003_豚王子
知略と美貌、そして公爵家令嬢という生まれまで神様から与えられたシスフィナ・オルヴィルスは、幼い頃から誰にも愛される、美しく愛らしい、そして賢い少女でした。
その聡明さは早くから国中に知れ渡り、10才になる頃には噂を聞きつけた王家の計らいによって王太子ギュール・ラヴタール・ディーグラッツとの婚約が決まり、彼女の人生はまさに順風満帆。誰もが憧れる、公爵令嬢としての道を歩んでゆけるはずでした。
ですが神様は、彼女に肝心なものを渡し忘れていたのです。それはいわゆる、倫理観――一般に心と呼ばれるものでした。
彼女には昔から理解ができませんでした。どうして人々は、わざわざ非効率な生き方をしてまで道徳というものを重んじているのかが。
しかし幼いながらに賢い彼女は、どことなく肌で感じていました。
自身のこの考え方は異常者と呼ばれる側に両足を突っ込んでいるものであり、疑問を抱くこと自体が過ちなのだと。
ですから彼女は、幼いながらに普通の人間を演じようと思いました。
彼女にとって、普通を演じることはそう難しいことではありませんでした。何せ道徳や倫理、心といったものを尊重したフリさえしていれば、誰からも褒め称えられて生きていけるのですから。
人の痛みには理解をもって。人の苦しみには慈愛をもって。そして飢えた者には施しをもって。
慈愛や仁道と呼ばれるものを丁寧に丁寧に指でなぞり、上手く人間に擬態した怪物は、やがて金糸の妖精と謳われるほど博愛に満ちた少女となったのでした。
生まれ。美貌。知略。権威。そして人心。ありとあらゆるものを手にして、人々に称えられ、誰からも愛されたシスフィナは、そうしてようやく理解したのです。
――ああ、この生き方はつまらないわ、と。
◆
数日後。シスフィナと従者エリナの姿はモスティア王国王都モスティス、その王城に在りました。
修道院の院長を含めた僅かな者にだけメルディナの死と入れ替わりについて知らせ、公にはシスフィナ・オルヴィルスが事故死したとして修道院を抜け出したのです。
修道院の院長は敬虔な修道女でした。もちろん、シスフィナがミラーナ修道院にやって来た経緯も知っています。
ですから院長は謂れのない罪で修道院へと押し込められたシスフィナを哀れに思い、彼女を自由にするために手を貸す決意をしたのでした。
まさかそのシスフィナこそが諸悪の根源だとは、敬虔な院長は夢にも思わなかったことでしょう。
少ない少ない私物たちを、小さな小さな鞄に詰めて。シスフィナとエリナはそれぞれの荷物を手に城の中を進みます。
すると辺りからは、二人に向けられるいくつもの視線と話し声が聞こえてきました。
「あれがメルヴィナ・リッシュラード公爵令嬢? 随分と田舎臭い方ですのね」
「クスクス。聞こえてしまいますわよ。それに田舎臭いのではなくて、きっと古き良き文化をお守りになっておられるだけですわ」
「単に王都の流行りをご存じないだけじゃなくて? 見て。従者もたった一人だけ……それにあんな少ない荷物と安物の服。あんな姿で登城するだなんて、わたくしにはとても真似できないことだわ」
「ですがあのくらいの方が、あの豚王子にはお似合いですわよきっと」
声のする方へと視線を向けてみると、声の主は貴族の令嬢やその従者、城の使用人、そして見張りの兵士に至るまで、身分を問わず様々でした。
ここまで徹底的に敵意を向けられるのはいつ以来の事でしょうか。シスフィナは何だか楽しくなって、口元が思わずにやけてしまいます。
それに、気になることはもう一つ。
「エリナ、聞いた? わたくしの婚約者様が豚王子と呼ばれているという噂は、どうやら本当らしいわ」
「はい。調べ通り、周りからも随分と見放されているようです」
実は王都へやってくるまでの道中、シスフィナたちは様々な人物と言葉を交わしながらこの国の情勢を探っていました。
いくら時勢に通じていたシスフィナとは言え、三年も世俗から離れていればその辺りにも疎くなります。
俗世へと戻るリハビリを兼ねての情報収集でしたが、その際このモスティア王国は、王位継承を巡る争いの真っただ中らしいということが判明したのです。
争っているのは第一王子のヴィクス・ザルート・モスティスと、第二王子のエルセロア・バルメーヌ・モスティスの二人でした。
本来、王位の継承権は第一王子にあるものです。ですから次期王座にも当然ヴィクス王子が座るはずでした。
