005_妖精と飛将
「よくぞ参られた、メルヴィナ・リッシュラード嬢。いや、今は……義姉上、とお呼びすべきかな」
シスフィナがエルセロア王子との謁見を取り付けたのは、その翌日のことでした。
予想に反し随分と早く予定を押さえられたのは、勢力を拡大しつつあるシスフィナを第二王子派が意識していたからかもしれません。
エリナを伴い応接間へと招かれたシスフィナは、第二王子を前に華麗なカーテシーを披露してみせました。
「お初にお目にかかります殿下。こちらはわたくしの従者、エリナですわ」
「どうぞ、お見知りおきを」
鋭い目つきと短く切りそろえられた茶色い髪、油断なく引き締まった表情。体格は良く身長も高いエルセロア王子は、噂通りの美男子でした。
彼の別名は飛将王子。飛将とは飛ぶように戦場を駆けまわる勇猛果敢な将を指す言葉です。
エルセロア王子はその二つ名に違うことなく、これまで幾度も賊や反乱因子の討伐に従軍し、いくつもの武功を上げておりました。
あの豚王子を見限って、誰もが彼に付くのはある意味当然なのでしょう。豚で飛将に勝てる訳がないのですから。
――それに、従者の方も錚々《そうそう》たる面々ね。
王子に促されて彼の向かいのソファに腰を下ろしたシスフィナは、視線を僅かに滑らせて周りに控えた従者たちの顔を一瞥しました。
派閥争いが起きた際、侯爵の中で唯一第二王子の支持を表明した侯爵家嫡男。国境を守り、国内有数の軍事力を有するも未だ年若い辺境伯。現国王に仕え、実力で爵位を得たと噂の騎士爵の長男。そして、第二王子がその才覚を認めて引き抜いた平民上がりの参謀。
その他にも覚えのある顔がちらほらと。どうやらこの場には、次代を担う若き才覚たちが、第二王子を支持して集っているようでした。
彼らに見限られた豚王子がいっそ哀れになるほどに、人望の差が透けて見える光景です。
ただ一つ気になったのは、シスフィナがソファに腰かけるまで、彼らが微動だにしないことでした。
特に侯爵の嫡男、ロージ・ハルバロスに至ってはソファにどかっと腰をかけたまま、立ち上がる素振りすら見せません。
小国とは言えメルヴィナは一国の姫であり、爵位は貴族の中でも最も位の高い公爵です。そして婚約者であるヴィクス王子も表向きは嫡男。ともすればシスフィナの立場は彼らより上であることは明白だったにも関わらずです。
たまらずエリナがその態度を咎めようとしましたが、シスフィナは彼女を片手で制しました。
なぜ止めるのかと視線で咎めるエリナを他所に、部屋に入って来た使用人が二人の前に紅茶を並べ、一礼して退室してゆきました。
使用人の背中を見送った王子が、ゆっくりと口を開きます。
「噂は聞いている。何やら近頃、色々と忙しくしているそうだな。お蔭で老いぼれたちは大忙しだ……少しは加減してやってはくれまいか。彼らは我々ほど若くはないのだから」
彼の冗談に、従者たちはくすくすと声をひそめて笑いました。ただの軽口かと思いましたが、それにしては随分と悪意的な笑い方でした。
どうやら先ほどの言葉は第一王子派の者たちを揶揄する意味もあったのでしょう。ヴィクス王子の支持者は彼の言う通り老人が多く、第二王子派に比べると年季の入った顔ぶれであることは事実でした。
「恐れ多きことですわ殿下。お騒がせしてしまい申し訳ございません」
下手に出て軽く一礼して見せると、エルセロア王子は軽く手を振って「いや」と続けます。
「そう気兼ねすることはない。むしろ、そなたのように美しき才女が我が王家に名を連ねるなら心強いというもの。兄上もさぞご安心なさるだろう。そうだな、皆の者?」
相変わらず含みのある笑みでエルセロア王子は周りに視線を巡らせます。するとその時、辺境伯が「しかし……」と呟きを漏らしました。
「いくらメルヴィナ様が才女とは言え、ヴィクス王子は部屋にこもりきり。これではその才を十分に振るうことはできないでしょう。メルヴィナ様の才も宝の持ち腐れ。仕えるべき主をお考え直された方がよろしいのではございませんか?」
