王子が口にしたその理屈は、実に筋が通っていて、尚且つシスフィナにも納得できるものだったのです。
「……でも、そうなると中盤の流れに矛盾が出ませんか? ほら、二人で演劇を見に行ったシーンがあるでしょう? あそこはどうして――」
「メ、メルヴィナ……近い……」
王子に言われてふと気付くと、いつの間にかシスフィナは王子の目の前にまで詰め寄っていました。脂肪でパンパンの王子の頬が、僅かな明かりの向こうによく見えます。
「あ……申し訳ございません殿下、つい……それより殿下、普通に喋ることができたんですのね」
「え……? あ……え、えっと……いや、これは……ち、違う……」
先ほどまで随分と流暢に言葉を紡いでいたヴィクス王子でしたが、気付くとまたいつものどもった喋り方に戻ってしまいました。
その変わりようが面白くて、シスフィナはつい笑ってしまいます。
「ふふ。殿下、でしたらこちらの作品の感想をお聞かせくださいませ。わたくし、こちらの作品も主人公の考え方がいまいちわからないところがございまして……」
「え、これも読んだのかい? うん、いいよ。彼はね……」
……その日から、シスフィナとヴィクス王子の秘密の逢瀬は始まりました。
王子はどうやら好きなことについてであれば饒舌に語れるようで、小説を介してお互いの意見をやり取りするうち、シスフィナは王子のことを少しずつ理解しました。
どうやら彼は周りの者たちが言うようなただの愚鈍な人物ではなく、いつか従者が言っていたように、ただ優しすぎるだけのお人好しだったのです。
小説だけでなく本という本を幾つも読んでいる彼は、国とはどうあるべきか、王とはどうあるべきかを熟知していました。
シスフィナには信じられないことでしたが、優しすぎるヴィクス王子はそれ故に自身が王に相応しいか思い悩み、弟との争いを望まず、そうして豚王子と侮られることで王位を譲ろうとさえしていたのです。
これにはシスフィナも呆れてしまいました。シスフィナのように人の心を理解できないというのも大概だと自認していましたが、王子のように人の心に寄り添いすぎるのも考え物です。
しかし――或いはだからこそ、シスフィナは王子の考え方に興味が湧きました。王子と触れ合っていれば、自分が今まで理解できなかった人の心を、もっとわかりやすくかみ砕いて教えてくれるような気がしたからです。
そしてもしかすると、いずれは愛さえも理解できるかもしれません。
愛のために人は死ぬ。到底理解できそうになかったその行動の意味が、ついに理解できる時が来る。
そんな期待が、シスフィナの胸の奥に小さく芽吹いたのでした。