しかし、彼はそのあまりの愚鈍さと醜悪すぎる見た目から豚王子と蔑まれ、誰からも見放されていたのです。
一方、第二王子のエルセロアは腹違いの兄とは異なり、眉目秀麗なうえ聡明で、幼い頃からその頭角を現していたほどに優秀な人物でした。
そのため周囲の者たちはエルセロア王子に期待を寄せましたが、彼の外戚に当たる母方の家は貴族社会では身分も低く、あまり力を持っていませんでした。
それに愚鈍とは言え、本来の王位継承権はヴィクス王子にあります。それを差し置いてエルセロア王子が王位を継ぐことは道理に反することから、派閥争いへと至ったのでした。
そんな中現れた、ヴィクス王子の婚約者たるシスフィナに、周囲の興味と嘲笑の目が向けられるのはある意味当然とも言えました。
「ですが、ここまで人望が無いとなるとヴィクス王子は相当に期待外れの人物のようですね。公爵も、せっかくなら第二王子の方と婚約させればよろしいものを」
エリナの呟きに、シスフィナは「それじゃあつまらないでしょう?」と微笑みます。
「有利な方についても恩は売れないわ。でも、周りが敵だらけの豚王子に付けば、貸しはその分大きくなる。ましてやリッシュラード公爵家の力で王位に就いたともなれば、モスティア王国はリシュラド公国に頭が上がらなくなることでしょうね」
「……つまり、賭けに出たというわけですか」
「小国とは言え一国を治める器を持つ大人物だもの。そのくらいの博打はきっと覚悟の上よ。大した方だわ」
エリナから言わせれば、全くの別人に平然と入れ替わり、そのうえ国盗りのため見知らぬ土地へと堂々と向かうシスフィナの方が余程の人物に思えましたが、そんなことは今に始まった訳でも無かったので言葉にするのはやめました。
その代わり、話題の矛先はこの場に居ない人物へと向けられます。
「ですが、それならベレト様を帰したのは失敗だったのでは? 万が一があり得ますし、いくら私でも武力に訴えられては対処できませんよ」
メルヴィナ・リッシュラードの護衛だったベレトはこの時、彼女達をモスティスへと送り届けると、シスフィナの指示でリシュラド公国へととんぼ返りしていたのです。
もちろん、これには訳がありました。
「仕方ないわ、使える手駒が少なすぎるもの。それに、もしメルヴィナの従者に生き残りが居たなら、捨て置くわけにもいかないでしょう。彼にはしっかりと目を光らせてもらわなきゃ」
本物のメルヴィナと共に事故に遭った従者の中に、もし万が一生き残りが居て、シスフィナとメルヴィナの入れ替わりに気付かれれば、シスフィナの謀は失敗に終わってしまいます。
それを阻止する意味でも、メルヴィナの従者たちの死を確実に見届ける必要があったのです。
しかし、シスフィナがその指揮を執るわけにはいきません。そこで白羽の矢が立ったのがベレトという訳でした。
「今頃彼は、お嬢様の言葉を信じて従者たちを”助けるために”捜索を続けているのでしょうね」
「あら、人聞きが悪いわねエリナ。もちろん私だって、一人でも多く助かっていてほしいと心から願っているのよ? だって死体が見つからなくて生死不明よりは、生きている人間の方が扱いやすいでしょう?」
すっと口元を扇で隠したシスフィナは、その下で吊り上がるような笑みを浮かべたのでした。
「メルヴィナ・リッシュラード様! よくぞお越しくださいました。私はヴィクス王子の従者、グイストと申します。殿下は自室でお待ちです。どうぞこちらへ」
その後、周囲の奇異の視線を集めながら応接間へと通されたメルヴィナは、随分とくたびれた様子の初老の男性グイストに案内され、王子の部屋を訪れることとなりました。
道中、グイストはシワだらけの額に浮かんだ汗を何度も何度も拭いながら、しきりにシスフィナの様子を伺います。
「メルヴィナ様。実は、非常に申し上げにくいのですが……殿下は少々人見知りが激しく……その、受け答えがあまりお上手ではないのです。ですから従者の方も、部屋の外でお待ちいただければと……」
あまりの言われように、シスフィナとエリナは顔を見合わせました。
数少ない味方にそこまで言われてしまうとは。これから会うヴィクス王子は一体どれほど愚鈍な男なのでしょう。
シスフィナはまだ見ぬ婚約者に興味さえ湧いてきました。
「承知いたしました、グイスト様。ですがその方が相手には親しみを感じさせるものですわ。きっと殿下は、王として天性の才能をお持ちの方なのね」
