010_竜心王と妖精妃
「それでまんまとシスフィナ・オルヴィルスに逃げられた……という訳か」
ヴィクス王子が城を後にして数刻後。シスフィナの不在に気付いた見張りの報告を、執務室で聞いていたエルセロア王子は、書類から顔を上げて片眉を吊り上げました。
「申し訳ございません……! 従者を身代わりに逃げ出したようで……恐らくはヴィクス殿下の元かと。すぐに追手を――」
「いや、不要だ。放っておけ」
「――よろしいので?」
しかしそのあまりに呆気ない返答に見張りが驚きの声を上げると、エルセロア王子はすっかり興味を失ったように再び書類の山へと視線を落としました。
「構わん。今ザルトバラン公爵家と事を構える訳には行かん。落ち目とは言え、あれは我が国一の強軍だ。それに……惚れた男を追って全てをなげうつような愚かな女、我が脅威には到底なり得ん。下手に藪をつつく方が面倒だ」
そうして書類にすらすらと署名して、次の書類へと視線を移します。どうやら言葉通り、エルセロア王子はすっかりシスフィナに興味を失ってしまったようでした。
「では、捕えた従者の方は如何いたしますか……?」
「……主人のために犠牲になるとは殊勝なことだ。その覚悟に免じて手籠めにしてやっても良いが……」
「殿下」
エルセロア王子の隣に立つ、市井上がりの参謀が咎めるような声を上げましたが、エルセロア王子は小さく笑いました。
「戯れだ。今更、人質としての価値もあるまい。放してやれ」
「はっ……」
そうして部屋を後にした見張りの背中を見送って、エルセロア王子は呟きます。
「しかし……あの女の言うことは事実だったらしいな。どうやら私に人を見る目はないらしい」
突然の自嘲に、参謀は首を傾げました。
「と、申しますと?」
「よもやこの程度の女が、王佐の才を持つと本気で思っていたのだからな。我ながら、あまりの愚かさに笑いが出る。ギュールの奴も随分とシスフィナ・オルヴィルスを過大評価していたらしい」
言葉の真意にああ、と納得した参謀は、エルセロアに続いて小さく笑みを浮かべました。確かに、そういう意味ではこの城の誰もが人を見る目が無かったのでしょう。
何せ恋に溺れたただの女を、唯一無二の脅威だと本気で信じていたのですから。
「感謝するぞシスフィナ・オルヴィルス……これで我が邪魔をする存在は全て消え失せ、趨勢も決まった」
窓の外を見上げ、エルセロア王子はその口元にニヒルな笑みを浮かべました。
「私こそがこの国の新たな王となる……! ここは私の国だ……!」
もはや彼を阻む者は誰一人としていません。誰の目にも、真の勝者は誰なのか明らかだったのでした。
◆
「――それに、望みが絶たれたわけではございませんもの」
「望み?」
ガタゴトと揺れる馬車の中で、シスフィナは妖しく笑いました。その瞳は、不気味なまでに煌めいていて、ヴィクス王子は思わず息を呑みました。
シスフィナは、その形の良い唇を王子の耳元に近づけると、囁くように告げました。
「わたくしの見立てでは、エルセロア王の在位もそう長くは続かないかと」
それは予想だにしない答えでした。言葉の意味が呑み込めずに目を丸くするヴィクス王子へ、顔を離したシスフィナは尚も笑いかけます。
「エルセロア王は自らの足場を固めるため、官民問わず優れたる者たちを引き立てました。確かに、敵と戦う場合はそれが最良。ですが……乱世の英雄が、治世の能臣とは限りませんでしょう?」
ヴィクス王子とて、比較対象が悪いだけで頭が回らない訳ではありません。シスフィナのその言葉が何を指すのか、すぐに理解してしまいました。
「それは……まさか……」
「あなたという共通の敵を失った彼らは、その才を次は内側に――かつての仲間との派閥争いに向けることでしょう。そして、彼らを起用することで力を得たエルセロア王には、基盤となる後ろ盾が存在しない。あの方は人を使う才こそ優れておりましたが……人を治める才はございませんわ」
シスフィナは滔々《とうとう》と語ります。彼女にはわかっていたのです。エルセロア王子に謁見したあの日、エルセロア王子の政治体制が抱える根本的脆弱さに。
まるでこれからの未来を見通したかのように瞳を煌めかせるシスフィナは尚も続けます。
「そうして世が再び乱れたその時こそ、再びあなたのご運が開けるのです。荒れた世を正し、粗忽な反逆者どもを破り、力無き王を廃し、この国を再び一つにする真の王としての道が。お喜びくださいませ、殿下」