途端、周囲の者たちも声を潜めてくすくすと笑い始めました。どうやら彼らはヴィクス王子を辱めることで、彼を支持するシスフィナを遠回しに馬鹿にしているようでした。
もしシスフィナがヴィクス王子に忠誠を誓っていたのなら、我慢ならないほどの屈辱を感じていたことでしょう。或いはヴィクス王子の従者グイストならば、声を荒らげたのかもしれません。
しかし生憎とシスフィナは忠義で彼に付いた訳ではないのです。そしてまた、シスフィナのことを嗤う彼らはいずれ踏み潰す小物に過ぎません。
そんな小物たちのさえずり程度では、シスフィナの感情を動かすことなど到底できるはずもなかったのでした。
涼しい顔をしたままのシスフィナは、まずは辺境伯に向き直り、にこりと微笑み返してから口を開きました。
「遥か空を行く竜の志が、地を這う鳥にわかりましょうか?」
「……何と?」
突然シスフィナが口にした言葉の意味がわからず、周りの者たちは一瞬言葉に詰まりました。しかしシスフィナは構わず続けます。
「物事には順序というものがございます。目の前に飢えた民が居たならば、最初に肉を与えてしまうと心臓を傷めて死に至ることもありましょう。しかし、薄く薄く薄めた粥を与え、薬を与え、それから肉を与えれば体も完治致します。
わたくしはヴィクス殿下とお会いしたあの日、殿下の中に芽吹く竜の志を拝見いたしました。大望を抱き、民を安んじる王としての大器を見たのです。
しかし同時に、殿下は孤独という名の病に侵されておいででした。殿下の周りには林や軒下を飛んで満足する鳥たちばかりで、竜の志を分かち合える相手が居なかったからですわ。
ゆえにわたくしは今、殿下のために、薄い薄い粥を作っているのですわ。未だわたくしですらその全容を図り切れぬ殿下の大望、竜の志を分かち合える同士を増やし、殿下の病を癒すために」
彼女の言葉に、辺境伯は息を呑みました。
竜とは空想上の生物ですが、モスティア王国においては王家と正義の象徴です。つまりシスフィナはヴィクス王子に竜の志――王に相応しい器を見た、と言ってのけたのです。
それも、ヴィクス王子の偉大な考えは、エルセロア王子を始めとした凡人たちには到底理解できるはずもない、という皮肉付きで。
言うまでも無く、これはシスフィナのハッタリでした。竜の志どころか、シスフィナはひと欠片たりともヴィクス王子に期待などしていません。
しかし、ナントカとハサミは使いよう。シスフィナとヴィクス王子が出会ったあの日、二人の間でどんなやり取りがあったかなど誰も知らないのですから、シスフィナが堂々としてさえいればどんな嘘も真実になるのです。
唯一真実を知るヴィクス王子は、どうせ部屋の外に出てきやしないのですから。
――わたくしが豚を竜にしてあげる。お代はこの国一つで結構よ。
不敵に笑うシスフィナに返す言葉も無く、辺境伯はついに黙り込んでしまいました。すると今度は平民上がりの参謀が、表情を険しくしてシスフィナを問い詰めます。
「大望を抱いておられるのはエルセロア殿下とて同じ! 竜の志だか何だか知らないが、何をもってエルセロア王子を凌ぐと申すのか!」
「大言壮語する者ほど、隣人の困りごとには目もくれないものですわ。あなた方はエルセロア殿下のため随分とお働きになっているご様子ですが、市井については目を向けておいでですの?」
シスフィナの言葉に今度は参謀の顔が歪みました。彼女は知っていたのです。近頃下級貴族や民の間で、第二王子派に対する不満が高まりつつあることに。
目の前の参謀のように、エルセロア王子が官民問わず才あるものを次々取り立てていることは公の事実でしたが、それは裏を返せば人手不足であるということの証でもありました。
政治慣れした上流貴族の殆どが第一王子派についている以上、第二王子派がそうではない者たちの集まりになるのは必定。それでも第二王子派が派閥としてまとまれているのは、偏にエルセロア王子のカリスマによるものであり、彼の下は決して一枚岩ではないのです。