心にもないことを、人好きのする笑みを浮かべていけしゃあしゃあと言ってのけるシスフィナでしたが、グイストは驚いたように目を見開き、そしてすぐに頷き返しました。
「殿下は心優しい方なのです。私のような一介の従者にすら気を使ってくださいます。ですが、それ故に弟君にも遠慮してしまい、はた目から見ると自分の意見も言えないような消極的な方に見えてしまうのです」
「お優しい方なんですのね。ますますお会いするのが楽しみだわ」
シスフィナの言葉に感動でもしたのか、目元に涙を浮かべたグイストは城の奥の部屋までやってくると「こちらです」とシスフィナを案内したのでした。
「殿下、メルヴィナ・リッシュラード様が参られました。お通ししてもよろしいですか?」
部屋の中からは返事はありません。しかし、それがいつものことなのか、グイストは特に気に掛けることもなく「どうぞお入り下さいませ」と、薄暗い部屋の中へとシスフィナを通したのでした。
シスフィナが一人で部屋に入ると、王子の部屋は昼間だというのにカーテンが閉め切られており、日が出ていないのかと錯覚するほどに薄暗い空間でした。
第一王子の私室と言うだけあって奥行は広く、シスフィナが三年間過ごした修道院の礼拝堂と変わらないほどの空間がありますが、逆に言うとそれだけでした。
――随分と殺風景ね。
必要最低限の道具だけを並べましたと言わんばかりの風景は、どこかがらんとした印象を与えます。
そんな部屋を見渡していると、殺風景な部屋の隅に何だか丸い影が一つあることに気付きました。よくよく目を凝らしてみると、それはどうやら人影のようです。
やがて人影と視線が交錯すると、その影はたまらずと言った風におどおどと、その場を彷徨い始めました。
恐らくこの影こそが部屋の主人であるヴィクス王子なのでしょう。
礼節として、臣下であるシスフィナはヴィクス王子の言葉を待ってから口を開かねばなりません。
ですからいつになったらお声がけくださるのかしら、とその影の動きを視線で追いかけて、じっとその時を待ち続けていましたが、いつまで経っても影が喋り出す気配はありませんでした。
これでは埒があきません。仕方ないのでシスフィナは、自分から声をかけることにするのでした。
「……あなた様が、ヴィクス殿下でしょうか」
すると影はビクりと跳ねて何やら困惑するようにわたわたとした後、慌てた様子のまま「そ、そう、です」と歯切れ悪く返事したのでした。
しかし、顔は相変わらず暗がりに隠れてよく見えません。王子の顔をよく見ようと一歩進み出ると、王子は同じだけ遠ざかってしまい、これ以上近づくことすらままなりません。
埒が明かない。そう思ったシスフィナは一度肩を竦めて、自分から声をかけることにしました。
「メルヴィナ・リッシュラードと申します。今日の良き日に殿下にお目通りかないましたこと、光栄に存じますわ」
暗がりの向こうに居る王子に向けてついとドレスの裾を持ち上げて見せるも、彼は何を言うわけでも無く、ずっとハフハフと鼻息を鳴らしているばかり。
本来ならば王子も名乗るべき場面ですが、いつまで経ってもそんな気配は見られません。むしろそわそわと、次にどうするべきかわからないでいるようでした。
――これは重症だわ。
ここにきてシスフィナも事態の深刻さに気付きました。基本的な礼儀すら仕込まれていないことが、貴族社会でどれだけのハンデになるのかは言うまでもありません。
これでは第二王子に取って代わられるのも当然です。
そこでシスフィナは少々不躾ながら、話を進めるため更に声をかけることにしました。
「ヴィクス殿下。良ければカーテンを開けてはいただけませんか? こう薄暗くては、殿下のお顔がよく見えませんわ」
しかしすぐさまヴィクス王子は「そ、それはダメだ!」と声を上げ、拒絶の意を示します。
「ぼ、僕みたいな醜い人間の姿を見せてしまったら、きっと不快な思いをさせてしまう……だから、ダメだ……」
そう思うのなら少しくらい痩せればよろしいのに……とは口が裂けても言いません。善良で心優しい人間は、そんなことを口にしないものなのです。
その代わりシスフィナは、実に人間らしい言葉を選ぶことにしました。
