カレー・カレー・カレー(後編)
「けひょうひんもわひゅれないでくださいまひゅね」
ああ、化粧品もガッツリねだってるし。
「いやー、ものの見事に全員とりこまれてますねえ」
副官も驚いていた。婚約者や侍女たちは地上の人間に気を許すなと言われている。それとたやすく親しくなるとは、この女いったい何者か。私の体には、カレーのためとは思われぬ汗が浮かんでいた。
「本当は私より、家内の方が政治家に向いていると思うんですがね」
総理が言った言葉が正しいと、今まさに思い知らされている。……これは、婚約者を連れてきたのは失敗だったかもしれんな。追い詰めようとしてこっちが壁際に寄せられていては、世話がない。
ここはあくまで懇親会の体を装い、大事な話は何もせず逃げるに限るな。
「おかわりだ」
「大盛りにいたしましょうか?」
「……分かりきったことを言うな」
いらだたしさを感じつつも、私は総理に向かって皿を差し出した。
その三十分も後には、巨大な鍋を満たしていたカレーは、嘘のようにすっかりなくなっていた。
迎賓館を後にし、総理夫妻は車中の人となった。会話は聞かれているおそれがあるため、妻ともアプリで会話する。無論、時折関係の無い会話を挟みながら。
『結局、ただの懇親会ってことにされてしまいましたね』
車が下り坂にさしかかったとき、妻が切り出した。
『まあ、仕方ない。一つ目的が達成できただけで良しとしましょう』
彼らに米の味を覚えさせ、母国で消費させるきっかけを作る。今回、新たに女性たちを巻き込むことができたのは、確かに朗報だった。
『どうかしら? だいぶこれでお米が減ったかも』
『まさか』
総理はわずかに皮肉っぽい笑い方をした。
一般的な会席や立食のパーティーではなく、カレーを持ち出してきたのは妻だった。そういう目的があるのなら、こちらがうってつけだと言って。確かに、普通のコースの何倍もの米を食べさせることに成功している。
だが、その程度の米など、消えてしまった分のほんの一部でしかない。まだ、長い長い道のりの半ばにしか過ぎないのだ。
『そうよね。つまらないことを言ったわ』
緩やかな道を見ながら、他愛もない会話をする。その時、妻が不意にメッセージを送ってきた。
『……でも、途中で辞めるなんて許しませんわよ』
総理ははっとした。いつもそうだった。選挙戦で厳しい時も、四方八方から責められた時も、そして地底人に敗れた時も。自分の背中を押したのは常に彼女だった。
彼女の言う通りだ。人々の生活がかかったこの戦い。先は長くとも、諦めるわけにはいかない。
分かっている、という風にうなずくと、ようやく妻がにっこりと笑った。
『それでは、次はどんなお料理にいたしましょう? 私、得意料理なら本にするほどあるのよ』
『よく分かってますよ。そうですねえ、久しぶりに何が食べたいかなあ……』
窓の外は墨を流したような夜空に変わりつつある。その闇の中を、一条の流れ星がゆっくりと流れていった。