となれば当然、政治的負担もまた王子に集中します。近頃エルセロア王子だけでは回らなくなりつつある政務の皺寄せは、自然と市井の民や下級貴族たちに向かいました。そのせいで少しずつ、彼に対する不満が高まりつつあったのです。
もちろん第二王子派の者たちも現状を何とかしようと動いているようでしたが、いかんせん経験が伴わない者ばかりですから、如何ともしがたいというのが正直なところでした。
「一方、ヴィクス殿下は大望を抱きながらも、己の従者に手を差し伸べられる優しき心をお持ちのお方ですわ。それ即ち、天を臨みながらも地を見捨てぬ聖人君子、大いなる竜が如し。まさに王たるに相応しき器かと」
一方の第一王子派は彼の母方の家である公爵家を筆頭に、代々王家に仕えてきた由緒ある家ばかり。実務経験も申し分ない実力派揃いです。
……ただ少しばかり、私腹を肥やしたがる古だぬきが多いだけで。
第二王子派が順風満帆という訳ではないことを知っていると、暗に示唆するシスフィナの言葉に市井の参謀は口を噤みました。
そして知恵者二人がシスフィナに呆気なくあしらわれたことに憤ったのか、ソファに深く腰掛けたままだった侯爵嫡男のロージ・ハルバロスがついに立ち上がり、憤慨の声を上げました。
「エルセロア殿下はこの若さで既に幾度も実戦を経験しておられるのだ! 今までろくに外にも出ず、部屋にこもりきりの豚とは比べるまでもない!!」
それは仮にも王族であるヴィクス王子に対する侮辱に他なりませんでした。ここが非公式の場とは言え、外に漏れれば大問題になってしまいます。
そんなこともわからぬような教養の無い男の家だからこそ第二王子派についたのか、そんなことすら知らないからこそ他の侯爵家から距離を置かれてしまったのか。
苦笑するシスフィナは彼を見上げて言いました。
「ようやく立ち上がりましたわね、ハルバロス侯。目上の者を迎える時は、そうやって席を立つのが礼儀というものですわ。あなたの主人はそんなことも教えてくれなかったのかしら。どうやらエルセロア殿下は犬のしつけがあまりお上手ではないようね」
「ンだと……!?」
「それに先ほどヴィクス殿下には実戦経験がないと仰いましたが、誰もが最初はそうではありませんこと? ましてや戦場においては君命に受けざるところありと申しますれば、戦いで優先されるべきは直に指揮を執る将の判断。王命ではございません。王の務めとはいかな将を用いるかにあり、いかにして戦うかではございませんのよ」
「詭弁を……! 現に戦下手な王によって滅んだ国はいくつもある! それはどう言い繕うつもりか!」
「盤上に並ぶ全ての駒が大駒であれば、いかなる指し手であろうと負けようはずもございません。故に、王に求められるのは指し手としての技量ではなく、いかにして敵より多くの駒、ひいては多くの大駒を並べられるかにございます。
指し手の技量など、所詮は駒を揃えられなかった者たちが縋る、最後の命綱でしかございませんわ。その命綱が断たれれば、破滅するは必定。そういう意味ではエルセロア殿下にとっての一番の大駒はあなたなのでしょうが……少々力不足ですわね」
「この女……!」
「よせ、ロージ。お前の負けだ」
今にもシスフィナ目掛けて掴みかかりそうだったロージ・ハルバロスを制したのは、他でもないエルセロア殿下でした。
「ぐ、しかし殿下……!」
「義姉上、我が臣下たちが失礼した。お許しいただきたい」
「構いませんわ殿下。ただ、満足に躾が出来ないのであれば人前に連れだすのはおやめくださいませ。礼節を知らぬ人間は獣と同じですわよ」
悔しそうに顔を歪める従者たちでしたが、王子の手前、反論も出来ません。ただ悔しそうにシスフィナを睨む彼らに、シスフィナもまた厭味ったらしく微笑んで見せたのでした。
「忠言、胸に刻もう。義姉上は過去に比類なき才女と聞いていたが……どうやら噂に違わぬようだ。そなたのような才人が私の元に居れば、これほど苦労はしなくて済んだのだがな――」
