002_神様の贈りもの
その幸運は、嵐によってシスフィナの元へと届けられました。
「誰か! 誰か居ませんか! 助けてください!」
それは夏が終わりに差し掛かる、ある嵐の夜のことでした。修道院の扉が、激しく何度も鳴りました。
ミレーヌ修道院があるのはディグランツ王国の西側、国境近くのギルマニア山脈です。この山脈は険峻であることが知られていて、商人や旅人は山脈を避けるように迂回して他国と行き来するのが一般的でしたから、修道院への来客は珍しいことでした。
「まさか、賊でしょうか……?」
何度も鳴る扉を見て、修道女の一人が不安の呟きを漏らしました。しかしシスフィナは、毅然とした態度で彼女を宥めます。
「こんな山奥で、それも嵐の中で困っている人が居るのなら、例え賊であったとしても見捨てる訳には参りません。院長、わたくしがお客様の応対を致します。構いませんね?」
そうして院長の承諾を得るなり、シスフィナはすぐさま侍女のエリナを伴って、明かりを片手に修道院の扉を開きました。
「どなたでしょうか?」
すると扉の前に立っていたのは、雨と泥でぐちゃぐちゃに汚れた、皮鎧姿の年若い青年でした。
その腰には剣が差されており、侍女のエリナは僅かに警戒を強めます。
しかしその青年は、ぼたぼたと雨水が滴る黒い髪を肌に張り付けたまま、シスフィナの顔を見るなり女神にでも会ったかのように助けを求めました。
「ああ、助かった! どうか、どうかお力をお貸しいただけないでしょうか修道女様! 私はベレトと申します! 実は私の護衛する馬車が、この嵐で崖から滑落して近くの崖下に落ちてしまったのです! 馬車にはまだ人が乗っているのです! ですがこの嵐と暗い山道のせいで助けにも行けず……!」
この辺りの山道は、慣れた者でなければ昼間でも歩くことが困難なほど険しいのですが、そんな場所をこんな嵐の中、それも暗い夜道でともなれば、それはもはや無謀というもの。
彼の話を聞きながら、エリナは『そりゃそうなるだろうな』と呆れ気味に胸中で呟きました。
しかしシスフィナは、きっと同じことを思っているだろうに、表情からはその呟きをおくびも見せずに「それは大変なことですわ」と、すぐさま奥に控えていた院長に声をかけました。
「院長様。わたくしはすぐにベレト様と共に、馬車を助けに参ります。手当のご用意をお願いいたしますわ」
しかし歳を召した院長は、首を横に振るとしわがれた声で告げました。
「なりません。この嵐の中を出歩くなど、死にに行くようなものですよ」
「だとしても、わたくしは目の前で困っている方を見捨てることなどできません」
彼女の言葉に、エリナはもちろん他の修道女たちも息を漏らしました。
……但し、エリナ以外の者たちは『さすがは金糸の妖精だ』という感心からでしたが、エリナの場合は『よくそんな心にもないことを息するように言えるな』という感心からでした。
シスフィナの勢いに押され、院長は彼女の外出を許可します。エリナはこの土砂降りの中、真っ暗な山道を歩くのは嫌でしたが、主であり姉妹のように育ったシスフィナが行く気満々である以上、表立って拒絶するわけにもいきませんでした。
シスフィナ、エリナ、そしてベレトの三人は、雨具代わりの厚手の外套を身にまとうと、ランプを片手に馬車の落ちた崖下を目指しました。
「私たちはリシュラド公国からモスティラ王国に向かう途中だったのですが、この嵐のせいで方向がわからなくなってしまったのです……!」
リシュラド公国はディグランツ王国の南に位置する小さな国です。そしてモスティラ王国はディグランツ王国の西、リシュラド公国の北西に位置する大国でした。
きっとギルマニア山脈に入る直前の道を間違えてしまったのだろうな、とエリナは推察しました。
こんな嵐の日に出歩くなよ、とも思いましたがそれを口にしない程度の教養はエリナも持ち合わせておりましたから、その不満は胸中に静かに沈めることにしました。
そうして泥水に侵された山道を、シスフィナの案内を交えながらしばらく駆けると、ベレトの言葉通り崖上から滑落したと思わしき馬車の残骸が暗闇の向こうに姿を現しました。
どうやら嘘をついて修道女を山道に誘い込み、そして襲い掛かるような悪漢ではなかったようです。
「メルヴィナ様!」
ベレトは思わず、といった風に声を上げて馬車へ駆け寄ります。
「メルヴィナ……? まさか……」
呟いたのはシスフィナでしたが、エリナもその名前に心当たりがありました。
そうして先んじて駆けだしたベレトの後を追い、二人も馬車へ駆け寄ります。そこには崖から落ちた際に命を落としたのであろう護衛の者たちの亡骸や、泥まみれで斃れた馬の姿がありました。
「メルヴィナ様、ご無事ですか!? メルヴィナ様!」
