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001_金糸の妖精

「シスフィナ・オルヴィルス。今日限りで君との婚約を破棄させてもらう」


 それはディグランツ王国王太子、ギュール・ラヴタール・ディーグラッツ殿下の18歳の誕生日会でのことでした。


 誰もが祝福するこのめでたき日に、ギュール王太子は自身の婚約者、シスフィナ・オルヴィルス公爵令嬢に婚約破棄を突き付けたのです。


「殿下……? 一体わたくしに何の謂れがあって、婚約破棄などと仰っておられるのでしょうか?」


 広々とした会場のど真ん中、何とも不名誉な糾弾劇に見舞われることとなったシスフィナは、持ち前の長い金の髪を揺らして、彫刻のように整った目鼻立ちを今は怪訝そうに歪めていました。


 そんな彼女の毅然とした振る舞いに、ギュール王太子もまた不快感をあらわにします。


「証拠ならある。これはミルファリア・デーゲンブラム男爵令嬢からの告発文だ。ここには君が犯した罪の数々が記載されている。みなも目を通すと良い」


 そう言ってギュール王太子が派手にばら撒いたのは、シスフィナがミルファリア男爵令嬢に対して行ったとされる嫌がらせの数々と、それらとは明らかに毛色が異なる、汚職事件の証拠の数々でした。


「これは……」


 目にした貴族たちは言葉を失いました。何せあまりにも荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい内容だったからです。


 ミルファリア男爵令嬢に対する嫌がらせは本当に嫌がらせ程度の範疇でしかなく、悪口を吹聴しただとか肩をぶつけてきただとか取り巻きを差し向けて危害を加えただとか、貴族の女にとっては挨拶のような内容ばかり。


 こんなことで逐一婚約破棄をしていては、貴族社会で結婚など成り立ちません。こちらに関しては誰もが鼻で笑いました。


 しかし問題はその次の、汚職の証拠とやらでした。


 内容は先日急死した大臣の暗殺に加担したとする証拠や自身の家の息がかかった役人による横領への加担、さらには王家に対する叛意など、一つで処刑されてもおかしくない罪が、証拠を伴ってずらりと並んでいたのです。


 一瞬、誰もが驚愕のあまりそれらの資料に視線を落としましたが、やがて困惑のざわめきは少しずつ呆れへと変わっていきました。


 何せその証拠とやらは、どれもシスフィナが裏で関与した"かもしれない"という推察によるものばかりで、決定的な証拠は何一つなかったからです。


 まぁ確かに、そう言う見方をすればそう思えなくもないな、程度の証拠では、さすがの貴族たちも苦笑せざるを得ませんでした。


 そして何より、この時シスフィナは未だ17歳。自領の政務にすら就いていない未婚の彼女が、そんな大それた罪を犯すことは誰の目にも不可能で、それが冤罪であることは明らかだったのです。


「……」


 告発文に視線を落としたまま言葉の一つもこぼさないシスフィナに、ギュール王太子は冷たく声をかけます。


「言葉も出ないか、シスフィナ・オルヴィルス。だがこれ以上の問答は不要だな? 本当ならこのまま君を監獄送りにしてやっても良いのだが……しかし、ミルファリアは君に情けをかけると言っている。国境沿いのミラーナ修道院で大人しく一生を過ごすなら、監獄送りは免除してやろう」


 いつしか王太子の隣には、ミルファリア男爵令嬢の姿がありました。シスフィナが煌びやかで彫刻のような、洗練された美を湛えた女性だとするならば、ミルファリアは小動物のような愛らしさのある、くりくりとした少女でした。


 栗色の髪を結いあげて、フリルでぶりぶりしたピンクのドレスを身にまとった彼女は、潤んだ瞳で王子の隣にじっと寄り添います。


 この婚約破棄騒動を遠巻きに眺めていた貴族たちは、ようやく事態を察しました。


 きっとこの下らない茶番劇は、本来ならば結ばれることのない二人が真実の愛を育むために必要な儀式なのでしょう。


 近頃ギュール王太子は、男爵令嬢と秘密の逢瀬を重ねているともっぱらの噂だったのですから。


 しかしそんな馬鹿げた茶番劇では、王太子や男爵令嬢の名誉が傷つくばかり。誰の支持も得られないことは明白でした。


 何せシスフィナ・オルヴィルスはその容姿の美しさもさることながら、品行方正、温厚篤実という言葉をそのまま人間にしたような人物で、貴族平民身分を問わず、自国の民全てを愛し、誰からも愛されていたからです。


 かつて吟遊詩人が彼女ことを"金糸の妖精"と謳った逸話は、この国に住む者なら誰もが知っているほどでした。


 ですから貴族たちは、てっきりシスフィナが今回の糾弾劇を鼻で笑い、真実の愛などというふざけた妄執で王族に取り入ろうとする、愚かな男爵令嬢をしかりつけるものだと思っていたのですが……


「……もはやわたくしの言葉では、殿下に届くことはないのでしょう。承知いたしました、このシスフィナ・オルヴィルスは本日をもって婚約者の身分を辞し、殿下のお言葉通りミラーナ修道院に入ることと致します。ですから、我がオルヴィルス公爵家並びに領民への懲罰はお許しくださいませ」


 ドレスの裾をついと持ち上げて見事なカーテシーを披露すると、騒然とする貴族たちを置き去りにして、シスフィナはそのまま会場を後にしたのです。これには誰もが言葉を失いました。