するとその時エルセロア王子の視線が鋭さを増して、シスフィナを貫きました。
「――だからこそ聞きたい。私はあの愚兄をそなたよりずっと長く見ている。そして、だからこそ知っている。あの男は大望など持ち合わせていない。ただ己の責務から逃げ続けているだけの負け犬よ。だというのになぜ、そなたはあの愚兄に味方する?」
どうやらシスフィナのハッタリはエルセロア王子には効いていないようでした。しかしそれも無理はありません。彼の言うように、エルセロア王子はシスフィナよりもずっと長くヴィクス王子を見続けてきているのですから。
「才も、覚悟も、そして器も。私は全てにおいてあの愚兄を凌駕している。ただ唯一、生まれだけが劣るのみだ。しかし、生まれなど個人の才覚を図る理由になり得ないことは、私とあの男を見比べれば言うまでもない。義姉上――いや、メルヴィナ・リッシュラード。そなたほどの才人であればそれが理解できるはず。だというのになぜ、あの男に味方する?」
するとシスフィナは、簡潔に答えました。
「王位を継ぐにふさわしい正当性。これは唯一、ヴィクス王子だけが有する物にございます」
「道理のためなら愚者が王になっても構わない、と?」
「国を支えているのは王ではなく官吏。真に才覚を求められるのは官吏であって、王に必要なのはただ、彼らをどこに置くかを考える頭だけ。そしてその頭すら、優秀な官吏が居れば必要ございません。そういう意味では、王とはただ象徴として存在していればよろしいのですわ」
不敬とも取られかねない言葉をシスフィナがつらつら並べていくと、周りの者たちは表情を凍らせました。
しかしその中で、唯一エルセロア王子だけは愉快そうに口元を歪めて笑いました。
「だが、民は必ず優れた為政者を求める。どんな時代、どんな政治体制になろうともだ。真に為政者なき国など存在しない。王無くして民は存在し得ないのだ。ならば王は、優れたる為政者であるべきではないか?」
「王無くして民は無いように、民無くして国は無く、国無くして王はございません。国とは王のためにあるのではなく、この国に住まう全ての者のためにあるのです。ならば為政者たるべき存在が――」
「お嬢様」
王である必要はない。
そう口を滑らそうとした瞬間、エリナの制止が入りました。
さすがにこれを口にしてしまっては不敬罪は免れません。シスフィナは取り繕うようにこほんと咳払いすると「――とにかく」と続けます。
「人は道理と倫理を捨てれば獣と同じ。そして王を継ぐための正統性は唯一、ヴィクス王子にのみにございます。これ以上の理由は必要ございませんわ」
シンと静まり返る部屋の中で、唯一楽しそうに肩を揺らしているエルセロア王子の姿に、彼の従者たちも困惑している様子です。
「クックックッ。王は象徴……なるほど、面白い考え方だメルヴィナ・リッシュラード嬢」
彼らの視線が集まる中心で、シスフィナは悠々と「それはそれは恐れ多きことにございますわ」と会釈して見せました。
「そなたの言い分は理解した。よろしい、今この時はそなたを諦めるとしよう。しかし……私があの愚兄を凌ぎ、王になった暁には――そなたを迎えに行く」
「まぁ、魅力的なお誘いですわ。ならばわたくしは、必ずやヴィクス殿下を王にしてみせましょう」
「ククク。楽しみにしている、メルヴィナ・リッシュラード。行くぞ」
こうして従者たちを従えてエルセロア王子が部屋を後にしたことで、二人のの謁見は幕を閉じたのでした。
王子の去った部屋で、エリナはうっすら汗ばんだ額にハンカチを当てながらシスフィナを咎めます。
「お嬢様……あまり王族を挑発するような発言はおやめくださいませ。命が幾つあっても足りません」
しかしシスフィナは汗一つ見せず、相変わらず涼しい笑みを浮かべたままソファから立ち上がりました。
「結局、王なんて誰がなっても同じなのよ。そう……誰がなっても、ね」
シスフィナは最後まで、出された紅茶に口を付けることはしませんでした。