かろうじて形を保っている、と言ってもおかしくないほどぐしゃぐしゃに潰れた馬車の扉を引っぺがし、中を覗いたベレトは次の瞬間には絶望の声を上げました。
「そんな……! メルヴィナ様……!」
彼の後ろから馬車の中を覗き込むと、それはもう言葉にするのも憚れるような無残な姿になった女の亡骸がありました。恐らく彼女がメルヴィナなのでしょう。
「メルヴィナと言うと……メルヴィナ・リッシュラード公爵令嬢でしょうか?」
シスフィナの問いかけに、ベレトは力なく頷きます。
メルヴィナ・リッシュラードと言えば、リシュラド公国を治めるリッシュラード公爵の一人娘です。メルヴィナ、という名前に心当たりがあるのも当然でした。
「確か、近々モスティア王家に嫁ぐことになっていたと耳にした記憶が……」
先日商人から聞いた話をエリナが口にすると、ベレトは「そのためにモスティア王国を目指していたのです……」と呟きます。
それはご愁傷様でした、とエリナは胸中で呟きました。もちろん口にも態度にも出しませんが。
公国、などと大層な名前をしてはいますが、リシュラド公国は元々、ディグランツ王国の公爵家が独立しただけの、領主にしては大きいけれど国としてはあまりに小さい小国です。
そのため公爵令嬢を送迎するだけの人数を十分に用意できず、僅かな手勢だけでモスティア王国を目指してしまったが故の悲劇だったのでしょう。
しかし、哀れな公爵令嬢に手を合わせるエリナの隣で、シスフィナの脳裏にはある謀略が駆け巡っていました。
「公爵に一体なんとお伝えすれば良いのか……! 私一人がおめおめと生きながらえてしまった……!」
ぬかるんだ地面にも構わず崩れこむベレトに寄り添って、シスフィナは彼の耳元で小さく囁きます。
「……ベレト様。リッシュラード公爵家には他に娘はおりませんでしたわよね? となると、モスティア王家と誼を通じたかった公爵にとって、これは手痛い失態となるはず。このまま戻れば、ベレト様のお命も危ういかと存じますわ」
雨に打たれるベレトは力なく項垂れるばかり。しかしシスフィナは、そこへ甘い囁きをもたらしたのです。
「ですがあなたは幸運かもしれません」
「……え……?」
「わたくしはシスフィナ・オルヴィルス。メルヴィナ・リッシュラードとは従姉妹の関係に当たります」
その名を聞いた途端、ベレトは跳ねるようにシスフィナと顔を見合わせました。この薄暗さです。いくら彼女が有名だと言えど、シスフィナだと気付かなくても無理はありません。
「あなたが……あなたがあの、金糸の妖精シスフィナ・オルヴィルス様なのですか……!?」
「ベレト様、よくお聞きになって。今、メルヴィナ様の死を知っているのはあなたとわたくし、そしてエリナの三人だけ。今ならまだ、彼女の死を隠し通すことが出来ましょう」
「死を……隠す……? しかし、一体どうやって……!?」
「わたくしが、メルヴィナ・リッシュラードとなりましょう」
慈愛に満ちた怪物の囁きが、ベレトの耳を心地よく撫でます。
「わたくしの母はメルヴィナ様のお母上の妹――つまりわたくしとメルヴィナ様は従姉妹同士ですわ。幸い、髪の色も背格好も似ておりますし、顔も……ごまかせる範疇だとお見受けいたします。知る者が見ればすぐにわかるでしょうが、隣国の者にわかるとは到底思えません」
「し、しかし……いや……でも……!」
「それに何より、わたくしも元とは言え公爵令嬢。礼節や所作はわきまえておりますもの。ならば、これは天命とお見受けいたしました。ベレト様、きっと神様はわたくしにあなたを救えと仰っているのです。わたくしはあなたをお救いしたいのですわ」
きっとベレトには女神の助けにでも思えているのだろうな、とエリナは鼻を白ませてシスフィナの言葉を聞いていました。
彼女は知っていました。シスフィナがいつも、どうやってこの修道院を抜け出そうかと考えを巡らせていることを。
しかし、今まではきっかけがありませんでした。
ギュール王子の見張りは定期的に彼女の様子を伺いにやってきますし、彼らを抱き込んだとは言え逃亡に手を貸してくれるほどシスフィナに肩入れしてくれているわけでもありません。
それに敬虔な修道女たちも、シスフィナが逃げ出せばきっとバカ真面目に報告してしまうことでしょう。
ですが――今なら。
或いは確かに、これは天命なのでしょう。神がシスフィナに囁いているのです。シスフィナの大望を今こそ果たすべし、と。
ベレトはしばらくの逡巡の後、土砂降りの中で唇を噛みしめました。目の前にいる怪物が、胸中でニンマリ笑っていることに気付かぬまま。そして。
「……シスフィナ様。いいえ、メルヴィナ様……! どうか私を、そして公国を、あなたのお力でお救い下さいませ……!」
この日人知れず、心なき怪物が再び世に解き放たれたことに気づけたのは、ごく僅かな人間だけだったのでした。