――そう。シスフィナの国盗りは、いまだ終わりではなかったのです。
彼女の頭の中には、既に三度目の国盗りが――それも、今度はシスフィナとヴィクス王子、二人で行う国盗りの盤面が描かれつつあったのでした。
彼女の考えを知ったヴィクス王子は、彼女の新たな謀略に言葉を失いました。或いは敗残の中にあってなお、その輝きを失わないシスフィナに、心を奪われていたのかもしれません。
とは言えそれを手放しに喜ぶことが出来ないのもまた事実でした。
「世が乱れれば、苦しむのは民だ。それを喜ぶことなんて……」
しかしシスフィナは首を横に振ります。
「確かに民は苦しみましょう。ですが、それもこの先長きに渡る治世のため。どのみち痛む腹ならば、一度で済ませた方がよろしいでしょう?」
「君は……僕にそんな大それたことが本当に出来ると、そう思うのかい?」
「王位を継ぐ正当性、万民の上に立つ器。あなたを支持する貴族の数、後背を山に守られたザルトバランという土地の優位性――そして何より、わたくしすらも心服させてしまうそのお人柄。この天下に、あなたより優れたる王は存在いたしません」
シスフィナは一息にそう告げると、胸の前で手を組み合わせ、恭しく礼をして見せました。それはとある小説の中に出てきた、真の王を迎え入れるための従者の礼でした。
頭を下げたシスフィナは、その下でにんまりと笑みを浮かべてその言葉を口にしました。
「祝着至極に存じますわ、真王陛下」
シスフィナにはきっと、既に見えているのでしょう。ヴィクス王子が戴冠し、この国を治めるその姿が。或いは、きっと彼女が王子をその座に押し上げる様が。
「……君はひどい人だ、シスフィナ・オルヴィルス。無能な豚王子を、王に担ぎ出そうと言うのかい。他ならぬ君の望みを叶えるために」
「わたくしたちの望みのため、ですわ。愛する人も、この国も、両方を手に入れる。それがわたくしの本当の幸せ……シスフィナ・オルヴィルスの生き方なのですわ」
「やれやれ……これも惚れた弱みかな。君にそう言われると、なぜだか出来そうな気がしてくるよ」
諦めたように笑ってみせたヴィクス王子に、シスフィナもまた微笑み返しました。
「出来ますとも。あなたはわたくしを人間にしてくださった方なのですから。今度はわたくしが、あなたを王にしてさしあげます」
「それなら僕は、君のためにこの国を奪うとしよう。この国全てを君に捧げ、僕の愛を証明する。例えこの後の歴史に、愚王としてこの名が刻まれたとしても、だ」
「素敵……ずっとお傍におりますわ殿下。もし殿下が愚王として処刑される時は、ぜひともわたくしもお供させてくださいましね? 置いて行っては嫌ですよ」
「正真正銘、ここから先は国家転覆罪だ。失敗したら二人揃って処刑台送り……穏やかじゃないけど、悪くはないね」
「うふふ。殿下、今すごく悪いお顔をなさっておいでですわ」
「そういう君は今日も美しいよ、シスフィナ」
「愛しています、ヴィクス様」
「僕も愛してるよ、シスフィナ」
そして二人はゆっくりと、深い深い口づけを交わしたのでした。
――後に三公の乱と呼ばれる、モスティア王国全土を巻き込んだ内乱を制し、新たなる王となったヴィクス・ザルート・モスティスの国盗りは、或いはこの日から始まっていたのでしょう。
後に簒奪王、或いは竜心王と呼ばれることになる彼の傍らには、妖精妃と謳われたシスフィナの姿が常にあったと伝わっています。
ヴィクス王は65歳でこの世を去るまでに七人の子を成しましたが、生涯に渡って側室を持つことがありませんでした。
彼の愛を一身に受けたシスフィナは、ヴィクス王が亡くなった一月後に心を病み倒れるその時まで、彼から初めてプレゼントされたぼろぼろの小物入れを手放さなかったのだと言い伝えられています。
彼らが礎となり築き上げたモスティア新王国は、その後彼らの子孫が統治を続け、四百年に渡り戦のない穏やかな国となりました。
後の穏やかな時代に、建国の祖である竜心王と妖精妃は仲睦まじい夫婦を言い表す言葉として、永く永く語り継がれていくのでした。
――これにて『竜心王と妖精妃』のお話はおしまいです。
……え? どうしてメルヴィナ・リッシュラードとして生きたはずのシスフィナの名前が、こうして妖精妃として記されているのか……ですって?
それは二人のその後にまつわるお話になるのですが……それを語るのは、また別の機会と致しましょう。