「殿下。例えそうだとしても、いずれは目にすることになりますわ。だってわたくしたちは婚約しておりますもの。これから先、ずっと殿下を視界に入れずに生きていくことなど出来ませんでしょう? ならば今のうちに慣れておいた方が、お互いのためになるのではありませんか?」
ここで半端に『醜くなどございません』なんて言葉を選ぶのは、ヘタクソのやることだとシスフィナは知っています。
人間、その手の分かりやすいお世辞には飽き飽きしているものなのですから。
ましてや王子という立場なら、従者から四六時中おべっかを聞かされていることでしょう。
そんな相手にわかりやすい嘘をつくのは、メルヴィナ・リッシュラードと言う人間をその他大勢の一人にしてしまう悪手でしかありません。
それならばむしろ、相手の言い分をそのまま認め、そのうえでこちらから歩み寄る方が効果的です。そうした姿勢を見せる方が、人間という生き物は相手に好感を抱くものなのですから。
案の定ヴィクス王子もその例に漏れず、シスフィナの言い分に「あ……う……」と逡巡する様子を見せながらも、最終的には彼女の言葉に従うことにしたようでした。
恐る恐ると言った様子でヴィクス王子はカーテンを開きます。差し込まれた日の光によって照らし出された王子の顔は、暗がりで見るよりずっと酷いものでした。
「……まあ」
そこに居たのは、豚でした。
丸々と肥え太った腹に、パツパツの顔。ソーセージのように肉で満ち満ちた太い指。
シスフィナと同じ金色の髪はどこまでも伸ばし放題で顔の上半分を覆い隠し、毛先は脂ぎった頬に張り付いています。そしてその頬も信じられないほどに荒れ放題。
鼻息はハフハフとうるさいし、猫背だからか目線の位置はシスフィナの頭一つ分下。
そして何よりおどおどとしたその態度が、有体に言ってしまえば随分と気持ち悪い印象を見る者に与えます。
――確かにこれは、豚王子だわ。
不名誉なあだ名をつけた人物に、今だけは称賛を送りたい気持ちになるほど、あまりにもあんまりな外見でした。
するとそんなシスフィナの様子に最悪の未来でも予想したのか、ヴィクス王子は悲壮な表情を浮かべると「やっぱりだめだ……!」と再びカーテンを閉め切るなり、大声で叫びました。
「もう出て行って! 一人にして!」
それは強い拒絶の意思でした。察するに、シスフィナに拒絶されるのが怖くて、先に自分からシスフィナを遠ざけようとしているのでしょう。
初日からいきなり踏み込みすぎるのは危険です。こういう場合は時間をかけて少しずつ取り入らなければならないと、シスフィナは経験則で知っています。
ですから今日という日はここまでとして、王子の言葉通り部屋を後にすることを選ぶのでした。
「それでは殿下。また明日」
ついと一礼して、部屋を出たシスフィナを待っていたのは、王子の叫び声を聞いたためか顔面を蒼白とさせたグイストの姿でした。
「メ、メルヴィナ様……! 殿下は……!?」
「残念ですが、どうやら嫌われてしまったようですわ」
冗談めかしてシスフィナは肩を竦めましたが、それを聞いたグイストは息を呑み、額に汗を浮かべます。
「あ、あのメルヴィナ様……! 殿下は、殿下は女性に慣れていないだけなのです! 決して、決して本心からメルヴィナ様を嫌っているわけでは……! ですからどうか……!」
あら、勘違いさせてしまったかしら。グイストの必死な様子に、シスフィナは少し反省しました。
「ご心配なさらないで。殿下と婚約するのが嫌になったわけではありませんわ。むしろ……そう、少し殿下に興味が湧いて参りました。明日また、お伺いいたしますわ」
シスフィナの言葉に驚いたのはグイストの方でした。てっきり王子の姿を見て、婚約が嫌になったものだと思い込んでいたからです。
「それではこれから、よろしくお願いいたしますわね」
そうしてまた、人好きのするような笑みを張り付けて右手を差し出して見せると、グイストは「お、おおお……」と言葉にもならないようなうめき声を上げて、シスフィナの右手を両手で握り返したのでした。
「それで、如何でしたか。噂の豚王子は」
その後、王子の部屋を後にしたシスフィナは、グイストに案内された自室につくなりエリナにそう問われました。
一応辺りを見渡して、彼女以外に誰も居ないことを確認してからシスフィナは笑います。
「まあ、面白そうな方ではあるわね。ナントカとハサミは使いようと言うもの。楽しくなりそうだわ」
シスフィナの頭の中には国盗りのための次なる謀略が、既に幾つも浮かび始めていたのでした。