 そして言葉通り、翌日には荷物をまとめたシスフィナは、すぐさまミラーナ修道院へと向かって馬車を走らせました。


 お付きの者は彼女の乳母姉妹であり、気心の知れた従者のエリナただ一人。それは国中から愛された妖精の、寂しい旅立ちとなったのでした。


 この一件は、ディグランツ王国を大きく揺るがす事件となりました。


 王家は国中から非難を受けて、一時はギュール王太子の廃嫡問題にまで発展したのです。


 しかし王は息巻く貴族や民たちを何とかなだめて、表向きは一連の騒動に決着を付けたのでした。


 とは言えこの追放劇が国内に与えた影響はあまりに大きく、王家の威信を傷つけ、貴族への信頼を損なわせると共に、不穏な空気を国内に横たえる結果に終わったのでした。


 ――それから三年。修道服に身を包んだシスフィナの姿は、未だミラーナ修道院にありました。ここでも持前の品性と慈愛で誰からも愛されることとなった彼女は、今日も一人、祈りを捧げます。


「ああ神様。どうかもう一度だけ、わたくしに機会をお与えくださいませ」


 敬虔な彼女の姿はほんのり暗い礼拝堂の中で柔らかな朝日に照らされて、まるで神の祝福を受ける聖女のように思えました。


 彼女は今日も、その存在を欠片たりとも信じていない神様に祈り続けます。


「今度こそ、必ずや成功させてみせますわ。もう二度とあのような無様な負け方は致しません。ですからどうか、もう一度だけ。わたくしに国盗りの機会をお与えくださいませ」


 ――金糸の妖精と謳われ、誰からも愛された公爵令嬢シスフィナ・オルヴィルス。


 彼女が隠し続ける本当の顔は、もう後一歩のところで国家簒奪に成功していた、国盗り令嬢としての本性でした。


 彼女は本来ならばとっくに処刑されてしかるべき罪をいくつも犯しながら、その狡猾さゆえに一切の証拠を残さず、暗躍の限りを尽くした極悪令嬢だったのです。


 彼女の本性を知るのは、侍女のエリナとギュール王太子、そして王太子と共に汚名を被り、それでも王家と国のためにシスフィナを打ち倒すことを決意した男爵令嬢のミルファリアだけ。


 両親すら知らない本性を隠し続けていた彼女は、女の身でありながら卓越した才能を持て余してしまい、それゆえ何をしても満たされない昏い昏い虚しさを埋めるためだけに、その魔手を王家へと伸ばしていたのでした。


 もしこの世界にシスフィナに並ぶ才が存在しなければ、とっくに彼女はこの国を手に入れていたことでしょう。


 しかしディグランツ王国にとって幸運だったのは、シスフィナがそうであったように、ギュール王太子もまた歴史上類を見ないほどに聡明な人物だったことでした。


 彼は自身の婚約者の腹の奥底で口を開ける、大きく昏い不気味な何かを感じ取り、独自に調査を続けていたのです。


 そうして揃えられた証拠の数々――荒唐無稽にも思える、しかし偶然にしては出来過ぎている罪の数々こそ、シスフィナの暗躍を裏付ける証拠だったのでした。


 ですがギュール王太子には時間がありませんでした。既にシスフィナの魔の手は王家の首元まで伸びており、そのことに気付いているのは王太子だけだったからです。


 誰に訴えても相手にすらしてもらえず、唯一彼の言葉を信じた大臣は数日後に謎の不審死を遂げました。


 だからこそギュール王太子は、一見すると余りに愚かな、しかしだからこそシスフィナにも読めなかった一手を打ち出さざるを得なかったのです。


 あの婚約破棄と告発文は、ギュール王太子からシスフィナに向けた、二人だけが真の意味を理解できる痛み分けの講和文でした。


 この告発文が表に出た以上、暗躍を続ければシスフィナを疑う者が現れる。そうなれば困るのは君のはずだ。だからここで手打ちとしよう。この婚約破棄で王家が揺らぎ、国が乱れるならばシスフィナの。この乱れを取りまとめ、再び安定させられれば王家の勝ちだ。


 そういう意味の休戦協定でした。


 余りに愚かで余りにめちゃくちゃなその一手に、しかしシスフィナはある種の喜びすら覚えました。


 賢すぎる彼女にとって、予想外の事態とはそれだけで退屈な日常を彩り、胸を躍らせる甘美なイベントだったからです。


 王子の言う通り、これ以上の暗躍は不可能だと悟ったシスフィナは、非日常を演出してくれた王太子への礼代わりとして大人しく修道院へと収監されることにしたのでした。


 そうして三年。情勢は未だ、ギュール王太子の優勢下にありました。


 男爵令嬢とうつつを抜かした愚かな王太子とは思えないほど、外交にも内政にも卓越した手腕を振るう彼は、見事王太子の座を守り抜いたのです。


 この三年で彼に対する国内の評価も少しずつ好転し、恋に頭を焼かれた情熱家の王子様という立場が確立されつつありました。


 こうなるともはや、シスフィナにも付け入る方法はありません。彼女が表舞台を去る時が来たのです。


 こうして、シスフィナの胸の奥にぽっかりと空いた昏い昏い虚しさは満たされないまま、彼女の国盗り劇も幕を下ろしました。


 彼女が表舞台に立つ機会はそれから二度と訪れることなく、退屈で平凡な余生を送る――はずだったのです。


 面食いで女好きでシスフィナのことを溺愛しているこの世界の神様が、このまま大人しく引き下がってさえいてくれれば。


 しかし神様に、そんな分別はありませんでした。


 シスフィナに人並外れた美貌と英知を与えるだけでは飽き足らなかった神様は、今再び、彼女に国盗りの機会まで与えようとしていたのです。

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